第13話 ポルターガイスト・イン・ザ・バー
『パチッ……チカチカチカッ!!』
薄暗くムードのあった銀座のバーのLEDダウンライトが、突然、狂ったように明滅を始めた。
「えっ……?」
カウンター席で上田晃次の手に自分の手を重ねていた原ユキが、ビクッと身をすくめて天井を見上げる。
同時に、二人の座る重厚なマホガニーのテーブルが、微かに、しかし確かに『ガタガタガタッ!』と震え始めた。
「触るな泥棒猫ォォォォッ!! あんたなんかに、私の晃次を触る資格なんてないのよ!!」
晃次の耳にだけ、内田李理香の悲痛な、そして底知れぬ怨念の籠もった絶叫が響き渡っている。
彼女はカウンターの下から飛び出し、ユキの目の前で両手を激しく振り回して威嚇していた。その強烈な嫉妬と怒りの感情の波が、バーの磁場を完全に狂わせ、大規模なポルターガイスト現象を引き起こしているのだ。
「きゃっ!」
ユキの前に置かれたピノ・ノワールのグラスが、カタカタと音を立てて勝手に動き出し、テーブルの端へと滑っていく。
「あ、危ない!」
晃次は慌ててグラスの脚を掴み、中身がこぼれるのを阻止した。
「な、なによこれ。地震……?」
普段は冷静沈着でオカルトなど微塵も信じないユキも、さすがに異常な現象に顔を引きつらせている。
「い、いや! 地震じゃないみたいですね! ほら、他のお客さんは普通にしてますし!」
晃次が周囲を見渡すと、確かに明滅し、揺れているのは彼らの座っている席の周辺だけのようだった。
「た、たぶん、漏電ですよ! このビル、古そうですし! 配線がショートして電気がチカチカしてるんです!」
「でも、テーブルがすごく揺れて……!」
「大型トラックです! 銀座の裏道って、たまにものすごい大型トラックが通るんですよ! その振動がこの建物に共鳴してるんです!」
我ながら苦しすぎる言い訳だ。しかし、ここで「隣に嫉妬に狂った幽霊がいるんです」などと言えるはずがない。
「ちょっとォ! 誰が大型トラックよ! 私はダンプカー並みに怒ってるのよ!!」
李理香の怒号と共に、今度はカウンターの中にある空のシェイカーが『カランッ!』と音を立てて倒れた。
「……っ」
ユキは青ざめた顔で立ち上がった。生身の人間として、本能的な危険を察知したのだろう。
「ご、ごめんなさい。私、今日はちょっと酔いすぎたみたい。悪酔いして、目眩がしてるのかも……」
「そうですね! 疲労も溜まってるんでしょう! 今日はお開きにしましょう、僕がタクシーを拾いますから!」
晃次は強引に話をまとめ、そそくさと会計を済ませた。
ユキをタクシーに乗せて見送るまで、李理香はずっと般若のような顔でユキの背後を浮遊し、「二度と近づくんじゃないわよ」と呪詛を吐き続けていた。
「……ふぅ」
マンションの玄関のドアを閉め、靴を脱ぐなり、晃次は深いため息をついた。
「ただいま、ニョッキ。悪いな、遅くなって」
足元にすり寄ってくる愛猫を抱き上げようとした瞬間、背後から氷点下の冷気が吹き付けた。
「なーにが『ふぅ』よ! なーにが『遅くなって』よ!!」
リビングの明かりをつけると、李理香が仁王立ちで待ち構えていた。
「あんな女の露骨な誘いに乗りそうになるなんて、信じられない! 何よあの手! 完全に男をお持ち帰りする気満々の手だったじゃない! あんたも鼻の下伸ばしてデレデレしちゃって!」
「デレデレなんかしてない! 俺はただ、プロジェクトを円滑に進めるためのコミュニケーションを取ろうと……」
「コミュニケーション!? 膝をすり寄せて手を重ねるのが経営企画部のコミュニケーションなの!? ふざけないで! あんたのプロデューサーはこの私なのよ! 私の許可なく他の女とイチャイチャするなんて、契約違反で即刻クビよ!」
空中でジタバタと暴れ、ソファのクッションを微弱なポルターガイストでポフポフと叩いている李理香。
晃次はスーツのジャケットを脱ぎながら、彼女の怒りが収まるのを待った。
しかし、彼女がここまで激しく怒る理由は、ただの「プロデューサーとしての独占欲」だけではないような気がした。生身の人間と触れ合うことができない幽霊としての寂しさや、自分だけが置いていかれるような不安が、その声の端々に滲んでいるように聞こえた。
「……悪かったよ、李理香ちゃん。俺が隙を見せたのがいけなかった」
晃次は真剣なトーンで謝罪し、まっすぐに彼女の半透明の瞳を見つめた。
「俺の推しは君だけだ。君以外の女にうつつを抜かすつもりはないし、君の無念を晴らすまでは、他のことに気を取られたりしない」
「……ほんと?」
李理香の動きが止まり、少しだけ声のトーンが下がった。
「ああ。だから、機嫌を直してくれ。……お詫びと言ってはなんだが、今夜は『深夜のおうちデート』をしよう」
「……デート?」
李理香が目をパチクリとさせる。
「そう。君が生前、有名人だから絶対に行けなかったって言ってた『深夜の映画館デート』だ。部屋を真っ暗にして、ホームシアターで映画を観る。もちろん、映画館に欠かせない極上のジャンクフードも俺が作る。どうだ?」
その提案を聞いた瞬間、李理香の瞳にパァッと明るい光が宿った。
「……やる! 絶対やる! ポップコーンと、コーラと、あと映画館で売ってるようなジャンクなやつ、全部作って!」
見事な手のひら返しだった。推しの単純さと食い意地に救われながら、晃次は腕まくりをしてキッチンへと向かった。
「映画館の定番といえばフライドチキンとポテトだが……今日は特別だ。最高に背徳的で、テンションが上がるやつを作るぞ」
晃次は冷蔵庫から鶏もも肉を取り出し、大きめの一口大にカットする。
醤油、酒、すりおろしニンニクと生姜、そして隠し味の五香粉を揉み込み、しばらく味を馴染ませる。
「衣はザクザクにするために、片栗粉と薄力粉のダブル使いだ。そして、二度揚げする」
熱した油に鶏肉を投入すると、『ジュワァァァッ!』という暴力的な音と共に、スパイスとニンニクの香ばしい匂いが弾けた。
「ああっ……! いい匂い! 油の匂いってどうしてこんなに幸せなの!」
李理香が換気扇の下で身悶えしている。
チキンを揚げている間に、晃次は別のフライパンでソースを作る。
「今日は『ハニーマスタードソース』だ。粒マスタードの酸味とハチミツの甘み、そこに少しのマヨネーズでコクを出す。揚げたてのザクザクチキンに、この甘酸っぱいソースをたっぷり絡めるんだ」
さらに、冷凍庫から取り出した皮付きのフライドポテトを揚げ、その上から熱々のチェダーチーズソースをマグマのようにドバーッとかける。
「完成だ。深夜のシネマデート特製、ハニーマスタード・フライドチキンと、とろけるチーズポテト」
リビングの照明を完全に落とし、テレビの大画面でアクション映画を再生する。
ソファの真ん中にチキンとポテトの山盛りプレートと、氷がたっぷり入ったグラスに注いだコーラを二つ置いた。
晃次がソファの右側に座ると、李理香はフワリと降りてきて、左側の空いたスペースに座る姿勢をとった。
「なんだか、本当に映画館のカップルシートにいるみたいね」
暗闇の中、テレビの光に照らされた李理香の横顔が、いつもより少し大人びて見えた。
「さあ、冷めないうちに食べるぞ」
晃次は大きなフライドチキンを一つ手に取り、思い切りかぶりついた。
『ザクッ! ジュワァァァッ……!』
「んんっ……!」
「どう!? 食感! 肉汁! ソースの絡み具合!」
映画の音声よりも大きな声で、隣の幽霊が身を乗り出してくる。デートのムードも何もない。
「衣が信じられないくらいザクザクだ。噛んだ瞬間、熱々の肉汁と五香粉のスパイシーな香りが爆発する。そこにハニーマスタードの甘さと酸味が追いかけてきて、油のしつこさを完全に中和してる。無限に食えるぞ、これ」
言いながら、晃次はチーズの海に溺れたポテトを口に放り込み、冷たいコーラで一気に流し込んだ。
「……犯罪的な美味さだ。炭酸が喉を突き抜ける爽快感と、チーズの塩気が完璧なループを作ってる」
「あああああっ! ずるい! そのザクザク音とハニーマスタードの甘酸っぱさ、私の口の中にも完全再現されてる! 私もコーラ! 早くコーラ飲んで!」
李理香はソファの上でジタバタと悶えながら、エア・フライドチキンを両手で持って食べる真似をしている。
物理的に触れることはできなくても、代理摂食によって共有される味覚と、隣に座って同じ映画を観ながら笑い合う時間は、確かに「デート」と呼べるものだった。
「美味しい? 晃次」
不意に、李理香が少しトーンを落として尋ねてきた。
「ああ、最高だ。君と一緒に食べる夜食は、いつも数倍美味く感じるよ」
「……そっか。よかった」
李理香は少しだけ照れたように笑い、画面へと視線を戻した。
「あの原ユキって女と飲んでる時は、こんなに美味しそうじゃなかったもんね。やっぱり、私のプロデュースするご飯とデートのほうが一番でしょ?」
「ああ、間違いない」
「ふふっ。なら、許してあげる」
テレビの光に照らされた薄暗いリビングで、霊感ゼロのサラリーマンと、半透明の国民的女優は、深夜の背徳的な夜食デートを満喫していた。
生身の女が仕掛ける危険な誘惑と、触れられない幽霊が見せる無邪気な嫉妬。
会社の中枢に潜む闇を暴くための過酷な日々の裏側で、二人の奇妙な絆は、甘く香ばしい匂いとともに少しずつ深まっていくのだった。




