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第11話 エリート部署と新しいデスク

「ほらニョッキ、こっちだぞ」


 朝の柔らかな陽光が差し込むリビング。上田晃次は、出社前のわずかな時間を使って、ソファの横で猫じゃらしを小刻みに振っていた。

 先端についた色鮮やかな羽根がカサカサと音を立てて動くたび、スコティッシュフォールドの子猫であるニョッキは、まん丸の瞳を輝かせて短い前足を必死に伸ばしている。


「にゃっ! にゃうっ!」


 短い足で立ち上がり、空中でパシッと両手を合わせるが、羽根は巧みに逃げていく。そのままバランスを崩してコロンと絨毯の上に転がり、今度は仰向けになって自分の短い尻尾を一生懸命追いかけ始めた。そのぽてっとした動きのすべてが、計算し尽くされたかのように愛らしい。


「……可愛すぎる。なんだこの破壊力は」


 激務と過酷な「一流化ブートキャンプ」で削られた晃次の精神が、見る間に回復していくのを感じる。


「あああああ! ズルいズルいズルい! なんで私じゃなくてあんたが猫じゃらし振ってんのよ! 私にも代わりなさい!」


 頭上から聞こえる悲鳴。半透明の白いワンピース姿の幽霊、内田李理香が、空中でジタバタと暴れている。

 週末にブリーダーの元へ同行した時からニョッキにメロメロな彼女だが、当然ながら幽霊であるため物理的な干渉はできない。


「だから幽霊は物に触れないだろ。猫じゃらしもすり抜ける。我慢しろ」

「わかってるけど、自分ばっかりモフモフの恩恵を受けるなんて不公平よ! ニョッキ、こっちよー! お姉ちゃんがエア猫じゃらししてあげるからねー!」


 李理香が空中で何もない手を必死にフリフリすると、霊感を備えているらしいニョッキは、彼女の手の動きに合わせて首を傾げ、宙に向かって「にゃあん」と可愛らしい声で応えた。


「ああっ、今私と目が合った! 私と遊んでくれてる! 天使! もう一回死んでもいいくらい可愛い! ねえ晃次、もっとちゅーるあげて! 貢ぎなさい!」

「おやつは一日一本って決まってるんだ。甘やかしすぎは良くない」


 朝から騒がしい推しの姿に苦笑しつつ、晃次は壁掛け時計に目をやった。

 時刻は午前7時半。そろそろ、スーツを着て戦場に向かう準備をしなければならない。


「さて、今日からいよいよ経営企画部だ。気合を入れていかないとな」


 晃次が立ち上がると、李理香も即座に「猫を愛でるお姉ちゃん」から「鬼上司」の顔へと切り替わった。


「その通りよ。総務部からいきなりエリートの巣窟に放り込まれるんだから、舐められたら終わりよ。スーツのシワひとつ、ネクタイのディンプルの深さひとつ、1ミリの妥協も許さないわよ!」


 厳しいチェックを受けながら、晃次は洗面所の鏡の前で己の姿を確認する。

 コンペで「ローカル・フレッシュデリ・キット」の企画が見事に採用されてから数日。晃次は原ユキ課長の強力な後押しにより、社長直轄のプロジェクトチームへと異動を命じられた。

 会社の中枢である経営企画部。そこは、オリオンフーズの未来を左右する意思決定が行われる場所であり、同時に李理香の死に関わった可能性のある役員たちが蠢く魔窟に最も近い場所でもある。


「よし、完璧ね。今のあんたなら、どこに出しても恥ずかしくない一流のビジネスマンのオーラが出てるわ」

「君のスパルタ指導の賜物だよ。慣れない筋肉を使ってるせいで、全身の筋肉痛は相変わらずだけどな」


 晃次はスーツのジャケットを羽織り、足元にすり寄ってくるニョッキに「行ってくる」と優しく声をかけて玄関を出た。


 オリオンフーズ本社の最上階に位置する経営企画部のフロアは、晃次がこれまで所属していた4階の総務部とは、全く空気が異なっていた。

 まず、異常なほど静かだ。

 足音を吸収する深いブルーの高級感あるカーペットが敷き詰められ、デスクのパーティションは高く設計されている。各デスクでは、社員たちがデュアルモニターに向かって猛烈なスピードでタイピングをしており、無駄話など一切聞こえない。電話の話し声も最小限に抑えられ、ピリピリとした緊張感と、エリート特有のプライドの高さが空間全体を重く支配していた。


「うわぁ……なんか息が詰まりそう。総務部のお茶飲み話みたいなゆるい空気、ミリもないわね」


 晃次から半径5メートル以内の距離を保ちながら、李理香が周囲を浮遊して物珍しそうに眺めている。


(油断するなよ。ここからが本番だ)


 晃次は小さく息を吐き、フロアの中央へと歩みを進めた。

 新参者の登場に、周囲の社員たちが冷ややかな、あるいは値踏みするような視線を向けてくる。


『あの総務から来たっていう上田か』

『一発まぐれでコンペに通っただけで、このフロアのスピードについてこれるのか?』


 そんな刺すような心の声が聞こえてきそうな、完全なるアウェーの空気。

 しかし、晃次は一切の動揺を見せなかった。背筋をピンと伸ばし、堂々とした、かつ軽やかな足取りで歩く。その姿は、周囲のエリート社員たちにも劣らない、いや、それ以上の洗練された存在感を放っていた。


「おはようございます。本日付でプロジェクトチームに配属されました、上田晃次です。よろしくお願いいたします」


 よく通る、腹の底から響く声。

 李理香のブートキャンプで徹底的に鍛え上げられた発声と、全員の目を見据える自信に満ちたアイコンタクト。

 その完璧すぎる挨拶に、フロアの空気が一瞬だけピタッと止まった。

 舐めてかかろうとしていた社員たちが、思わずタイピングの手を止め、姿勢を正し、「あ、おはようございます」「よろしくお願いします」と少し圧倒されたように挨拶を返してくる。


「ふふん、見たか! 私が磨き上げた極上のオーラを!」


 李理香が空中で得意げに腕を組み、胸を張る。


「見事な挨拶ね。初日からフロアの空気を掌握するなんて、さすが私の見込んだ男だわ」


 不意に、背後から凛とした声が響いた。

 振り返ると、完璧なシルエットのタイトスカートスーツに身を包んだ原ユキが立っていた。彼女が歩くたびに、上質な、しかし決して甘すぎない香水の香りがふわりと漂う。


「原課長。おはようございます。本日からお世話になります」

「ええ、歓迎するわ。あなたの新しいデスクはこっちよ」


 ユキは微かに微笑みながら、フロアの奥、パーテーションで特別に区切られたエリアへと晃次を案内した。

 そこには、巨大なモニターが設置された真新しい広々としたデスクが用意されていた。


「ここは……」

「私の斜め前の席よ。プロジェクトの進行には、常に密なコミュニケーションが必要だから。いつでも私に相談できるように、一番近い場所を用意しておいたわ」


 ユキはそう言いながら、晃次のデスクの縁に軽く腰掛けた。タイトスカートから伸びる美しい脚が強調され、大人の色香が容赦なく放たれる。至近距離から見つめてくる彼女の視線には、明らかな「特別扱い」の意図が含まれていた。


「……えっ。ちょっと待って」


 横で聞いていた李理香の顔つきが、スッと険しくなった。


「なんで私の晃次が、あの女の目の前に座らなきゃいけないのよ! 密なコミュニケーション!? 職権乱用じゃないの!」


 幽霊の抗議は当然ユキには聞こえない。ユキは晃次の顔を覗き込むようにして、艶やかな唇をほころばせた。


「あなたには期待しているの。総務部でのくすぶっていた時間を、ここで一気に取り戻してちょうだい。分からないことがあったら、私が手取り足取り教えてあげるから」

「……お心遣い、ありがとうございます。全力でご期待に応えます」


 晃次が李理香仕込みの完璧な営業スマイルで返すと、ユキは満足そうに頷き、自分のデスクへと戻っていった。


「あああああ! 腹立つ! あの女、絶対あんたのこと狙ってるわよ!」


 ユキの背中を睨みつけながら、李理香が空中でジタバタと暴れる。


『チカッ、チカチカッ!』


 彼女の激しい嫉妬と怒りがトリガーとなり、晃次のデスク上の新しいLEDライトが不自然に明滅し始めた。


「おい、落ち着け李理香ちゃん。ポルターガイストが起きてる。初日から心霊現象の噂が立って、お祓いでもされたら困るだろ」


 晃次が小声でたしなめると、李理香は「うぅ……」と唸りながらも深呼吸をし、ライトの点滅を収めた。


「ご、ごめん。でも、あんな至近距離でロックオンされてるなんて、気が気じゃないわ。……まあでも、悪いことばかりじゃないわね」


 李理香は気を取り直したように、フロアのさらに奥にある、重厚な木目調の扉を見つめた。


「あの奥が、役員室が立ち並ぶエリアでしょ? この部署なら、あそこの扉のすぐ近くまで堂々と近づける。私が壁をすり抜けて潜入捜査するには、これ以上ない絶好のポジションよ!」

「ああ。5メートルの距離制限がある以上、俺が役員室に近づけないと君も盗み聞きができないからな。このデスクの位置なら、給湯室や資料室へ行くふりをして、ギリギリまで近づけるはずだ」

「でしょ? あの女の配置も、結果的には私たちの作戦に有利に働いたってわけね。でも、だからってデレデレしてたら絶対に承知しないからね!」


「わかってるよ。俺の目的は、君の無念を晴らすことだ。そのためなら、鬼上司のシゴキだろうが、エリート上司の誘惑だろうが、全部利用してやるさ」


 晃次は真新しいパソコンの電源を入れながら、静かな闘志を燃やした。

 総務部という安全地帯を抜け出し、ついに足を踏み入れた会社の中枢。

 周囲は優秀なエリート社員と、底知れない大人の色香を放つ直属の上司。そして隣には、相変わらず騒がしい最強の幽霊プロデューサー。


 会社組織の深い闇と、複雑に絡み合う人間模様の中へ。

 霊感ゼロのサラリーマンと幽霊の推しによる、会社の中枢での新たな戦いが、今ここに静かながらも確かな熱を帯びて始動したのだった。

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