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第12話 サシ飲みと大人の色香

 オリオンフーズ経営企画部での異動初日。

 午後8時を回る頃、フロアに響き渡っていた猛烈なタイピング音は少しずつ鳴りを潜め、ポツポツと帰宅する社員の姿が見え始めていた。


「……ふぅ」


 上田晃次は、デュアルモニターから視線を外し、凝り固まった首の後ろを揉みほぐしながら小さく息をついた。

 たった一日とはいえ、会社の中枢であるエリート部署のプレッシャーは凄まじかった。総務部時代の、のんびりと備品発注の決裁を回していた日々が、遠い昔の出来事のように思える。


 そんな限界に近い疲労感の中、晃次の脳裏に浮かんだのは、今朝マンションの玄関で見送ってくれた愛猫の姿だった。

 今朝、出社前の晃次が特別なおやつである「ちゅーる」のスティックを開封した瞬間、スコティッシュフォールドの子猫であるニョッキは、普段のぽてっとした愛らしさをかなぐり捨て、隠された野生を剥き出しにして食らいついてきた。

 あまりにも無我夢中で、そして激しくペロペロと舐め回すものだから、鼻の頭から細いヒゲ、さらには頬の柔らかな毛にまで、茶色いペーストがべっとりと付着してしまったのだ。

 ちゅーるまみれになった自分の顔を、短い前足を懸命に使ってクシクシと洗おうとするその不器用な姿の破壊力たるや。


『ああああっ! 尊い! 尊すぎる! そのお顔についたちゅーる、お姉ちゃんが全部舐めとってあげるからぁぁっ!』


 横で同行の準備をしていた内田李理香の幽霊が、物理的に触れられない悔しさから空中でジタバタと悶え狂い、危うくポルターガイストで朝のニュース番組のテレビ画面を破壊しかけたほどである。


(あのちゅーるまみれの顔、可愛かったな……。早く帰ってモフモフしたい)


 晃次がニョッキの姿を思い出して無意識に口元を緩ませていると、斜め前のデスクから不意に声が掛かった。


「上田くん。初日から飛ばしすぎないで。今日はここまでにしましょう」


 スッと立ち上がったのは、直属の上司である原ユキ課長だった。

 タイトなスカートスーツのシワを優雅な手つきで払い、彼女は晃次のデスクのそばへと歩み寄ってきた。一日中ハードワークをこなしていたはずなのに、彼女の化粧は少しも崩れておらず、隙のない完璧な美しさを保っている。


「原課長。お疲れ様です。そうですね、キリの良いところまで終わったので、今日はこれで上がらせていただきます」


 晃次が李理香仕込みの「デキる男」の所作でパソコンをシャットダウンすると、ユキは赤いルージュを引いた唇に、艶やかな弧を描いた。


「ええ。それじゃあ、行きましょうか」

「……はい? 行くって、どこへですか?」

「言わなかったかしら。今日はあなたのプロジェクト合流のキックオフ兼、歓迎会よ。初日から無理はさせたくなかったけど、上司として労いの場くらいは設けさせて」


 歓迎会。その言葉に、晃次から半径5メートル以内の空中で退屈そうに浮いていた李理香が、ピクッと反応した。


「……え、ちょっと待って。他のメンバーは?」


 晃次も同じ疑問を抱き、フロアを見渡した。しかし、同じプロジェクトチームの社員たちは皆、すでに帰宅したか、イヤホンをして完全に自分の世界に入り込んでいる。


「今日は、私と上田くんの二人だけよ」


 ユキはふわりと大人の香水の匂いを漂わせながら、悪びれる様子もなく言った。


「プロジェクトの核になるのは、リーダーの私と、私の右腕になるあなた。まずは二人で、じっくりと方向性をすり合わせておきたいの。……ダメかしら?」


 小首を傾げ、上目遣いで見つめてくるユキ。その瞳には、上司としての威厳と、一人の女性としての微かな甘えが絶妙なバランスで混在していた。

 普通の三十路の男なら、この誘いを断れるはずがない。会社の権力者であり、絶世の美女からのサシ飲みの誘いなのだ。


「……ありがたく、お供させていただきます」


 晃次が恭しく頭を下げると、ユキは満足そうに微笑んだ。

 その直後。


「ちょっとォォォォッ!!」


 晃次の耳元で、鼓膜を突き破らんばかりの怒声が炸裂した。


「歓迎会って聞いて嫌な予感はしたけど、やっぱりサシ飲みじゃない! なにが『ダメかしら?』よ! この女、完全に職権乱用でお持ち帰りする気満々じゃないの!!」


 激怒する李理香の幽霊が、ユキの背後で般若のような形相になり、空中でシャドーボクシングを始めている。


「落ち着け李理香ちゃん……俺の出世と潜入捜査のためには、上司とのパイプ作りは必須項目だろ……」


 晃次はユキに聞こえないよう、腹話術のような最小限の口の動きで必死に弁明した。


「パイプ作り!? 違うわよ、あの女が狙ってるのはあんたの……あんたの……とにかく! 私も絶対についていくからね! 一生監視してやるんだから!」


 半径5メートル以上離れられないため当然なのだが、李理香は恐ろしい執念を燃やして二人の後を追ってきた。


 タクシーで向かった先は、銀座の路地裏にある、看板の出ていない隠れ家的なバーだった。

 重厚なマホガニーの扉を開けると、ほのかにシガーと柑橘系の香りが漂い、耳心地の良いジャズの生演奏が静かに流れていた。薄暗い間接照明が、大人の男女のための親密な空間を見事に演出している。


 バーテンダーに案内され、二人は一枚板の立派なカウンター席に並んで腰を下ろした。


「ここは私が昔から通っているお店なの。静かで、誰にも邪魔されないから好きでね」


 ユキはグラスに注がれたピノ・ノワールを傾けながら、妖艶に微笑んだ。


「素晴らしい雰囲気ですね。総務部の飲み会で行くような大衆居酒屋とは、別世界です」


 晃次はウイスキーのロックが入ったグラスを手に、落ち着いたトーンで返した。


 だが、晃次の内心は全く落ち着いていなかった。

 なぜなら、彼とユキが座るカウンター席の真後ろ。二人の背後の空中に、腕を組んだ李理香がぴったりと張り付いていたからだ。

 薄暗いバーの照明を透過してぼんやりと青白く光る彼女の姿は、完全にホラー映画のワンシーンだった。


「……雰囲気の良いバーでサシ飲み。古典的だけど、確実な手口ね。晃次、絶対に酔い潰されたり、変な空気に流されたりしちゃダメよ。私は見てるからね。ずっと見てるからね」


 呪詛のように囁く幽霊のプレッシャーと、隣に座る生身の美女のプレッシャー。晃次は文字通り、板挟みの地獄を味わっていた。


 最初は、ユキの言葉通り仕事の話から始まった。

 アジア市場開拓プロジェクトの今後の展望、役員会議での力学、そして彼女が晃次に期待する役割。晃次は李理香の教えを守り、的確な相槌と知的な切り返しで、ユキの信頼を確実なものにしていった。

 しかし、ワインのボトルが半分ほど空いた頃から、空気が少しずつ変わり始めた。


「……上田くんって、本当に不思議な人ね」


 ユキはふと、グラスの縁を細い指でなぞりながら、少し熱を帯びた瞳で晃次を見つめた。


「不思議、ですか?」

「ええ。これだけ頭が切れて、度胸もあって、何より……男としての魅力もある。どうして今まで、総務部なんて裏方で大人しくくすぶっていたの?」


 ユキの体が、微かに晃次の方へと傾く。香水の甘い香りが、アルコールの回った晃次の脳を直接揺さぶってくる。

 カウンターの下では、彼女のストッキングに包まれた艶やかな膝が、晃次の脚に触れるか触れないかのギリギリの距離まで近づいていた。


「……私はただ、自分に与えられた役割をこなしていただけですよ。今回はたまたま、私の知識が役立つ機会に恵まれたというだけです」

「謙虚なのね。でも、私にはわかるわ。あなたはもっと、高みに行ける男よ」


 ユキは晃次の目を真っ直ぐに見つめ、そのままゆっくりと顔を近づけてきた。


「ねえ、上田くん。仕事の話は、もう終わりにしましょうか。……私、あなたのプライベートな部分が知りたいわ」


「ストォォォォォップ!!」


 バーの静寂を切り裂くような李理香の絶叫が響き渡った。


「プライベートな部分!? 何言ってんのよこの女! ダメダメダメ! 距離が近すぎる! 膝! 膝が当たりそうになってるじゃない!」


 李理香は二人の間に割って入ろうと、ユキと晃次の間の空間にダイブしてきた。しかし、幽霊である彼女の体は虚しく空間をすり抜け、カウンターの向こう側へとすっ飛んでいくだけだ。

 すぐに体勢を立て直した李理香は、カウンターテーブルの下からひょっこりと顔を出し、ユキの膝を般若の形相で睨みつけた。


「晃次、今すぐ席を立ちなさい! トイレに行くふりをして逃げるのよ!」

「……そう言われましても」


 晃次はグラスの氷をカランと鳴らし、必死に平常心を装ってユキの視線を受け止めた。


「私のプライベートなんて、退屈なものですよ。休日は家で料理をするか、愛猫と遊んでいるくらいですから」

「猫を飼っているの? 意外ね。……でも、独身の男の人が猫を飼うと、婚期が遅れるってよく言うわよね」


 ユキはクスッと笑いながら、さらにパーソナルな領域へと踏み込んできた。


「上田くんは、今は……お付き合いしている女性はいるの?」


 直球すぎる質問に、晃次は息を呑んだ。


「……現在、特定の相手はいません」

「そう。それは……都合がいいわね」


 ユキの声が一段と低く、甘くかすれた。

 彼女の細い指先が、カウンターの上に置かれた晃次の手に、そっと重ねられた。生身の女性の、柔らかく温かい体温が伝わってくる。


「……ッ!!」


 その瞬間、カウンターの下に潜り込んでいた李理香の怒りが、ついに限界を突破した。


『触るな泥棒猫ォォォォッ!!』という声なき絶叫とともに、李理香の全身から目に見えない強烈なエネルギーの波が放射された。


 ただの嫉妬ではない。推しであり、鬼上司であり、そして奇妙な同居人である彼女の、理屈を超えた強烈な感情の爆発。

 生身の女の色香と、嫉妬に狂う幽霊の怨念が交錯するバーのカウンターで、晃次にとって決して逃れることのできない、長く恐ろしい夜の帳が静かに下りようとしていた。

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