スキル習得:魔法陣
朝――昼?
時計も窓もないから、正確な時間はわからない。
瞼が持ち上がると、バーツのとろけそうな顔のアップが目に映った。
「……ん、起きたか。……くく、こりゃもう、反則だな」
ベッドで寝ていたはずなのに、なぜか、居間……しかもバーツの膝の上にいた。
「ん……。寝起きの顔、見ないで……」
「無理だな」
とろけすぎていて、大丈夫かこの人、と思うくらいに幸せそうだ。
「おまえ見てっと、脳みそまで蜂蜜漬けにされそうだ」
今は蜜月という期間らしく、この間はオスとメスはずっと一緒にいて離れないんだって、バーツが教えてくれた。一日中どこに行くにも抱っこをしたがるし、座るときは絶対に膝の上で、食事すら腕の中で食べさせたがる。
――でもね。
もう十日くらい経ってる。説明では確か……七日くらいって言ってなかった?
「ねぇ、そろそろ……外界に出たいんだけど」
そう言ったら、蕩けていた目を少しだけ伏せて――それから、私の頭を抱きしめてきた。
「……あとちょっとだけ。な?」
「虫倒しに行かないの?」
「あぁ……休み取ってる」
「……」
今日もダメか……と思った、けど。バーツは私の頬を軽く舐めて、溜息をついた。
「……ったく仕方ねぇ。おまえが出たいって言うなら、こっちは腹くくるしかねぇ……だが、準備がいる」
私をベッドに戻すと、バーツは外出用の服に着替え始めた。
黒い革のズボンに、同じ色のシャツ。ここでは、オスの服は二枚の革を合わせたものが多い。革の素材で色や柔らかさが少しずつ違っていて、用途別に使い分けていると前に教えてくれた。確かに外出用は、少し硬めに見える。
――でも、いつも、黒い服ばっかり。
最初に会ったときは、黒以外の服だったような……?
「ねぇ、違う色の服、持ってなかった?」
脱いだ室内着を手に取りながら聞いてみる。
「あぁ、全部変えた」
「そうなの?」
そういえば、いつ買い物しているのか聞いたとき、私が寝ている間に、買い物と縫い物は済ませていると言っていたっけ。
「ツガイ色だ」
にやけ顔で説明された。
顔が真っ赤になるのがわかる。好きって言い合ったし、抱きしめ合ったし、蜜月だって乗り越えた……けど、バーツの率直な言葉には、いつまでも慣れない。恥ずかしい。
手に取っていたバーツの服を放り投げて、視線をうろうろさせていると、バーツが私の頭をぐしゃっとかき混ぜて、笑いながら扉から出ていった。
「行ってくるな」
今日も私を閉じ込めてから出かけるバーツ。そこはブレないんだね。ちょっと笑ってしまった。
バーツは、魔法の本を買ってきてくれた。
「おかえりなさい」
「あぁ、いい子にしてたか?」
買ってきたものをベッドに投げ捨てて、私を抱きしめる。首元で深呼吸されるのも慣れた。
「これ……何?」
「ん? スー……外界はな……ハァ……敵ばっかりだ。全員……スー……が敵と言ってもいい……ハァ」
首元から上げた顔は、外界の恐ろしさで歪んでいた。ちょっと覗くだけくらいのつもりで外界に出る気でいた私は、少し反省した。
――ここは異世界。
危険なのを忘れてた。気を引き締めよう。
離れないバーツに何度も頼んで、やっと居間へ向かう。テーブルの上に本を置いて、私も一人で座った。蜜月でずっと抱っこだったから、なんか不思議な感じがする。
――あ……。
自然と正座になっていた自分に気がついた。「日本人」という、誇りか、懐かしさか、そんな想いが湧き出てきて、心がほっこりした。
ゆるんだ顔を引き締めて、気持ちを落ち着かせてから、目の前の本に集中する。
本は昔の巻物みたいな形をしていた。段ボールとわら半紙の中間みたいな質感の紙を束ねて巻き、紐でぐるぐると結わえてある。ストレートに言えば、紙束の簀巻きだ。慎重に紐をほどくと、中は全部手書き。きっと高い……気がする。
――ん??
「え? ひらがな?」
「読めるのか。……さすが、伝承どおりってわけだな」
褒めながら顔を近づけてきたバーツを、私は紙を丸め直して小突いてやった。空気が甘すぎて、勉強にならない。バーツは懲りずに私の腰を掴み、腕の力だけで抱き上げてくる。
「勉強にならないから、一人で座る」
ここは譲れない。膝の上に持っていかれないようにテーブルの端をしっかり掴む。お尻はもう浮いているけど……。
「ダメだ。膝の上で読んだほうが、身体が温かい分、記憶に残る」
すごい迫力で持論を展開している。でもそんな記憶法、聞いたことがない。絶対に嘘、と突っ込みたいけど、必死で抱きしめたがるバーツに折れて、膝の上で読むことになった。
本は合計五枚でできていた。一枚目は魔法の説明。二枚目が魔法陣について。三枚目以降は魔法陣の例が一枚につき一つ書かれている。
――あ……火おこしの魔法陣。これは……ランプの魔法陣だ。
一枚目から、じっくり読んでいく。
「『まほう は、まほうじん に まりょく を そそいで きどう します』」
うん、前にバーツが言っていた。
「『まりょく は、こきゅう で とりこみ、つかう ことが できます』……んー、これってバーツがしてる火おこしとか、ランプとかのこと?」
後ろに振り向きながらバーツに聞く。
「ああ。息してる奴なら皆できる。……ま、俺くらいになりゃ、肉体強化ぐらい朝メシ前だがな」
にやりと笑いながら教えてくれる。
「え? そうなの?」
肉体強化なんて魔法陣、この本にはないのに、すごい。
「くくくっ」
笑いながら立ったバーツは、膝に抱えていた私を軽々と片腕で持ち上げてみせた。
――ん?
これって、魔法じゃなくて筋肉だよね? 魔法陣使ってないし……。
もぉ……と言いながら、バーツの肩をぱしぱし叩く。喉の奥で笑いながら、バーツはそのまま寝室へ向かった。
「え? ダメダメ! バーツ、ダメ」
チッと言いながら、戻って座りなおすバーツ。まだ一行目なのに。この調子で今日中に読み終わるだろうか……少し不安になってきた。
「『まりょく は らんそう で うみだす ことが できます。また らんそう に ためて おくことも できます』」
これもバーツから教えてもらった。
次に書いてあったのは、呼吸法と魔力の出し方。図解もついていた。図を見ると、呼吸法は……あれ? 深呼吸だ。『おおきく すって、ぐっ と おなか の おく に まりょく を おしこめます』と書いてあった。
――深呼吸、か。
思わず自分のお腹に手を当てて、息を吸ってみる。ぐぅっとお腹に力を入れてみたけど、魔力を押し込む感覚は、よくわからなかった。
続きに『からだ の なか の まりょく は、どこからでも だせます』とある。
「ねぇ、ランプを照らせるようになってたら、これはできてるってこと?」
「そうだな、ルルは可愛いから、全く問題ねぇ」
会話になっていないと思うことがある。ちょっと恥ずかしいけど、これも慣れてきた……つもり。
ランプを使いこなしているから、これはできていることにする。最後は、魔法の使い方が一文で書かれていた。
『まほうじん を かく、まりょく を そそぐ、はつどうじょうけん を みたす、まほう が はつどう します』
これだけで問題ない。理解できた。問題はたぶん、二枚目の魔法陣にあるはずだ。
二枚目は魔法陣の作り方と使い方。
「『まほうじん には、"じかん"、"ばしょ"、"きぼ"、"ないよう"、"はつどうじょうけん" を かきます』」
「魔法陣を書く液体がこれだ」
小さい革袋に入った液体をお皿に出して見せてくれる。
「乳白色の……絵具?」
油絵具のような重さのある、白く煌めく液体だった。
「ん? これは魔紋樹脂だ。魔石を砕いて粉にして、樹液を混ぜたもんだ」
「まもんじゅし……」
「こっちは筆だ」
「……ふで……」
予想通り、問題がたくさん出てきて「頭を抱える」という言葉を実行してしまった。魔紋樹脂は油絵具くらいの固さでもったりしていて、筆につけたら線が太くなったり細くなったりしそうだ。筆のペン先は木を潰した繊維でできていた。
――だからか。
この本も一文字が大きい。紙はA3くらいの大きさがあるのに、内容そのものはすごく少なかった。思い返してみると、ランプの台座は四十センチ四方はあった。あれは書いてあるわけじゃなく彫刻しているから、より大きいのかもしれない。
とりあえず全部に目を通してから――そう自分に言い聞かせて、抱えていた頭を離す。バーツの胸に寄りかかって深呼吸をして、意識を落ち着かせようとした、その時だった。
「ん? 終わりか? 疲れただろ? ベッドに行くか?」
バーツが私を抱きしめたまま立ち上がる。声が喜んでいて、頬にキスまでしてきた。めちゃくちゃ笑顔だ。
「ちょっと深呼吸しただけだって。まだ勉強する」
なぜ勉強することでこんなに後ろめたくなるのかわからないけど、目を逸らしながら伝えた。
まだか……とため息混じりに言いながら、座りなおすバーツ。”あれ”をお尻の下で感じながら、色んな意味の感情を鎮めるため、深呼吸を続けた。
「『すべて の しじ が れんけい するように じん を かきます』」
三枚目以降の魔法陣を参考に眺めていたら、どこかで見た模様に似ていて、記憶の奥をくすぐられるような感覚を味わった。
「………わかった。陣も合わせてるから、こんなに大きい魔法陣になるんだ……」
呟きながら、いつもバーツがご飯を作るときに使っている本物の魔法陣を手に取って、細部までよく見る。三十センチ角の紙。火おこしだけの単純な魔法陣でさえ、この大きさだ。
「あぶねぇから、触んなよ。触ると条件が整ったら発動しちまう」
低い声が頭の上から落ちてきて、取り上げられた紙はテーブルの上に置きなおされた。反射で伸ばしかけていた指を、慌てて引っ込める。
「"いま"、"みているばしょ"、"ちいさい"、"ひがでる"、"ひおこし"」
手に持たず、魔法陣の中に書かれた文字を目だけで追う。文字はこれだけで、あとはこれらを繋ぐ線がぐるぐると陣みたいに書かれている。指を置く場所だけが少し大きめの楕円で用意されていて、飾りじゃないと思わせられた。
「魔法陣の出来はな、字の綺麗さと緻密さだ。汚ねぇと動かねぇ。デカすぎると持ち歩きに邪魔だ。折れりゃ威力が狂う、下手すりゃ不発……そういうもんだ」
「折れたら……ダメなの?」
「あぁ。陣が歪むからな」
「ん…。陣が書かれてないところは折れても大丈夫?」
「それは問題ねぇ」
無意識に紙を指でこすっていた。ごわついた紙。すぐに折り目がつきそうだ。うーん。
線は指示を繋いでいるだけ……なんだけど、不要な線が多い気がする。文字を繋ぐ陣の形そのものに意味があるのかな。うーん。
問題点が、頭の中に少しずつ溜まっていく。
この本の説明の中で一番気になるのが――"じかん"だ。そもそもこの世界には時間の概念がなく、時計すらない。「今」と指定した場合、それは詠唱が終わった"今"なのか、魔法陣を認識した瞬間の"今"なのか。時間のスタートはどこになる? 「十分後」と書いたら? 時計もないのに本当に十分後に発動する? そもそも「十分」なんて、誰の基準の長さになるんだろう。考えれば考えるほど不思議だった。
というか、魔法陣の必要性そのものがわからない。「指示」と本に書いてあるけど、なぜ魔法を発動させるために、わざわざひらがなで「指示」を書く必要があるのか。魔力は命令に従う存在じゃない。ただのエネルギーだ。……じゃあ、誰に命令しているの?
溜息が漏れていたみたいだった。
「おまえならきっと使える。大丈夫だ」
バーツが頭に頬ずりをしながら、力づけてくれる。
「あとは、気合と祈りだな」
「ふふっ。魔法って、けっこう原始的だね」
言い方が面白くて、笑いが漏れた。後ろから回された腕にぎゅっと力が入り、分厚い手のひらが頬を撫でる。温かい。少し煮詰まっていた頭が、ゆっくりとほどけていく。
――そうか、自分だ。
胸の奥で、すとんと答えが落ちた。
魔法陣を発動させるために一番重要なのは、魔力そのものじゃない。自分自身に、正確な命令を出すこと。だから文字にする。想像だけでは、細部は必ず曖昧になるから。
「時間」「場所」「規模」「内容」「発動条件」。
魔法陣の枠組みは、命令の骨組みだ。
構造を理解してしまえば――あとは、実行あるのみ。
まずは、目の前の課題から。
下手をすれば命がかかっている。念を入れて、時間の概念について確認する。
バーツにお願いして砂をもらった。何度か「十秒後」として火おこしを試してみたけど、砂の残り方はまちまちだった。つまり、正確な発動は難しい。これで"じかん"が目安程度だとわかった。改善は後回し。まずは今ある材料で魔法陣を書けるようになりたい。試してみたいことが一つある。
「今から魔法陣を書きたいの。だから」
至近距離でバーツの目を覗き込む。すごく綺麗なエメラルドみたいな目。でも見惚れていられない。
「下ろして、お願い」
必死でお願いする。膝の上にいるとバーツがどこかしら撫でてくるから、落ち着かないし、文字が揺れそうだ。バーツはブッスーとした顔をすると、何も聞こえていない顔で目を背けた。
――そうはさせない。
顔を両手で挟んで、もう一度目を合わせる。
「お願い、バーツ」
全身でイヤ!と表現しながら、ゆっくりと私を隣に置いた。
――置くだけで溜息十回は、さすがに多いと思うけど。
私は紙に魔法陣を書いた。バーツが買ってきてくれた筆で、ゆっくりと丁寧に。
「時間」「場所」「規模」「内容」「発動条件」の部分には、
十五秒。
自分の周り。
全体。
光の屈折。
蜃気楼。
――を入れる。
指を書いたばかりの魔法陣にセットした。
さっきとは違う。反対側の手を卵巣の上に置いて、エネルギーを引き上げるようにイメージを持つ。
目を閉じて、息を吸って――ゆっくり吐く。また吸って。お腹を凹ませるように吐きながら、何かを探す。繰り返すうちに、光っているような道を見つけた。真っ暗な空間の中で、一つだけ流れるように光り走る川。
――見つけた。
その流れを丁寧に掴んで、指を通して魔法陣に注ぐ。
ふぅ。
もう一回吸って吐いて、最後の一滴の魔力を注ぎ込む。
「蜃気楼」
空気がすっと冷えた気がした。自分の存在がこの部屋から、少し"ズレ"たような感覚を味わう。立って部屋の端へ移動した。バーツが慌てている。
「ルル!……どこ行った!? 返事しろ、ルル……!」
辺りを見回し、手を伸ばして、ぐるぐるしているバーツ。
ぼんやりと輪郭が歪み、私の姿がにじみ出るように現れる。光と影の狭間から戻ってきたような感覚。私がそこに"在る"と認識されると同時に、バーツの目が鋭く細められた。一歩で距離を詰めてきたバーツが、腕を伸ばして私を抱きしめた。
「……ったく、心臓止まるかと思ったじゃねぇか」
低く吐き捨てるように言いながらも、その目には安堵と甘さが混ざっている。私もまったく疲労感がない。魔力も、ほとんど減っていないと思う。
――これ、いける。
漢字が使えたのも大きい。魔法陣を実用的な大きさに変えたいから、本当に嬉しかった。
同じ魔法を、時間を延ばしながら何度か試した。結果、最大でおよそ一日。それでも、もう一発分の魔力は残っていた。
この身体、思っていたよりポテンシャルが高い。
その間ずっと私を見ていたバーツ。私の姿が消えて不安だったはずなのに、我慢してくれて、信じてくれて――ありがとう。
もう陽が昇り始めているというのに、眠れやしねぇ。
俺の匂いをまとって眠るツガイを腕に抱いて、首筋にそっと口をつける。
……三十年分の侘しさが、ようやく静かに息をひそめた夜だった。
愛おしい俺のツガイ。何処までも一緒だ。




