第10話 エリート上司のロックオン
「お疲れ様でした。素晴らしいプレゼンでしたよ、上田主任代理」
最上階の第1会議室から廊下へ出た瞬間、背後から凛とした、しかしどこか甘さを含んだ声が響いた。
上田晃次が振り返ると、そこにはオリオンフーズ経営企画部のエース、原ユキが立っていた。
完璧にアイロンがけされた白のシルクブラウスに、ボディラインを美しく拾うタイトスカート。カツカツとヒールの音を響かせながら歩み寄ってくる彼女の姿は、社内の誰もが認める「隙のないキャリアウーマン」そのものだ。
しかし今、彼女の切れ長の瞳には、普段の冷徹な光ではなく、獲物を見つけた肉食獣のような熱っぽい興味が宿っていた。
「原課長。ありがとうございます。たまたま、自分の得意分野の知識が活きただけですよ」
晃次は、李理香のブートキャンプで叩き込まれた「謙虚だが自信に満ちたデキる男のスマイル」を崩さずに応えた。
「謙遜しないで。物流コストの懸念を、地産地消のオーガニックモデルでひっくり返したロジック。それに、あの場を完全に支配した圧倒的なオーラ。見事だったわ」
ユキはふわりと香水の匂いを漂わせながら、晃次の目の前、パーソナルスペースに踏み込むほどの距離まで近づいてきた。
そして、スッと白い手を伸ばし、晃次のネクタイの結び目に軽く指先を触れた。
「……ねえ、上田くん。あの冴えない万年主任代理の皮の下に、あんなキレ者の素顔を隠していたなんて。私、あなたのことを見くびっていたみたい」
大人の色香が漂う至近距離での視線。普通の男なら即座にドギマギしてしまうだろう。
だが、今の晃次にはその魅力に酔いしれる余裕は全くなかった。なぜなら、彼とユキのすぐ横の空中で、半透明の白いワンピース姿の幽霊が、般若のような形相で二人を睨みつけていたからだ。
「ちょっと! なにこの女! 距離! 距離が近すぎるわよ! なんで初対面でネクタイ触ってんのよ、セクハラよセクハラ!」
内田李理香の幽霊が、空中でジタバタと激しく手足を振り回している。当然、ユキには李理香の姿は見えず、声も聞こえていない。
晃次は顔の筋肉を引きつらせないよう必死に耐えながら、静かに一歩だけ後ろに下がった。
「光栄です。ですが、私は総務部の裏方気質ですから。表舞台は性に合いませんよ」
「ふふっ。その実力を見せつけておいて、今さら裏方に逃げられると思わないことね」
ユキは赤いルージュを引いた唇に弧を描き、真っ直ぐに晃次を見つめた。
「近々、私の直轄で動かしている特命プロジェクトに欠員が出るの。……あなた、私の下で働きなさい。総務部よりずっと面白い景色を見せてあげるわ」
それは、事実上の「引き抜き」の宣言だった。会社の中枢、役員たちに最も近い経営企画部への切符。晃次と李理香が待ち望んでいた「実績作りの成果」が、早くも形になって現れた瞬間だった。
「……ありがたいお話です。前向きに検討させていただきます」
「ええ。良い返事を期待しているわ」
ユキは満足げに微笑むと、再びカツカツとヒールの音を響かせて廊下の奥へと消えていった。
「……はぁぁぁっ」
彼女の姿が見えなくなった瞬間、晃次は壁に背中を預け、本日何度目かわからない深い溜め息を吐き出した。
「なんなのあの女! 『私の下で働きなさい』!? 何様よ! 晃次の上司はこの私なんだからね!」
李理香が空中でプンスカと怒っている。
「でも、作戦通りだろ? これで経営企画部に入れれば、真犯人である役員たちに一気に近づける」
「そ、それはそうだけど……! あの女の目、絶対それだけじゃないわよ。あんたを男として品定めしてる目だったわ。あーあ、嫌だ嫌だ。これだから大人の肉食系女子は」
幽霊のくせにやけにリアルな愚痴をこぼす推しをなだめつつ、晃次は「とにかく、今日はもう帰って休もう」と歩き出した。
「にゃんっ」
マンションの玄関を開けると、スコティッシュフォールドの子猫、ニョッキが短い足でトコトコと出迎えてくれた。
「ただいま、ニョッキ。いい子にしてたか」
晃次がしゃがみ込んで頭を撫でると、ニョッキは目を細めて喉をゴロゴロと鳴らした。
「あーっ、ニョッキ! お留守番えらかったねぇ! ……くっ、なんで私はこの極上のモフモフを撫でられないのよ! 呪ってやる、物理法則を呪ってやるわ!」
横で李理香が床に突っ伏し、触れられない子猫を見つめて血涙を流さんばかりに悔しがっている。いつもの騒がしくも平和な帰宅風景だ。
「よし、今日はコンペの祝勝会だ。李理香ちゃん、何が食べたい?」
スーツを脱ぎながらキッチンへ向かうと、李理香はパッと顔を上げて空中に浮かび上がった。
「祝勝会! いいわね! 今日はね、もう口の中が『アジアン』になってるの。プレゼンの時からずっと東南アジア系のスパイスを欲してるわ! ガツンと辛くて、酸っぱくて、ハーブが爆発するようなやつ!」
「アジアンで、辛くて酸っぱくてハーブ……よし、決まりだな」
晃次は腕まくりをし、冷蔵庫とパントリーを開けた。
取り出したのは、立派な有頭のバナメイエビ、フクロタケの水煮、プチトマト、そしてアジア系スーパーで買い集めて冷凍保存してある本格的なハーブ類——レモングラス、バイマックルー、カーだ。
「今日は『トムヤムクン』だ。それも、ペーストを使わない、ハーブから香りを引き出すガチのやつを作ってやる」
「トムヤムクン! 最高! 私、タイ料理大好きなの!」
調理が始まる。
晃次はまず、有頭エビの頭と殻を丁寧に剥き、背ワタを取る。剥いた頭と殻は捨てずに鍋に入れ、少量の油でじっくりと炒める。
「これがプロの技だ。エビの殻から真っ赤なエキスと濃厚なミソの旨味を油に引き出す。ここに水を入れて煮出せば、最高の海老出汁になる」
『ジュワァァァッ!』という音と共に、海老の香ばしくも濃厚な香りがキッチンに弾けた。
「ああっ……! 香ばしい! すでに海老の旨味が鼻腔を直撃してるわ!」
李理香が鍋の上空で身悶えする。
海老の出汁が取れたら殻を濾して取り除き、そこに斜め切りにしたレモングラス、叩き潰したカー、そしてバイマックルーを少し千切って投入する。
途端に、爽やかなレモンのような香りと、エキゾチックで青々しいハーブの香りが立ち上った。
「味の決め手は、ナムプリックパオとナンプラーだ。辛味とコク、そして魚介の旨味を一気に足す」
調味料を加え、スープが鮮やかなオレンジ色に染まる。そこにフクロタケとプチトマト、最後に剥いておいたエビの身を入れ、火が通るか通らないかの絶妙なタイミングで火を止める。
「仕上げに、フレッシュなライムの果汁をたっぷりと絞る。これで酸味と香りが完成だ」
器に盛り付け、生のパクチーを山盛りに乗せれば、世界三大スープの一つ、本格トムヤムクンの完成である。
「よし、今日のペアリングはこれだ」
晃次はワインセラーから、少しだけ冷やしておいた赤ワインのボトルを取り出した。
「えっ、トムヤムクンに赤ワイン? ビールとか白ワインじゃないの?」
空中に浮かぶ李理香が不思議そうに首を傾げる。
「普通はそう思うだろ? でも、チリインオイルのコクとエビの強い旨味には、実は軽めの赤ワインが合うんだ。これはニュージーランド産のピノ・ノワール。果実味があって酸味が綺麗だから、トムヤムクンの酸っぱ辛い味と見事に調和するはずだ」
ダイニングテーブルに向かい合わせに座り、祝勝会が始まった。
晃次はスプーンで真っ赤なスープを掬い、パクチーと共に口に運ぶ。
「んんっ……!」
「どう!? 辛い!? 酸っぱい!?」
「……凄まじいな。まずライムの鮮烈な酸味が来て、直後にナムプリックパオの容赦ない辛味が舌を刺す。でも、それをエビの濃厚な出汁の旨味がしっかり下支えしてるんだ。レモングラスとバイマックルーの香りが鼻に抜けて、一口でタイの屋台に瞬間移動した気分だ」
晃次は額にうっすらと汗を滲ませながら、ぷりぷりのエビを噛みちぎった。
「エビの火入れも完璧だ。プリッとした食感の奥から甘みが弾ける」
そして、グラスに注いだルビー色のピノ・ノワールを一口含む。
「……見事だ。トムヤムクンの強烈なスパイスを、ワインの赤いベリー系の果実味が優しく包み込んでくれる。お互いの酸味が同調して、口の中が信じられないくらい華やかになる。これは悪魔的なマリアージュだぞ」
「ああああっ、ずるい! その酸っぱ辛い熱々のスープを飲んでからの、冷たいワインの果実味! 私の舌の記憶が完全にそれを再現してる! 美味しい! 美味しすぎる!」
幽霊の李理香は、物理的に食べていないにもかかわらず、顔を上気させて空中で悶え転がっている。代理摂食による二人の感覚の共有は、日を追うごとに研ぎ澄まされていた。
「はぁ……食った。最高のご褒美だ」
スープを一滴残らず飲み干し、晃次はワイングラスを傾けながら深く息をついた。
「お疲れ様、晃次。今日のコンペは本当にあんたの力よ。私がいなくても、あそこまで堂々とプレゼンできるようになったんだから」
李理香も満足そうに微笑み、テーブルの向かい側で頬杖をつくようなポーズをとる。
「いや、君の『空からのカンペ』がなかったら、あの場で終わってたさ。経営企画部への道が開けたのも、君のスパルタ指導のおかげだ」
「ふふん、もっと褒めていいわよ」
和やかな空気が流れる中、李理香は不意に少しだけ目を細めた。
「……で。作戦通り会社の中枢には食い込めそうだけど。あの原ユキって女、やっぱりちょっと距離が近すぎない?」
「え?」
「プレゼンの後よ! なんであんな至近距離でネクタイ触る必要があるのよ! あんなの、完全に男を誘ってる女の距離感じゃない!」
李理香の感情が高ぶった瞬間だった。
『チカッ、チカチカッ!』
ダイニングのペンダントライトが不自然に明滅し、テーブルの上の空になったスプーンが『カタカタカタッ!』と微かに震え始めた。
「お、おい、落ち着け李理香ちゃん! ポルターガイスト起きてるから! ニョッキが怯えてるだろ!」
「これが落ち着いていられるかっての! 私はあんたのプロデューサーなのよ! 変な女に引っかかってスキャンダル起こされたら、私の復讐計画に支障が出るんだからね!」
「スキャンダルって、俺はただのサラリーマンだぞ……」
ぷんぷんと怒りながら部屋の空気を揺らす幽霊の推しと、足元で不思議そうに鳴く子猫。
激動の一日を終えた晃次の日常は、事件の核心へと向かう緊張感とは裏腹に、なぜか少しずつ甘く、そして騒がしい方向へと転がり始めていた。




