バーツ
重力が消えた。
いや、違う。
重力という概念そのものが、壊れた。
私は「落ちて」いる。
でも、どこに向かって落ちているのかわからない。
下へ?
違う。上にも落ちている。横にも。斜めにも。ありとあらゆる方向へ、同時に。
ジェットコースターのような浮遊感とも違う。
あれは、まだ「下に落ちる」という一方向の感覚だ。でも今、私の身体は、全方向に引き裂かれるように引っ張られている。
上も下もない。
前も後ろもない。
ただ、「落ちる」。
落ちて、落ちて、落ちて、落ちて――
悲鳴を上げようとした。
でも、声が出ない。
いや、声が出ているのかもわからない。意識という概念すら、ここにはない気がする。
目を開けているのか、閉じているのかもわからない。
パニックになっている。
――いや、パニックになっていることすら、わからない。
何かを考えようとしても、思考が形にならない。
恐怖という感情すら、掴めない。
時間が流れているのかもわからない。一瞬なのか、永遠なのか。
落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて――
――そして、空間から吐き出された。
地面に叩きつけられた衝撃で、意識が一気に自分に戻ってくるのを感じる。
痛い。
身体のどこもかしこもが、痛い。
目がゆっくりだけど開けた。でも、視界がぼやけていて、何もわからない。目を何度か瞬かせて、ようやく焦点が合ってきた。
そこは――地獄だった。
凹凸のある黒い地面と、死体。
何体も、何体も。
首のないものがある。
手足がもぎ取られたものがある。
胴体が半分しかないものがある。内臓が――。
臭いが来た。
脳のどこかが、これを"現実"と認識している。
でも、目に映っているものが信じられない。
身体から力が抜けていく。座っていることもできず、汚れた地面にずるずると横倒しになっていく。
気持ち悪い。
頭が痛い。
目の前が暗い。
身体中が不快のアラートを鳴り響かせている。なのにその不調すら、どこか遠くに感じる。まるで、自分の身体じゃないみたいだ。
そして最後には、目を開けていることすらできなくなり――生まれて初めて、私は気絶した。
今日の戦いも、ひでぇ有様だった。
また一人、仲間が左腕を失くしちまった。動けるようになるまでしばらくかかる。誰かが面倒を見てやらなきゃならねえ。
それに比べりゃ、俺はまだマシなほうだ。指も目も揃ってる。胃袋も、まだ腹の中にある。明日も戦場に立てる。ありがてぇやら、虚しいやら。どっちの感情が正しいのかも、もうわからねえ。
何のために戦ってんだろうな。
親はとっくに死んじまった。親父が戦場に立つとき、いつも言ってたな。「順番で逝きたい」と。
順番なんて概念、戦場にはねえんだけどよ。
俺より先に死ぬなって、そういう願いだったんだろう。
親父は背中を裂かれて逝った。お袋は腹を食い破られて逝った。虫どもに。
もう守るものはねえが、仲間と生き延びなきゃならねえ。どこかで待ってる俺のツガイに会うためにも――それだけが、俺を立たせてる。
森からの帰り道。
身体も、心も、疲れ果てていた。ぼんやりと地面を見ながら、足を引きずって歩く。血と泥にまみれた靴が、一歩ごとに重てぇ音を立てた。いつもと同じ帰路だった――はずだ。
ふと、足が止まった。
自分の意思じゃねえ。身体が、勝手に止まった。そして無意識のうちに、地面から顔を上げて、左を向いた。疲れ切った脳みそは、その一連の行動の意味を理解できなかった。ただ向いた先の光景を、目に映しただけだ。
カケテナイモノガアル
はだかのめすがいる
ツガイが――いる。
認識した瞬間、脳が焼き切れそうになった。
ツガイが――戦場に――動かない――。
疲れなんざ、吹っ飛んだ。ていうか、吹っ飛んだフリして、脚が勝手に動いた。
焦りだけが前へ突っ走って、感覚がチグハグだ。心臓がバカみてぇに鳴ってる。まるで夢の中を泳いでるみてえで、現実かどうかもわからねえ。
……急げ、クソッ。間に合え――!
やっとの思いでたどり着いて、抱き上げようと手を伸ばした。指先が、触れた。
その瞬間――
――俺の全身の神経が、ビリッと音を立てて目を覚ました。
生きてるか、確かめなきゃ――。
頭はそう叫んでいるのに、身体が言うことを聞かねえ。全身が、コイツの存在を感じることに夢中になっちまってる。
この匂い、この温もり、この感触。
ツガイが、ここにいる。
それだけを、身体が必死に確かめていた。
空回りする心と身体を、全部まとめて無理やり押さえつける。
そっと、ツガイを抱き上げた。
長いストレートの黒髪が、俺の腕からスルリとこぼれ落ちた。肌は柔らけぇのに、ひどく冷てぇ。まるで今にも、命が壊れそうで。
ゾッとした。
気づけば、ツガイの首筋に鼻を埋めて、匂いを吸い込んでいた。脳天をぶち抜いて、その匂いが俺の中を駆け回る。
……生きててくれたか。
震えが止まらねえ。無意識のうちに、ビビってたんだろうな。この身体が、もう動かなくなるんじゃねえかって。
けど、温もりがあった。
ちゃんと、あったんだ。匂いも。
それだけで、どうにか立ってられた。
そっと上着を脱いで包んだ。抱きしめて、頬を擦り寄せて、何度もキスをした。
額に。頬に。髪に。
暖炉を丸ごと飲み込んだぐらいに、胸が熱くなってきやがる。
……ようやく、だな。
ずっと、夢に見てたんだ。ずっと探してた。どこまでも、何年も。
遅れちまって、悪い。
一人で、寒かったろ。よく、耐えたな。
気づけばキスに頬ずりに――少しだけ、齧っちまった。何度も自分に言い訳した。生きてるか確かめてるだけだ、ってな。
嘘だ。
触れたくて仕方なかっただけだ。この命の温もりに、ただすがりたかっただけだ。包み込む匂いと温もりが、荒れていた俺の中の獣をゆっくりと鎮めていく。やっと頭が冷えてきた――そう思ったまさにその矢先だった。
なんで、裸なんだ?
一瞬で、血が逆流した。
誰かが、コイツに――――俺のツガイに、何かを?
怒りというより、明確な殺意だった。
虫どもを狩るのはただの作業だ。でもこれは違う。脳みそと心臓が真っ赤に煮えたぎって、視界が赤く染まっていく。誰だ。どこのどいつだ。見つけたら、バラバラにしてやる。一片残らず、踏み潰してやる――。
「ん……」
身じろぎする声で、我に返った。
……クソ、落ち着け。
ツガイが目を覚ます前に、隠さなきゃ。もう一度上着を包み直して、誰にも見せないようにきつく抱き寄せる。
そして――走り出した。
こんな場所に置いておけるか。安全な俺の巣に帰る。絶対に、誰にも奪わせねえ。
俺のことは、わかってる。腕っぷしと判断力だけで、ここまで生き延びてきた。魔法は持っちゃいねえが、ツガイくらい守れる。
でも、こんな筋肉だらけの身体を見たら、ツガイは泣くかもしれねえな。せめて、俺の中身を見てくれればいいんだが。
頼むぜ、神様。
この出会いだけは、奪わないでくれ。
祈るような気持ちで、夜の道を駆け抜けた。




