第14話 社長秘書の甘い罠
経営企画部へ異動して数日が過ぎた。
オリオンフーズの本社最上階は、役員室が立ち並ぶエリアと地続きになっている。そのため、フロアには各部署のエリート社員だけでなく、会社の中枢を担う重役たちや、彼らをサポートする秘書たちが頻繁に行き交っていた。
「ここなら、役員たちのスケジュールも交友関係も丸見えね。すり抜け能力を使えば、密室の会議だって聞き放題よ!」
上田晃次から半径5メートル以内の上空を漂いながら、半透明の幽霊・内田李理香が腕を組んで得意げに笑う。
事実、このフロアに異動してきてからというもの、彼女は晃次がコピー機や資料室へ向かうのに合わせて役員室の壁のギリギリまで接近し、壁をすり抜けては重役たちの些細な会話を収集していた。
しかし、役員室に近づいたことで増えたのは、情報だけではない。
「……あら、上田さん。お疲れ様です」
給湯室でコーヒーメーカーの抽出を待っていた晃次の背後から、甘く、そしてどこか気怠げな声が響いた。
振り返ると、社長秘書の酒井すずが立っていた。
体にフィットしたボルドー色のニットに、スリットの入ったタイトスカート。歩くたびに高級な香水の香りを振りまく彼女は、社内で「歩くフェロモン」と噂されるほどの妖艶な美女だ。
「酒井さん。お疲れ様です」
晃次が李理香仕込みの完璧な営業スマイルで会釈をすると、すずはふわりと微笑みながら、パーソナルスペースを容易く踏み越えて隣に並んできた。
「最近、上田さんの噂、秘書室でもよく聞きますよ。原課長のお気に入りだとか、仕事が早くて有能だとか。……総務部にいた頃の地味なあなたからは、想像もつかない変わりようですよね」
「光栄です。環境が変わって、少し気合を入れているだけですよ」
「ふふっ。でも、気合を入れる理由って、仕事だけなのかしら?」
すずはコーヒーカップを持つ晃次の腕に、わざとらしく自分の豊かな胸を押し当ててきた。柔らかな感触と、むせ返るような甘い香りが晃次の思考を揺さぶる。
「ちょっ……! なにこの女! 秘書が給湯室で何やってんのよ! 離れなさいよ泥棒猫その2!」
晃次のすぐ横で、李理香が空中でジタバタと暴れ始めた。当然、すずには彼女の姿は見えない。
晃次は顔を引きつらせないよう必死に耐えながら、さりげなく腕を引こうとした。しかし、すずはさらに体をすり寄せ、晃次の耳元に顔を近づけてきた。
「……上田さん。最近、夜な夜な『誰か』と話してるみたいね?」
「えっ……?」
心臓が嫌な音を立てた。一人暮らしの部屋で李理香と会話していることなど、誰にも知られるはずがない。
「マンションの隣の部屋に住んでる私の後輩が、言ってたんですよ。上田さんの部屋から、毎晩楽しそうに話す声が聞こえるって。……相手は、どんな素敵な女性なのかしら?」
「い、いや。それは、テレビを見ながら独り言を言ってるだけで……」
「隠さなくてもいいのに」
すずはクスクスと笑いながら、さらに声を落とした。そのトーンは、先ほどまでの甘い誘惑から一転して、獲物をいたぶるようなミステリアスなものへと変化していた。
「……ねえ。内田李理香の事故、本当にただの事故かしら」
「……ッ!」
晃次の全身の毛穴がぶわっと開いた。李理香も空中でピタリと動きを止め、すずの顔を凝視している。
「どういう……意味ですか」
「さあ? 社長と一部の役員が、あの事故の直後からやけにピリピリしてるのよね。……私、秘書だから色々と耳に入ってきちゃうんです。上田さんも、何か知ってるんじゃないですか?」
彼女は一体、どこまで知っているのか。ただのカマかけなのか、それとも真犯人に繋がる決定的な情報を握っているのか。
「……僕は、ただの平社員ですから。アイドルの事故の真相なんて、わかるはずがありません」
晃次が冷静さを装って答えると、すずはつまらなそうに小さくため息をついた。
そして、再び晃次の腕に胸を強く押し当て、上目遣いで見つめてきた。
「つまんないの。……でも、そういう口の堅い男の人、私嫌いじゃないですよ。もし誰にも言えない秘密があるなら、私と共有しませんか?」
『……ブチッ』
晃次の耳の奥で、何かが千切れる音がした。いや、音がしたように感じただけだ。
「この……ふしだら女ァァァッ!! 私の晃次にこれ以上くっつくんじゃないわよ!!」
李理香の強烈な嫉妬と怒りが限界を突破した。彼女の実体を持たない激しい感情の波が、給湯室の磁場に強烈に干渉し始めた。
『ガタガタガタガタッ!』
給湯室の隅に置かれていた大きな観葉植物が、風もないのに激しく揺れ始めた。さらに、シンクに置かれていたスプーンがチャリンチャリンと勝手に踊り出し、蛍光灯が不気味に明滅する。
「きゃっ!?」
すずが驚いて悲鳴を上げ、晃次の腕にさらに強くしがみついた。
「な、なによこれ! 地震!?」
「い、いえ! 建物の配管の振動ですよ! 古いビルだからよくあるんです!」
晃次が必死に取り繕うが、ポルターガイスト現象は収まるどころか激しさを増す。
「嫌だ……私、最近変なことばっかり起きるの。もしかして、私、呪われてるのかしら……? ねぇ上田さん、怖い……お祓いして?」
すずは怯えたふりをしながら、晃次の胸元に顔を埋めるように抱きついてきた。
「お・は・ら・い・だ・とォォォォッ!?」
李理香の怒髪天を突く叫びと共に、ついにコーヒーメーカーからお湯が勝手に噴き出しそうになったため、晃次は「酒井さん、危ないですから!」と強引に彼女を引き剥がし、逃げるように給湯室を飛び出したのだった。
「……信じられない! 何よあの女! 『お祓いして』!? あんたも鼻の下伸ばして抱きつかれたままになってんじゃないわよ!」
夜のマンション。帰宅して靴を脱ぐなり、李理香の怒涛の説教が始まった。
「仕方ないだろ、あっちから勝手にくっついてきたんだ。それに、彼女は君の事故について何か重要な情報を握ってるかもしれない。無下に突き放すわけには……」
「言い訳しない! つい先日、私と映画デートしていい雰囲気だったのに、たった数日で別の女にデレデレするなんて、浮気よ! 絶許!」
足元でスコティッシュフォールドの子猫・ニョッキが不思議そうに「にゃーん」と鳴いているが、李理香の怒りのオーラは収まらない。リビングの照明が未だに微かにチカチカと明滅している。
「わかった、悪かったよ。俺の脇が甘かった。……李理香ちゃん、腹減ってないか? 今夜はとびきりのコンフォートフードを作るから、機嫌を直してくれ」
晃次がエプロンを締めながら提案すると、李理香はピタッと動きを止め、ジト目でこちらを見た。
「……コンフォートフード?」
「ああ。アイルランドの伝統的な家庭料理で、『チャンプ』っていうんだ。心も体も温まる、究極のマッシュポテトだぞ。この間作ったジャンクなポテトとは一味違う」
「……マッシュポテト。ふん、それくらいで私が許すと思ったら大間違いなんだからね。でも、食レポの手抜きは許さないわよ」
言葉とは裏腹に、李理香はスッとダイニングの定位置へと移動した。
晃次はキッチンに立ち、メークインの皮を丁寧に剥いて均等な大きさに切り、塩茹でを始めた。
ジャガイモが柔らかくなるのを待つ間、小鍋にたっぷりの牛乳と、惜しみない量の無塩バターを入れる。さらに、細かく刻んだチャイブを加え、ごく弱火で温めていく。
「ネギとバターを牛乳で煮出すの?」
「そうだ。チャイブの爽やかな香りとバターのコクを、熱い牛乳の中に完全に溶け込ませるんだ。これがチャンプの命になる」
ジャガイモに竹串がスッと通るようになったら、湯を捨てて鍋を火にかけ、粉吹き芋の要領で余分な水分を完全に飛ばす。
ここからが力仕事だ。マッシャーを使い、ジャガイモのダマが一切なくなるまで、徹底的に、滑らかになるまで潰していく。
「そこに、さっき温めておいたチャイブ入りの特製ミルクバターを、数回に分けて少しずつ練り込んでいくんだ」
ゴムベラで空気を含ませるように混ぜると、もったりとしていたジャガイモが、みるみるうちにクリームのように艶やかな質感へと変わっていく。
「うわぁ……すっごく滑らか! バターとネギの香ばしい匂いがたまらないわね……!」
李理香が身を乗り出し、目を輝かせている。怒りはどこへやら、完全に食欲の虜だ。
「盛り付けが独特なんだ。深めの器にたっぷりとチャンプを盛り、スプーンの背で真ん中に深いくぼみを作る」
晃次はそのくぼみの中に、さらに追い討ちをかけるように、大さじ一杯の冷たいバターの塊を落とした。
熱々のチャンプの熱でバターがみるみるうちに溶け出し、黄金色の「バターの池」が完成する。
「これがアイルランドの魂、チャンプだ。バターの池にポテトを崩しながら浸して食べるのが正統派の作法だぞ」
「で、お酒は? ポテトに合うビールとか?」
「いや、今日のペアリングはこれだ」
晃次が取り出したのは、すらりとした細長い透明なボトルだった。中には無色透明の液体が入っている。
「トルコのお酒で『ラク』っていうんだ。アルコール度数は45度。アニスっていうハーブで香り付けされてる」
晃次は小さなグラスにラクを注ぎ、そこに同量の冷水を加えた。
すると、無色透明だった液体が、まるで魔法のように一瞬で真っ白に濁った。
「えっ!? なにそれ、水を入れただけなのに牛乳みたいになった!」
「ルーシュ現象っていうんだ。アニスの精油成分が水に溶けきれずに白濁する。トルコではこれを『ライオンのミルク』って呼ぶらしい。チャンプのバターのコクと、ラクの強烈なハーブの香りが、意外なほど合うんだ」
晃次はスプーンで、バターの池を決壊させるようにチャンプをすくい、口に運んだ。
「んんっ……!」
「どう!? バターの海に溺れる気分はどう!?」
「……信じられないくらい滑らかだ。ジャガイモの甘みが、たっぷりのバターと牛乳のコクで何倍にも引き上げられてる。そこにチャイブの青々しい香りとシャキッとした食感がアクセントになって、いくらでも食べられそうだ。ただのマッシュポテトじゃない、完璧な料理として成立してる」
晃次はすかさず、白濁したラクのグラスを傾けた。
八角に似たアニスの甘くスパイシーな香りが鼻を抜け、強いアルコールが食道を熱く焼きながら落ちていく。しかし、口の中に残っていたバターの濃厚な油分が、その刺激を見事に中和し、信じられないほど爽やかな後味へと昇華させた。
「……見事なマリアージュだ。チャンプの圧倒的な優しさを、ラクの野性的な香りがキリッと引き締めてくれる。疲れが一気に溶けていくよ」
「あああっ! 私もその黄金のバターの池にダイブしたい! アニスの香りってどんなの!? もっと詳しく食レポしてよ!」
空中でエア・スプーンを握りしめ、ジタバタと悶絶する李理香。
晃次が次々とチャンプを口に運び、ラクをあおるたびに、彼女も代理摂食によってその濃厚な旨味と鮮烈な香りを共有し、幸福そうなため息をついていた。
「……はぁ。最高だった。少しは機嫌、直してくれたか?」
空になった器を置きながら晃次が尋ねると、李理香はふんっと鼻を鳴らしつつも、どこか満足げに微笑んだ。
「まあ、今日のところはこれくらいで許してあげるわ。でも、あの酒井すずって秘書には気をつけるのよ。彼女が私の事件の情報をどこまで知ってるのか、次は胸じゃなくて、ちゃんと口を開かせなさいよ」
「ああ、わかってる。彼女の甘い罠には気をつけつつ、必ず情報を引き出してみせるさ」
深夜の静寂の中、子猫のニョッキが丸くなって眠りにつく傍らで。
極上のコンフォートフードとライオンのミルクに癒やされた二人は、会社の中枢に潜む黒い思惑と、危険な香りのする小悪魔秘書との次なる戦いに向けて、静かに決意を新たにしていた。




