第15話 メキシコからの太陽
「……うぅん」
重い瞼をこじ開けた上田晃次は、全身を覆う鉛のような疲労感に低く呻いた。
経営企画部の直轄プロジェクトへ異動して以来、業務のプレッシャーは総務部時代とは比べ物にならないほど増大している。それに加え、直属の上司である原ユキからの大人の色香を伴う誘惑、さらには社長秘書の酒井すずが仕掛けてくる危険な罠。
そして何より、彼女たちが接近してくるたびに隣で激怒する内田李理香の幽霊が引き起こす、ポルターガイストの後始末。
心身ともに休まる暇がなく、晃次の気力は常にレッドゾーンを点滅していた。
ベッドから這い出し、フラフラとリビングのドアを開ける。
「あ、おはよう。今日も顔色が土気色ね。まあ、あんな肉食獣みたいな女たちに囲まれてたら、精気も吸い取られるわよね」
すでに定位置の空中に浮遊していた李理香が、腕を組んでジト目を向けてきた。昨夜はマッシュポテトの「チャンプ」で機嫌を直してくれたはずだが、朝になればまたプロデューサーとしての小言モードに戻っている。
「おはよう……。朝からキツいこと言うなよ。俺だって好きで囲まれてるわけじゃ……」
言い返そうとした晃次の言葉は、視界の端に映ったある「光景」によって見事に遮られた。
リビングの隅。昨日、猫用品専門店で何気なく買ってきた「ブタの形をしたドーム型の爪とぎハウス」の丸い入り口から、スコティッシュフォールドの子猫、ニョッキの丸い顔だけがひょっこりと飛び出していたのだ。
本来なら中で丸まって寝るか、爪を研ぐためのものだが、ニョッキはブタの鼻に当たる入り口の穴に、まるで液体のようにすっぽりと自分の体を収めきっていた。
外から見ると、ピンク色のブタの顔のど真ん中から、耳の折れ曲がった毛玉が『にゃあん』と鳴きながらこちらを見つめているという、奇跡的なまでのコラボレーションが完成している。
「……ッ!!」
晃次はあまりの破壊力に言葉を失い、その場に膝から崩れ落ちた。限界突破していた疲労感が、スーッと浄化されていくのがわかる。
「ちょっと! なにそれ! なにその可愛い生き物! 嘘でしょ、ブタさんの中からネコチャンが!? 尊い! 尊すぎて霊体が爆発しそう!」
頭上の李理香も、空中でジタバタと手足を振り回して絶叫している。
「ニョッキ、こっちおいで! ああっ、でもそのままでも可愛い! 写真! 晃次、早くスマホで連写して! 触れない私の代わりにそのモフモフのブタ猫を撫で回しなさい!」
朝から騒がしい幽霊の指示に従い、晃次はニョッキの奇跡の一枚をカメラに収め、優しく頭を撫でた。
「はぁ……助かる。よし、これで今日の午前中くらいはなんとか戦えそうだ」
愛猫の無垢な愛らしさに一時的にスタミナを回復させた晃次は、重い足取りでスーツに着替え、戦場であるオリオンフーズ本社へと向かった。
しかし、子猫の浄化効果がもつのは、悲しいかな昼前までだった。
エリート社員の巣窟である経営企画部での激務。書類の山とデータ分析、他部署との根回しに追われ、晃次の集中力は限界を迎えていた。
斜め前ではユキが「上田くん、今日の夜、打ち合わせを兼ねて食事でもどう?」と艶やかな視線を投げてくる。そのたびに李理香が「行かせないわよ! なにが打ち合わせよ!」とデスクのペンをカタカタと揺らすため、晃次は愛想笑いを浮かべながら心霊現象を隠蔽するという高度なマルチタスクを強いられていた。
待ちに待った昼休み。
晃次は社員食堂の、窓際にある人気の少ないテーブル席に逃げ込むように座った。
「はぁ……ようやく一息つける」
「お疲れ様。あんたも大変ね。でも、これも犯人を暴くための試練よ。……で? 今日のご褒美ランチはなんなの?」
向かいの席にフワリと降り立った李理香が、晃次の手元にある保温機能付きのランチジャーを覗き込む。
「今日は、特別製の『スパイスカレー』だ。疲労回復と胃腸の活性化には、やっぱりスパイスの力が一番だからな」
晃次がランチジャーの蓋を開けた瞬間。
ふわぁっ、と、複雑に絡み合った強烈で芳醇なスパイスの香りが、食堂の一角に立ち込めた。
ベースとなる玉ねぎの甘い匂いに、クミンシードの土臭くも食欲をそそる香り、コリアンダーの爽やかさ、そしてカルダモンの高貴な香りが鼻腔を直接殴りつけてくる。
「うわぁっ……! なにこれ、凄い香り! 社食のカレーの匂いじゃないわね!」
「当たり前だ。市販のルーは一切使ってない。休日にスパイスを独自に調合して、鶏肉をヨーグルトとトマトでじっくり煮込んだ、自家製のチキンカレーだ」
ターメリックライスの上に、ゴロゴロとしたチキンと赤褐色のカレーがたっぷりとかかっている。
晃次がスプーンで掬い上げようとした、その時だった。
「ワオ! スッゴクいい匂い! クミンと……チレの香り? メキシコの市場みたい!」
突然、背後から底抜けに明るい声が降ってきた。
驚いて振り返ると、そこには原色に近い鮮やかな黄色のカーディガンを羽織った、ハーフのような顔立ちの女性が立っていた。
大きく表現豊かな瞳に、笑うとくっきりと浮かぶえくぼ。黒髪のウェーブヘアが、彼女の動きに合わせて元気に揺れている。
「えっと……君は?」
「はじめまして! わたし、海外事業部のソフィア・エルナンデス! メキシコ支社から出向で来てるの。よろしくね!」
ソフィアと名乗った女性は、屈託のない満面の笑みを浮かべると、初対面であるにもかかわらず、全く躊躇することなく晃次の席へと歩み寄ってきた。
そして次の瞬間、彼女は「いい匂いに釣られちゃった!」と言いながら、座っている晃次の肩に腕を回し、勢いよくギュッとハグをしてきたのだ。
「ぶふぉっ!?」
予想外すぎるラテン系のスキンシップに、晃次は思わずむせた。
日本のオフィスで、初対面の相手から突然抱きつかれるなど、事勿れ主義のサラリーマン生活において経験したことがない。
しかし、彼女のハグにはユキやすずのような計算高い「誘惑」の意図は微塵も感じられなかった。ただ純粋に、美味しい匂いと新しい出会いを喜ぶ、犬や子供のような無邪気さだけがあった。
「ちょっ……!! ストォォォォォップ!!」
晃次の耳元で、李理香の悲鳴のような絶叫が炸裂した。
「なに!? なんなのこの女! あの原ユキって女に、酒井すずって小悪魔秘書に、今度はメキシコからの刺客!? 距離感バグってんじゃないの! 初対面でハグとかありえないでしょ! 離れなさいよ泥棒猫その3!」
李理香の幽霊が、空中で真っ赤な顔をしてジタバタと暴れ始めた。
「ソ、ソフィアさん? 驚いたよ、日本の会社でハグはあまり……」
「アハハ、ごめんね! コージのカレーがあんまりにも美味しそうだったから、テンション上がっちゃった!」
ソフィアは晃次の社員証をチラリと見て「コージ」と気安く呼ぶと、そのまま晃次の隣の席にストンと座り込んだ。
「わたし、辛いものとスパイスが大好きなの。日本のゴハンも美味しいけど、時々パンチが足りなくて寂しかったんだ。コージ、料理スッゴク上手だね!」
キラキラと輝く瞳で見つめられ、晃次の中の「料理オタク」のプライドが微かにくすぐられる。
「……スパイスから調合するのが趣味でね。よかったら、少し味見してみるか?」
「えっ! ホント!? グラシアス! コージ、優しい!」
ソフィアが両手を合わせてパァッと顔を輝かせる。
その天真爛漫な太陽のような笑顔は、晃次の疲弊しきった心へ、ほんの少しだけ温かい光を差し込んでくれた気がした。計算も裏もない、純度100パーセントの明るさ。それが今の晃次には何より心が救われる思いだった。
「だーかーらー! デレデレするんじゃないわよバカ晃次!!」
李理香の嫉妬と怒りが、ついに臨界点を突破した。
『チカッ、チカチカッ、チカチカチカッ!!』
食堂の窓際に設置された蛍光灯が一斉に不気味な明滅を始め、晃次のランチジャーの蓋が『カタカタカタッ!』とラップ音を鳴らしながら小刻みに震え出す。
(やばい、李理香ちゃんが本気で怒ってる……!)
「あ、あの! ソフィアさん! この蛍光灯、ちょっと古いみたいで配線が……」
晃次が顔を引きつらせて必死に言い訳を考えようとした、その時だった。
「ワオ!!」
ソフィアが立ち上がり、明滅する蛍光灯を見上げて歓声を上げた。
「スッゴクいいね! 日本のオフィス、お昼からディスコみたい! パーティーの始まりだね! アリバ、アリバ!」
彼女は怖がるどころか、チカチカと点滅する光に合わせて、手拍子を打ちながら楽しそうに肩を揺らし始めたのだ。カタカタ鳴るランチジャーの蓋の音すら、彼女にとってはラテンのリズムを刻む楽器の一部に聞こえているようだった。
「……は?」
ポルターガイストを引き起こしていた李理香が、ピタリと動きを止めた。
「……な、なんなのよこの女。幽霊の嫌がらせをディスコの照明だと思ってるの? メンタルどうなってんのよ……」
想定外すぎるスーパーポジティブなリアクションに、天下の国民的女優も完全に調子を狂わされてしまったらしい。李理香の怒りのオーラが急速に萎んでいき、食堂の蛍光灯は何事もなかったかのように元の明るさを取り戻した。
「あれ、パーティー終わっちゃった? ザンネン」
ソフィアは少しだけ唇を尖らせた後、すぐに笑顔に戻り、晃次のスパイスカレーをスプーンで掬って口に運んだ。
「んんーっ! ムイ・リコ! クミンの香りがパッと弾けて、あとからトマトの酸味と唐辛子の辛さが来る! メキシコの料理にも通じるパッションを感じるよ!」
「そうだろう? スパイスの配合にはこだわってるからな」
「ねえねえ、コージ。お礼に、今度わたしの国の料理もご馳走するよ! 激辛のハラペーニョと、自家製のサルサソースを持っていくから、一緒にタコス作ろう!」
「えっ、いや、それは……」
チラリと横を見ると、一時的に呆気にとられていた李理香が、再び般若のような顔つきでこちらを睨み直している。ここで下手な約束をすれば、今度こそ食堂中の皿が宙を舞う大惨事になりかねない。晃次はこれ以上の心霊現象の露見を避けるため、何とか穏便に断ろうと試みた。
「あ、ああ……機会があれば、いつか……」
晃次が必死に言葉を濁して逃げようとしたが、ラテンのノリはそんな及び腰を許容しなかった。
「ヤッタ! じゃあ連絡先、交換しよ! ほらコージ、スマホ出して!」
「ちょっ、ソフィアさん、今は……!」
「いいからいいから!」
ソフィアは全く遠慮のない距離感で晃次のポケット付近をポンポンと叩き、半ば強引にスマートフォンを取り出させると、あっという間に自分の連絡先を登録してしまった。
「それじゃ、アスタ・ルエゴ!」
嵐のように現れたメキシコからの太陽は、風のように去っていった。
「……ちょっと! 連絡先まで交換して、何ホイホイ約束してんのよ!」
食堂の席に残された晃次に対し、空中の李理香がプンスカと怒り狂っている。
「不可抗力だ! 彼女のペースに完全に巻き込まれたんだよ! あそこでスマホを出さなかったら、一生ハグされたまま離してくれなさそうだっただろ!?」
晃次は必死に身の潔白を主張した。ユキやすずからの搦手のアプローチに対してはなんとか防戦できている彼にとって、ソフィアの陽気な強引さは別の意味で防御不能だったのだ。
「むぅ……。私が物理的に引き剥がせないのをいいことに……! 今度あの女があんたに抱きついたら、全力でポルターガイスト起こして食堂の皿という皿を全部ガタガタ言わせてやるんだから!」
物理干渉ができない幽霊ならではの、精一杯の意趣返しを口走る推しに、晃次は思わず苦笑しながらも安堵の息をついた。
疲労とプレッシャーに押し潰されそうになっていた日常。だが、思いがけず訪れたこの騒がしい時間は、常に神経をすり減らす社内の駆け引きとは無縁の、確かな安らぎを与えてくれた。
会社の中枢で繰り広げられる暗闘の裏側で、晃次を取り巻く人間関係に、また一つ新しく、そして強烈な風が吹き込んできたことを実感していた。




