再会
衣服を整えた長老たちは、まるで先ほどの騒ぎなど初めからなかったかのように席へ戻り、静かに腰を下ろした。部屋には椅子とテーブル以外、何もない。余計な物音がないぶん、椅子の脚が床を擦る音が妙に耳につく。
けど——もう、あの張り詰めた緊張はほとんどなかった。さっきまで威厳に圧されそうだった空気が、今は驚くほど軽い。
「女神はどこにいるのですか?」
誰ともなしに聞いてみたら、熊族長老が穏やかに笑って教えてくれた。
「女神はぉ山にぉるよ。どこからぁでも見ぇる、雲で覆われたぉ山じゃ〜」
けれど、狐族長老の声は沈んでいた。
「女神に拝顔叶わず、光なき百五十年を過ごしてまいりました……。お姿を、賜りたく存じます」
「直接会ったことがあるんですか?」
思わず聞いてしまう。百五十年という時間の長さが、信じられなかった。
「幼きころに……わたくしを抱き上げ、毛並みを整えていただきました。それも——女神のみが使える櫛で……」
彼の瞳が遠い記憶を映す。
「……長生きしすぎたじじいなだけやんけ。ワイがその頃おったら、お前なんぞ、女神の視界にも入らへんわ!」
その横で、兎族長老が耳をぴくぴくと動かしながら毒を吐く。もう、毛皮争いにも慣れた。笑いが漏れそうになるのを一呼吸でこらえてから、聞いてみる。
「もし、他にも女神についての伝承があれば、教えてください」
そう言うと、狼族長老が目を細めた。
「なぜ知りたがる?」
「魔力が寿命に影響するなら……女神に会えるかもしれません。バーツを一人にしないと誓いました。だから——帰らないために、帰り方を知りたいんです」
その言葉に、狼族長老はしばらく黙っていた。けれど、穏やかな目で微笑んだ。
「そうか……。なら、まずバーツと話すことだ。——お前の言葉には、"女神の匂い"がする」
優しい声だった。閉じ込められていた部屋で、初めて会った時と同じ声だった。
「我らの話を聞き、何か思いつくことはあったか」
狼族長老が、楽しそうな目で質問してきた。
「うーん……まだ考えがまとまっていないので、はっきりとは言えません。でも一か所、大きな違和感があります」
「どこにだ」
「『卵巣が一つになったから妊娠しにくくなった』という点です。私の世界では、妊娠のしやすさ自体にも個人差がありました。……メスはなんと言っているんですか?」
その問いに、場の空気がわずかに沈んだ。長老たちは互いに短く視線を交わし、やがて狼族長老が答える。
「……話せん」
「え? 秘密ですか?」
「違う。……見ればわかる」
その一言に、胸の奥がざわつく。
——会う、じゃなく、見る? 何を見ればわかるの?
結局、翌日にメスたちと面会することで話は決まり、聴聞会は閉会となった。
静まり返った部屋の中で、長老たちが椅子を引く音がやけに大きく響く。その音を聞きながら、私は背筋の奥に、薄い不安の膜のようなものが張り付くのを感じていた。
聴聞会の部屋を出ると、廊下には兵士が四人、きっちり二列に並んでいた。
心はすでに落ち着きを取り戻していて、部屋へ戻る道を歩きながら、彼らを観察する余裕がある。尻尾の形、耳の位置、体格——どれも微妙に違う。
——狼、虎、兎、狐……かな。
その中で、ひときわ目を引く兵士がいた。狼の尻尾を持つ兵士。顔は正面を向いたままなのに、彼の目だけが、わずかに横へ流れている。
視線の先を追うと、右側、中庭を挟んだ先にある、木目の扉。
彼は一度だけ、私に視線を投げた。ほんの一瞬、目が合う。次の瞬間には、何事もなかったように、また扉へ視線を戻していた。言葉はない。けど——まるで「気づけ」と、目だけで伝えられたような気がした。
私の胸がざわつく。
通り過ぎかけた、そのときだった。兵士の口元が、はっきりと引きつるのが見えた。
——あの扉の、向こうに……?
胸の奥で何かが弾けた。考えるより先に、身体が動いていた。私は一気に駆け出す。近づいた瞬間、扉は音もなく開き、次の瞬間には、力強い腕が私を引き寄せた。
「ルルッ!」
「……バーツ!」
その声が身体に届いた途端、堰を切ったように涙が溢れ出す。喉が詰まり、嗚咽しか出てこない。
「ォレノ……おれのツガィ……おレのルル……オレの……俺ノメス……」
バーツは私を強く抱きしめ、顔や髪、額、頬——思いつくままにキスを落としながら、壊れたみたいに、何度も私の名を呼び続ける。
その声に混じる、濁った息。胸の奥を擦るような、不規則な音。
——おかしい。
そう思うのに、心配を言葉にする余裕がない。ただ、震える腕で、必死に彼の背中を抱きしめ返す。やっと口から零れたのは、
「……寂しかった」
それだけだった。
バーツの背中越しに、さっきの兵士が、他の兵士たちを制しているのが見えた。
「何や、この騒ぎや?」
兎族長老が聴聞会の部屋から顔を出した。
「メスがオスに接触。今、引き離すところです」
虎の兵士が短く答える。
「オスが無理やりなんか?」
「違います。メスが勝手に走りました」
「……ほな、メスの意思やったらかまへん。一緒に部屋へ連れて行き」
その瞬間から、私とバーツは、三日間——一歩も離れなかった。
翌日に控えていたメスとの面会の約束なんて、頭から完全に消えていた。そんなことを考える余裕は、どこにもなかった。私自身も、胸の奥が裂けるほど寂しくて、限界だった。けれど、バーツは、それ以上に酷かった。
目は赤く充血し、口調は乱れ、動きも落ち着かない。
「一緒になれば攫われない……離れたらまた取られる……イヤだ……」
そんな独り言を、ぶつぶつと繰り返す。時折、涎を垂らしながら、私の首筋を舐め、抱きしめ、まるで食べようとするみたいに歯を立てて——低く唸り、そして、自分で必死に踏みとどまっていた。
私は、その狂気じみた衝動が収まるまで、必ずどこか一か所は、彼と触れているようにした。
正直に言えば、彼に食べられるのなら、それでも構わない。けど、私を食べたあと、バーツはきっと壊れる。今、目の前にいる彼を見ていれば、それがどれほどの苦痛か、嫌でもわかる。
——二度と、こんな目に遭わせない。
止まらない涙が、また溢れてくる。私は目の前にあるバーツの頭を、強く、強く——抱きしめた。
それから私たちは、ずっと、互いに抱き合い、舐め合い、私の取り留めもない話を聞くだけという、世界に二人しかいない時間を重ねた。
少しずつ、バーツの目から濁りが消え、声が落ち着き、空気が、いつもの彼に戻っていく。
朝、目を覚ますと——そこには、フェロモンを孕んだ、あの垂れた優しい目で、私を見つめるバーツがいた。すべてを包み込むような、温かな眼差し。
「……おはよう、バーツ」
「あぁ、おはよ、ルル……俺のツガイ」
あのあと、ずっと経ってからバーツに教えてもらった。
メスとの面会の約束は破ってしまって怒られると思っていたけど、狼族長老は、初めから全部わかっていたみたいだ。表向きは「明日」と言っておきながら、準備は何もしていなかったんだって。兵士の行動についても、教えてくれた。
——狼族のオスは、メスと引き離されると急速に衰弱する。
これはこの世界の常識。あの兵士はバーツの幼馴染で、一族伝いに「バーツがメスと離された」と聞いて、今回のことを実行してくれたんだって。
バーツがお礼を言いに幼馴染の家に行ったら、「お前のためじゃない。ツガイと離されたメスがかわいそうだから、しただけだ」と苦みを潰したような顔で言い、お礼のお肉をぶんどって追い返されたみたいだ。バーツは「あいつは変わらねぇな」と、大爆笑していた。
仕事が溢れている世界じゃない。きっと、彼が大事な職をかけてまで助けたかったのは………。止まったと思った涙が、また出そうになった。
「……あいつの視線? そりゃ長老の仕込みだな」
メスの意思に反して、オスが執着しすぎる例は多い。だから長老は、あくまで"私が自分で走る"ように仕向けたみたいだ。「……策略家だね」と笑ったけれど——聴聞会のあと、「会えるだろ」と、あの優しい声で言っていたっけ。
長老、本当にありがとうございます。おかげ様で、私と、バーツは——壊れずにいられました。




