彼の渇望と私の成長
決意したなら行動あるのみ――と、誰か偉い人が言っていた気がする。でも、バーツはきっと心配するからタイミングを見て、外界に出る話をするつもり。
今夜も、恒例のブラッシングをする。
バーツはベッドに腰を下ろして尻尾だけを無造作に垂らしていて、隣に座った私は、足元に落ちてきた尻尾をブラシで梳く。夜は少し肌寒いけど、バーツの尻尾はふさふさで膝掛けより大きくて、触れているだけで温かい。私の手の動きに合わせて、尻尾がわずかに揺れる。振り返りもしないその背中は、リラックスしているのがわかった。
――今だ。
「ねぇ、バーツ。私、外界に出たい」
その言葉を口にした瞬間、部屋の空気がぴたりと止まった。目の前の背中が強張る。ゆっくり振り返った彼の顔は、血の気が引いて固まっていた。目を合わせようとせず、呟くように呼ぶ。
「……ルル」
ひしゃげた声だった。
「愛してる。命張れるくらい、本気だ。俺には……お前しかいねぇ。ずっとだ。……ずっと、待ってた」
叫ぶように続いた声は、悲痛そのものだった。
「出したくねぇ。取られたくねぇ。無理だ……無理、嫌だっ……!」
私を抱きしめようと伸ばした手が、途中で止まり、そのまま自分の顔を隠す。向けられた背中はかすかに震えていて、私は目を離せなかった。
バーツに好かれているとわかっていた。でも、それがこんなふうに、命を削るような覚悟だったとは、わかっていなかった。あの熱い笑顔の裏に、こんなにも重たい愛が込められていたなんて。彼の中の何かが、崩れていくのが――見えた。
ただ、「外界に出たい」。それだけの言葉で。
私はそっと、彼の背中に手を伸ばした。
この世界には"ツガイ"という、特別な繋がりがある。狼族は匂いで見つけるらしい。でも"メル"のように認識できなくなる人もいて、今はツガイに出会える人はほんのわずかなんだって。
バーツは諦めなかったと言っていた。何百回も、何年も、砦中を巡って探したと。
『もしかして、どこかに――』
その言葉だけを、握りしめて。
『寒かった。ずっと辛かった。でも……』
『俺のメスが、どこかで泣いてると思ったら、諦められなかった』
そんな想いをして待ち続けて、やっと出会えた私を手放すことが、どれだけの恐怖か。
私の手を感じた瞬間、全身をびくりと震わせ、そのまま小刻みに揺れ続けた。「出さねぇ……出さねぇ……」と繰り返す声は、濁って怯えていた。私は小さく息を吐きながら、背中から抱きついた。
「バーツ……」
彼の怖さは、理解できる。だってつい最近までの私だから。
ただ、不思議だった。私は家庭の事情が複雑だったからだが、彼は、そうじゃないと言っていた。
——じゃあ、なんでだろう。
彼は、私が目移りする前提で、こんなにも怯えている。愛を疑ってる。ツガイが「無二の存在」だから——それだけじゃ、足りない気がした。
抱きしめた私の手に、縋るように彼の手が重なる。
「ぁぁ……」
息だけの返事が、怯えの深さを伝えてくる。
――そうか。
頭の中で、あの日のバーツの声が響く。
『魔法が重視されて、"華奢で可愛らしい姿が褒められる"』
華奢で可愛い姿が美しいとされるこの世界では、大きくて筋肉質で男らしい彼は、きっと"選ばれない側"だ。
――だから、こんなにも。
私は握られた手を引いて、バーツの膝の上に向かい合って座った。下から見上げると、彼の目が、怯えで揺れている。
「私……」
私の好みは、目の前にいるような人だ。それに"好き"という気持ちが足されれば、理想そのものだ。
――伝えたい。
自分の気持ちを。………でも。胸の奥で、幼い私が囁く。
『また、見てくれなくなったら?』
不安が湧き出て、身体を覆っていく。
――ううん、負けない。
その声に従って逃げる癖は、今、終わりにする。
おでこをバーツの胸にぐりぐりと押しつけて、歯を食いしばる。バーツは辛くても、私を待ち、探し続けてくれた。心の不安は何より辛い。今度は私が頑張る番だ。
彼を失ったら、そのとき泣けばいい。それで心が壊れたら、「この世の終わりだ」と大泣きしてやる。
だから――。
私は顔を起こして、彼と目を合わせた。
そっと手を伸ばし……
涙で濡れた彼の頬に、静かにキスを落とした。
ルル 俺の最愛
捨てないで
そばにいて
俺を
愛して
くれ




