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第16話 スパイシー・タコスと秘密の共有

 休日の午後。

 表参道のケヤキ並木を、上田晃次は大きな紙袋を両手に提げて歩いていた。

 その隣には、体にフィットしたノースリーブのニットと、優雅なフレアスカートに身を包んだ原ユキが並んで歩いている。いつもオフィスで見せる隙のないスーツ姿とは打って変わり、休日の彼女は洗練された大人の女性の私服姿であり、すれ違う人々の視線を釘付けにしていた。


「原課長。いくら『新規アジア市場開拓のための、競合他社のデリ商品のリサーチ』とはいえ、少し買いすぎじゃないですか?」


 晃次が紙袋の重さに苦笑しながら尋ねると、ユキはサングラスを少しだけ下げて、艶やかに微笑んだ。


「休日は『原課長』じゃなくて『ユキさん』でいいわよ。それに、リサーチは多角的に行わなきゃ。……それとも、休日に私と買い物を歩くのは退屈かしら?」

「とんでもない。光栄の至りですよ」


 李理香のスパルタ指導で身につけた「スマートな大人の男」の返しを自然と口にする晃次。だが、内心では冷や汗をかいていた。

 なぜなら、楽しげに歩く二人の背後、半径5メートル以内の上空には、半透明の白いワンピース姿の幽霊が、夜叉のような顔つきで張り付いていたからだ。


「これのどこがリサーチよ! 完全にただのデートじゃない! あの女、さっきから不自然に腕を当ててきたり、上目遣いで見てきたり、職権乱用にもほどがあるわ! 晃次、デレデレしたら許さないからね!」


 内田李理香の嫉妬に狂った怒声が、晃次の耳にだけガンガンと響いてくる。


「(仕方ないだろ。上司の誘いを無下には断れないし、これも役員に近づくためのパイプ作りだ)」


 晃次が周囲にバレないよう、腹話術のような口の動きで弁明するが、李理香の機嫌は直らない。


「ねえ、上田くん。この後、私のマンションに来ない?」


 不意に、ユキが足を止めて晃次の目を見つめた。


「買ってきたデリを並べて、ワインでも開けながらリサーチのまとめをしましょうよ。……夜まで、ゆっくりと」


 それは、明確な「大人のお誘い」だった。彼女の甘い香水と、少し熱を帯びた視線が晃次を絡めとろうとする。


「——ッ!! ダメダメダメダメ!! 行ったら呪い殺す!! 今すぐ断りなさい!!」


 李理香の怒りが頂点に達した叫びと共に、表参道の街路樹の葉が、風もないのにバサバサと不自然に揺れ始めた。


「あ、あの……!」


 晃次は心霊現象が露見する前に、慌てて頭を下げた。


「大変魅力的なお誘いなんですが、今日はこの後、どうしても外せない用事がありまして……! こちらのリサーチ品は、タクシー乗り場までお持ちしますから!」

「……そう。残念ね」


 ユキは少しだけ唇を尖らせたが、すぐに大人の余裕の笑みに戻り、晃次から買い集めたデリの紙袋を受け取った。


「仕事の早いあなたに免じて、今日はこれで解放してあげる。でも、次は逃がさないわよ」


「はぁ……生きた心地がしなかった」


 夕方。自室のマンションに帰り着いた晃次は、ソファに倒れ込んだ。

 足元には愛猫のニョッキが「にゃーん」とすり寄ってきて、疲れた心を解きほぐしてくれる。


「当たり前でしょ! 危うくあの女に食べられるところだったじゃない! やっぱりあの原ユキって女、隙あらばあんたを狙ってるわね!」


 プンスカと怒りながら、李理香が空中でジタバタと暴れている。


「わかってるよ。でも、なんとか躱せただろ。……さて、夕飯はどうするかな。昼間は惣菜屋を歩き回ったから、スパイスの効いた手作りのものが食べたい気分だ」


 晃次が立ち上がろうとした、その時だった。


『ピンポーン!』


 突然、玄関のインターホンが鳴った。

 モニターを確認すると、そこには満面の笑みを浮かべた見知った顔が映っていた。


「コージ! アミーゴ! いるー!?」


 先日社食で出会い、強引に連絡先を交換させられた海外事業部の出向社員、ソフィア・エルナンデスだった。


「えっ? なんでソフィアさんが……」


 晃次はドアチェーンをかけたまま、警戒心も露わに玄関を少しだけ開けた。


「ソフィアさん、なんで俺の家の住所を? 連絡先は交換したけど、住所は教えていないはずですよね」

「オラ! ごめんねコージ、実は人事部の友達にお願いして、こっそり住所教えてもらっちゃったの! 内緒だよ!」

「いや、内緒じゃ済まないですよ! それ、完全なコンプライアンス違反じゃ……!」


 晃次が防波堤を張ろうとしたが、ソフィアは悪びれる様子もなく、両手に抱えた大きな紙袋をドアの隙間から突き出してきた。


「アハハ、固いこと言わないの! この前、美味しいスパイスカレーをご馳走になったお礼を持ってきたの! メキシコの実家から送られてきた本場の食材だよ!」


 袋の中には、見事なハラペーニョの束、ライム、大量のアボカド、そしてトウモロコシの粉で作られた本場のトルティーヤがぎっしりと詰まっていた。


「これで一緒に、本場のタコスを作ろうと思って! ね、開けて開けて!」


 ラテンのノリと食材の圧力は、日本の事勿れ主義サラリーマンの警戒心など容易く押し潰していく。晃次は深い溜め息とともにチェーンを外し、彼女を招き入れるしかなかった。


「ちょっと! なんでまた別の女が押し掛けてきてるのよ!! しかも休日の夜に!!」


 李理香の幽霊が玄関の上空で信じられないものを見るような顔をしている。


「……こうなったら、腹を括るしかないな」


 晃次も腕まくりをし、ソフィアと並んでキッチンに立った。


「コージはタコスのお肉、お願い! わたしはサルサを作るから!」


 晃次は豚の肩ロース肉を細切りにし、ボウルに入れる。そこに、すりおろしたニンニク、クミンパウダー、オレガノ、チリパウダー、そして塩胡椒を多めに振ってしっかりと揉み込む。

 フライパンに油を引き、スパイスを纏った豚肉を一気に炒める。


『ジュワァァァッ!』


 強烈なスパイスの香りと、豚の脂が焦げる匂いがキッチンに爆発した。


「うわぁっ……! 暴力的なまでにいい匂い! 昼間のオシャレイタリアン惣菜とはパンチが違うわね!」


 上空を飛び回っていた李理香が、たまらず換気扇の下に吸い寄せられてくる。


 その横で、ソフィアは手際よく『サルサ・メヒカーナ』を作っていた。

 角切りにしたトマト、みじん切りの玉ねぎ、そして生のハラペーニョを細かく刻んでボウルに入れ、たっぷりのライム果汁と塩で和える。


「さらに、こっちは『ワカモレ』! アボカドを潰して、同じように玉ねぎとライム、パクチーを混ぜるの!」

「本格的だな。やっぱりハラペーニョは生を使うと香りが全然違う」

「でしょ? これが本物のメキシカンの香りだよ!」


 最後に、本場のコーントルティーヤを油を引かずにフライパンで軽く炙り、香ばしいトウモロコシの香りを引き出す。


 ダイニングテーブルに、熱々のスパイスポーク、色鮮やかな二種類のサルサソース、そして香ばしいトルティーヤが並んだ。


「さあ、コージ! 好きなだけ乗せて食べて!」


 晃次はトルティーヤを手に取り、豚肉をたっぷり乗せ、その上にワカモレとサルサ・メヒカーナを乗せて半分に折りたたんだ。

 大きく口を開け、ガブリとかぶりつく。


「んんっ……!!」

「どう!? コージ、美味しい!?」


 ソフィアだけでなく、向かいの空席にいる李理香も「どんな味!? 早く!」と身を乗り出してくる。


「……すさまじいな。まず、トルティーヤのトウモロコシの香ばしさが土台をしっかり支えてる。そこに、クミンとチリが効いた豚肉の強烈な旨味が来て……次の瞬間、生のハラペーニョの鮮烈な辛さと、ライムの酸味が口の中を一気に駆け抜けるんだ! アボカドのまろやかさがそれを包み込もうとするけど、スパイスのパッションが勝ってる。いくらでも食えそうだ!」


 晃次の熱のこもった食レポに、ソフィアは「ムイ・ビエン!」と大喜びで拍手をした。


「あああああっ! ズルい! そのスパイスの爆発、私にもちょうだい! ハラペーニョの刺激で細胞を目覚めさせたい!」


 李理香は空中でジタバタと悶絶しながら、エア・タコスを両手で持って食べる真似をしている。晃次が次々と口に運ぶたびに、代理摂食による強烈な辛味と旨味の疑似体験が彼女を満たしていき、先ほどまでの嫉妬の怒りは完全に食欲へと変換されていた。


「コージ、スッゴクいい顔して食べるね! 料理作りがいがあるよ!」


 ソフィアは満面の笑みで、晃次の肩をバシバシと叩き、そのままの勢いでギュッとハグをしてきた。


「ぶふぉっ!?」

「アハハ、タコスはパッションだからね!」


「——ッ!! 離れなさいよこのラテン女ァァァァッ!!」


 李理香の怒りのボルテージが、再び沸点を突破した。


『チカッ、チカチカチカッ!!』


 激しい感情の波に呼応して、ダイニングのペンダントライトが狂ったように明滅し始める。


「やばい、また……!」


 晃次が言い訳を考えようとしたが、ソフィアの反応は先日の社食の時と同じだった。


「ワオ! コージの部屋、クラブみたいな照明完備してるの!? 最高! パーティーだね!」


 彼女は全く怯えることなく、ポケットからスマートフォンを取り出すと、陽気なラテンミュージックを大音量で流し始めた。そして、明滅する光に合わせてノリノリでステップを踏み始める。


「……なんなのよこのメンタルお化け。幽霊の嫌がらせが、完全に演出扱いされてるじゃない……」


 ポルターガイストの引き起こし手である李理香自身が、完全に毒気を抜かれてポカンと宙に浮いている。

 晃次は、呆れ返る幽霊の推しと、踊り狂うメキシコの太陽を交互に見ながら、疲労と充実感が入り混じった深い溜め息を吐き出した。


 夜の10時。

 嵐のようにやってきたソフィアが「グラシアス! また来るね!」と嵐のように去っていき、部屋には再び静寂が戻っていた。


「はぁ……なんか、一日で一ヶ月分くらい疲れた気がする」


 晃次がタコスの残骸を片付けていると、キッチンのカウンターに置いていたスマートフォンが、短く『ブルッ』と振動した。


 画面を見ると、メッセージアプリの通知だった。

 送り主は、社長秘書の『酒井すず』。


【上田さん。面白い情報を手に入れました。明日の夜19時、赤坂の料亭で、社長と例の役員たちによる『極秘の会食』があります。……もし、何か探りたいことがあるなら、絶好のチャンスかもしれませんよ?】


 その文面を読んだ瞬間、晃次の顔から先ほどまでの穏やかな疲労感がスッと消え去り、鋭い緊張感が走った。


「……李理香ちゃん」

「ええ、読んだわ」


 晃次の背後から画面を覗き込んでいた李理香の声も、低く、冷たいものに変わっていた。


「極秘の会食。間違いなく、私の事故の隠蔽や、広告費の裏金に関する話が出るはずよ」

「ああ。酒井すずがなぜこの情報を俺に流してきたのか、罠の可能性もあるが……無視するわけにはいかないな」


 晃次は画面を暗くし、深く息を吸い込んだ。


 休日の陽気な時間は、もう終わりだ。

 役員室という会社の中枢に潜む、底知れない悪意。それを暴き出すための最大のチャンスが、向こうから飛び込んできたのだ。


「明日の夜。俺が料亭の近くで待機して、君が壁をすり抜けて密室の会話を録音……いや、記憶してくる。いけるか?」

「当たり前でしょ。天下の女優の暗記力、舐めないでよね。一字一句、あいつらの汚い会話を脳内に刻み込んでやるわ」


 薄暗いリビングで、霊感ゼロのサラリーマンと半透明の推しは、静かに視線を交わした。

 会社を揺るがす真実への扉に手をかけるため、二人は次なる危険な潜入捜査に向けて、静かに牙を研ぐのだった。

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