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異世界に落ちたら愛を知った  作者: 青井空


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瑠々花

――私は、落ちた。


たった今、玄関のドアを開けただけだったのに。


 


 


 




オフィスの蛍光灯が、白々しいほど明るかった。


周りのデスクはとっくに無人で、残っているのは私と上司だけ。シャットダウンボタンをクリックして、ようやく今日という一日に幕が下りる。


――ふぅ。また残業になっちゃった。


壁時計は夜の八時を回っていた。見なきゃよかった、と思う。時計と体温計は確認した瞬間、疲れが二割増しになる気がする。


「諏訪さん、今日も遅くまでありがとう。本当に助かったよ」


上司の声に、私は立ち上がりながら笑顔を返した。


「いえ、全然大丈夫です。お疲れ様でした」


嘘だ。疲れてる。でも、それを顔に出すつもりはない。社会人として、というより――笑っていれば、誰も余計なことを聞いてこない。それが一番、楽なのだ。


手際よく荷物をまとめてエレベーターへ向かう。一階の自動ドアが開いた瞬間、冷たい夜気が全身を包んだ。


「っ、さむ……」


春先とはいえ、陽が落ちると容赦がない。コートの襟を立てても、冷たさは骨の奥まで染み込んでくるようだった。


足を止めて、ふと空を見上げる。


――星は、一つもない。


まぁ、そうだよね。いつもそう。街の光が空の光を塗りつぶして、残るのは中途半端な黒だけ。真っ黒でもなければ、明るくもない。どこにも属せない、あの色。


なんだか、私みたいだと思った。


オフィスではちゃんと笑える。でも一人になった途端、こうしてぽろぽろと、何かが剥がれ落ちてくる。


小さく息を吐いて、また歩き出した。駅まではたった五分なのに、今夜はやけに遠い。街の音が遠く、自分のヒールの音だけがやけにはっきりと聞こえていた。


夕飯どうしようか。コンビニか、冷蔵庫にご飯が残ってたはずだから、それを温めれば――そんなどうでもいいことを頭の片隅で考えながら歩く。


駅の手前のコンビニを曲がったとき、強いビル風が叩きつけてきた。


――イタイ。


物理的な痛みではなかった。胸の奥で何かが軋む感覚。何かが、きしきしと音を立てる感覚。


逃げたい。

誰か、この寂しさから助けて。


理由もわからないのに、猛烈な感情が押し寄せてきた。大声で泣き叫びたいような衝動が喉元まで込み上げてくる。


――でも、叫べるわけがない。


ここは夜の街で、私は二十五歳の社会人で、そんなことをしたらただの変な人だ。無意識に深呼吸をしていた。冷たい空気が肺を満たして、少しだけ、落ち着く。


次にやってきたのは、慣れ親しんだ"諦め"だった。


――ああ。またこれ。


仕事も感情も、受け入れて、笑って、諦める。何でこんなにすぐ諦めちゃうんだろう、と自嘲しながら、でも止められない。弱いんだよね、私。苦笑しながら駅の改札を通り抜けた。


電車は、この時間にしては程よく人が乗っていた。吊革を掴んで揺られながら、ぼんやりと考える。


――誰かと争うのはイヤだから、残業も諦める。いつか別れるのが怖いから、恋をするのも諦める。


女々しいな、とは思う。諦めると決めたなら、ウダウダ言わずに辛さも飲み込めばいい。頭ではわかってる。でも今日はダメだ。夜の空気が寒すぎて、心が弱ってる。


通り過ぎる暗い車窓を眺めながら、頭の端でぐるぐると考える。


私は、"好きの終わり"が、怖い。


高校のとき、「絶対に嫌いにならない」と言って何度も告白してきた人がいた。怖がりな自分を変えたくて、付き合おうかと悩んだ。でも結局、好きが信じきれなくて、確認を繰り返して、ウザがられて終わった。


"そりゃウザイよ"と、今でも思う。でも止められなかった。不安が止まらなくて、彼氏もどきがいるときの私は、別人みたいにメンドクサイ人間になる。


恋人がいる人を見ると、羨ましいとは思う。でも、作ろうとは思えない。

だって"好き"は、終わるから。


何度こんなことを考えたんだろう。いい加減諦めればいいのに、どこかでまだ"恋の温もり"にしがみついている自分がいる。バカだなあ、と苦く笑った。


降りる駅についた。ホームに下りると、また夜の冷たさが体に刺さる。でも駅から近いマンションでよかった、と毎日同じことを思っている自分が少し可笑しかった。


仕事は真面目にこなして、笑顔で人と接して、一人暮らしもちゃんとできている。周りからは、二十五歳にしては落ち着いていると言われる。


――ならいいじゃないか。


それなりに頑張ってる。間違ってない。そう自分に言い聞かせて、小さく頷く。


マンションの廊下を歩きながら、バッグの中を探る。鍵、鍵……。 "ただいま"と呟く準備をしながら――ふと、想像した。


もし、誰かが「おかえり」と言ってくれたら。

もし、誰かが待っていてくれたら。


――ヤメヤメヤメ。ダメだ。今日は気分が上がらない。


小さく首を振って、鍵穴に差し込む。ドアを開ける。いつものワンルーム。明かりのない静けさが、黙って迎えてくれる。


真っ暗な玄関に立つたびに、小さい頃を思い出す。


ドアを開けても、"おかえり"がない家。

母の機嫌と、父の怒鳴り声。

授業参観のプリントを、渡せなかった自分。

心の中だけで言う、"ただいま"。


――返ってこない言葉に、慣れてしまった。"好きが終わった"家。


「ただいま」


今日は、声に出してみた。


でも音は空気に溶けて、消えた。誰もいない、静かな部屋。侘しさが、ゆっくりと足元から這い上がってくる。


これが、私の日常。


何度目かのため息を、静かに飲み込んだ。


靴を脱ごうと、玄関に一歩踏み込んだ。


その瞬間。


 


 


 


――私は、落ちた。



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