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第9話 カンペは空から降ってくる

「……にゃあん」


 朝の柔らかな日差しが差し込むリビングに、高く愛らしい鳴き声が響いた。

 上田晃次がコーヒーカップを片手に視線を落とすと、足元で毛玉のような小さな生き物が、短い尻尾をピンと立てて見上げていた。

 丸みを帯びた顔に、前方にペタンと折れ曲がった小さな耳。数日前にブリーダーから譲り受けたばかりの、スコティッシュフォールドの子猫である。


「おはよう、ニョッキ。今日も飯の時間に正確だな」


 晃次がしゃがみ込み、その柔らかな背中を撫でると、ニョッキと名付けられた子猫は「グルル……」と喉を鳴らしてすり寄ってきた。

 過酷を極める幽霊推しからの『デキる男・一流化ブートキャンプ』により、晃次の精神と肉体は悲鳴を上げていた。このままでは過労とストレスで自分が幽霊の側に行ってしまうと危機感を覚えた晃次は、以前から憧れていた猫の飼育を決意し、週末に急遽ブリーダーの元を訪ねてこの極上の癒やしをお迎えしたのだった。


「あああああっ! 可愛い! やっぱりウチの子が宇宙一の天使ね!? ねえ、ちょっと代わってよ晃次! 週末にブリーダーさんのとこで見た時から、ずっとそのフワフワのお腹に顔を埋めたかったの!」


 頭上から、悲痛な叫び声が降ってくる。

 半透明の白いワンピース姿で宙に浮いている内田李理香の幽霊が、ニョッキに向かって両手を伸ばし、空中でジタバタと悶えていた。

 当然だが、物理干渉ができない彼女はニョッキに触れることができない。撫でようとしても、その白い指は虚しく子猫の体をすり抜けてしまう。


「無理言うなよ。幽霊なんだから触れないだろ。同行した時も言ったろ」

「分かってるけど悔しいのよ! 生前は動物アレルギーで猫カフェにすら行けなかったのに、死んでからもモフモフできないなんて神様は残酷すぎるわ!」


 李理香が空中で地団駄を踏んでいると、キャットフードを食べていたニョッキがふと顔を上げ、空中にいる李理香の顔をじっと見つめた。

 そして、「にゃっ」と短く鳴いて、李理香に向かって小さな前足をちょいちょいと伸ばしたのだ。


「……えっ? 今、私の方見たわよね? 私に猫パンチしようとした!?」

「動物には霊感が備わってるっていうからな。君のことが見えてるのかもな」

「嘘っ、ニョッキ! 私よ、李理香お姉ちゃんよー!」


 自分を認識してくれた子猫の姿に、すっかりメロメロになった元・国民的女優が空中でデレデレと溶けている。


 その微笑ましい光景を眺めながら、晃次はネクタイをキュッと締め直した。


「さて、ニョッキの癒やしでエネルギーは満タンだ。李理香ちゃん、遊んでる暇はないぞ。今日はいよいよ、例のコンペのプレゼン本番だ」


 晃次の声に、李理香もハッとして表情を引き締めた。


「そうだったわね。会社の中枢に食い込むための、絶対に負けられない大一番。私の演技指導の全成果を、あの役員どもに見せつけてやりなさい!」


 午後2時。オリオンフーズ本社、最上階の第1会議室。

 数十人が収容できる広大な空間には、重苦しい緊張感が張り詰めていた。

 前方には社長をはじめ、数名の担当役員、そして各部署の部長クラスがずらりと並んでいる。その中には、経営企画部のエースとして若くして課長を務める原ユキの姿もあった。タイトなスーツを着こなし、鋭い知性を感じさせる瞳で冷徹にプレゼンターを品定めしている。


『新規アジア市場開拓プロジェクト』の最終コンペに残ったのは、本命である営業部のエースチームと、大穴として波乱を呼んだ総務部の晃次の二組だけだった。

 先行の営業部チームが、堂々とした態度でプレゼンを終えたところだった。


「――以上が、我々営業部が提案する『メイド・イン・ジャパン・プレミアム』戦略です。日本のレトルトカレーをそのまま高級パッケージ化し、東南アジアの富裕層に売り込む。開発コストを抑えつつ、高い利益率を実現します」


 役員たちが深く頷き、感心したような囁き声が漏れる。利益率とコスト削減という言葉は、いつの時代も経営陣にとって甘美な響きを持つ。


「素晴らしい。手堅く、かつ自社のブランド力を活かした現実的な企画だ」


 役員の一人が太鼓判を押すのを見て、営業部のチームリーダーが勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「では次、総務部の上田主任代理。前へ」


 司会に促され、晃次はゆっくりと立ち上がった。

 数週間前の彼なら、このプレッシャーに押し潰されて声が震えていただろう。しかし今の彼は違う。背筋をピンと伸ばし、余裕のある足取りで演台へと向かう。

 彼の斜め後ろ、半径5メートル以内の距離をキープしたまま、半透明の李理香が腕を組んで浮遊している。


「総務部の上田晃次です。本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます。私からの提案は、現地の食文化とハーブをふんだんに取り入れた『ローカル・フレッシュデリ・キット』です」


 晃次は、李理香のスパルタ指導で叩き込まれた「一番奥の席の人間まで届く腹からの発声」と、説得力のあるアイコンタクトを駆使してプレゼンを始めた。

 先日、家でゴイクンを作りながら痛感した、現地のハーブやスパイスの繊細な魅力。それを日本の品質管理技術と掛け合わせ、現地の富裕層向けに「安心・安全な現地の味」を提供するという逆転の発想だ。

 淀みないプレゼンに、最初は「なぜ総務部が?」と怪訝な顔をしていた役員たちも、次第に身を乗り出して聞き入るようになった。


 しかし、質疑応答に入った瞬間、事態は急変した。


「上田くん。君は総務だからビジネスの現場を分かっていないようだがね」


 営業部の部長が、鼻で笑うようにマイクを握った。


「君の企画は、生鮮のハーブやスパイスを多用すると言っている。そんなもの、我が社の既存のサプライチェーンに乗せたら物流コストと管理費が跳ね上がる。我々の『レトルトカレー』の利益率には到底及ばない。そもそも、東南アジアの富裕層は『日本の味』を求めているんだ。現地の味をわざわざ日本企業が売る意味がどこにある?」


 痛烈な、そして実務的な追及だった。


「それは……」


 晃次が言葉に詰まる。料理の知識や熱意はあるが、サプライチェーンや国際物流のコスト計算に関しては、総務の彼には即座に反論できるだけの専門知識が不足していた。

 役員たちの表情が曇り、会議室の空気が一気に「やはり営業部の案が現実的か」という方向に傾き始める。原ユキも、興味深そうにしていた表情をわずかに落とし、手元のペンを止めた。


(くそっ……ここまでなのか?)


 絶体絶命かと思われた、その時だった。


「ちょっと! 諦めないでよ晃次!」


 静まり返った会議室で、晃次の耳にだけ、李理香の鋭い声が響いた。

 ハッとして視線を上げると、演台のすぐ横の空中で、李理香が身を乗り出して必死に大声で叫んでいた。


「相手の前提を崩すのよ! 考えてもみて! 年中気温が30度を超えるような熱帯の国で、日本のドロドロの濃厚カレーなんて日常的に食べる気する!? 現地のお金持ちはいま、オーガニックとかヘルシーなものに夢中なのよ!」

「……!」

「物流コストだってそう! 日本から運ぶから高くなるんでしょ!? 現地の農家と直接契約して、そこで作って売ればいいじゃない! 営業の案は現地の気候もトレンドも完全に無視してるって、ハッキリ指摘しなさい!」


 李理香の必死のジェスチャーと熱い言葉が、晃次の脳内で一瞬にして完璧な論理へと変換されていく。彼女には実体がない。直接パソコンを操作してデータを示すことはできない。だが、その頭脳と観察眼は、誰よりも鋭く「現場のリアル」を見抜いていた。


「……上田くん? 答えられないのかな」


 営業部長が勝ち誇ったように見下ろしてくる。

 晃次は深く息を吸い込み、スッと顔を上げた。その瞬間、彼の纏うオーラが完全に切り替わった。李理香から教え込まれた、どんな逆境でも舞台を支配する「主役のオーラ」だ。


「お答えします。営業部長の前提には、決定的な『現地のリアル』への視点が欠けています」


 低く、よく通る声が会議室に響き渡った。


「年中気温が30度を超える多湿な熱帯気候の国で、日本の濃厚で重たいレトルトカレーが日常的に受け入れられるでしょうか? 現在、東南アジアの富裕層の間では、欧米以上に健康・オーガニック志向が高まっています。彼らが求めているのは、重い保存食ではなく、新鮮なハーブをふんだんに使ったフレッシュなデリです」


 晃次は演台から一歩前に出、役員たちの目を順番に真っ直ぐと見据えた。


「我々が売るべきは『日本の味の押し付け』ではありません。現地の素晴らしい食文化に、オリオンフーズの『徹底した品質管理と衛生基準』というブランドを付加して提供することです。懸念されている物流コストについても、日本のサプライチェーンに固執する必要はありません。現地のオーガニック農場と直接提携し、地産地消のモデルを構築すれば、国際輸送費は相殺され、むしろレトルト以上の利益率を生み出すことが可能です」


 李理香の「叫び」を元に、晃次自身の言葉で再構築された完璧なロジック。

 そして何より、一切の迷いがない堂々たる態度と、自信に満ちた声の響きが、会議室の空気を完全に支配していた。


「……なるほど。地産地消の高品質デリか。確かに、今の健康志向のトレンドには見事に合致しているな」


 先ほどまで営業部の案に傾いていた役員の一人が、深く頷きながら感嘆の声を漏らした。

 営業部長は顔を真っ赤にして反論しようとしたが、完全に論破された衝撃で言葉が出てこない。


 会議室の後方。

 経営企画部の原ユキが、手元の企画書から顔を上げ、演台に立つ晃次を射抜くような鋭い目で見つめていた。


(あの万年主任代理が、あんなキレ者だったなんて。……面白い男)


 彼女のふくよかな唇が、微かに弧を描いた。


「よしっ! 決まったわね! 完璧な演技だったわよ晃次!」


 空中でヘトヘトになりながらも、李理香が歓喜のガッツポーズを決めている。

 晃次は役員たちに向かって深く、そして美しく一礼をした。心の中で、空飛ぶ最強のゴースト・プロデューサーに向けてハイタッチを交わしながら。


 数分後、全会一致で晃次の企画がコンペを勝ち抜いたことが告げられた。

 それは、霊感ゼロのサラリーマンと幽霊の推しがタッグを組んで成し遂げた痛快な大逆転劇の幕引きであり、二人が反撃のステージへと強烈な一撃を叩き込んだ瞬間であった。

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