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第17話 極秘会食と招かれざる後任

 翌日の午後7時。

 赤坂の裏路地にひっそりと佇む、会員制の和風ラウンジバー。

 上田晃次は、黒漆塗りのカウンターの端、最も奥まった席でウーロン茶のグラスを傾けていた。

 このバーは、隣接する高級料亭『松月』と同じ敷地内にあり、建物同士が壁一枚で繋がっている。そして今、その壁の向こう側にある料亭のVIP個室では、オリオンフーズの社長と役員たちによる「極秘の会食」が行われていた。


「距離は完璧ね。ここからなら、半径5メートル以内の制限に引っかからずに、隣の個室にすり抜けられるわ」


 晃次の隣で、半透明の内田李理香が壁に手を当てながら頷く。


「頼んだぞ。役員たちの会話を一言一句、漏らさず記憶してきてくれ」

「任せなさい。女優の暗記力を舐めないでよね」


 李理香はふわりと宙に浮き上がり、そのまま音もなく黒い壁の向こう側へと姿を消した。


(よし。これで第一関門は突破だ。あとは彼女が戻ってくるまで、怪しまれずにここで待機していれば……)


 晃次が小さく息を吐いた、その時だった。


「お待たせしました、上田さん」


 不意に背後から、甘く、そして聞き覚えのある声が響いた。

 振り返ると、体にぴったりとフィットした深いネイビーのドレスに身を包んだ、社長秘書の酒井すずが立っていた。美しく巻かれた髪から、高価な香水の香りがふわりと漂う。


「酒井さん……やはり、来ましたか」


 晃次は内心の緊張を隠し、表面上は「デキる男」の余裕を崩さずに静かに応えた。


「あえて役員たちが密談している料亭の隣のバーを指定するとは、悪趣味な情報提供ですね。罠の可能性も考えていましたよ」

「ふふっ、罠だなんて人聞きが悪い。昨日、私が極秘会食の情報をメッセージで教えたじゃないですか。あれ、ただの親切心だと思いました?」


 すずは悪びれる様子もなく晃次の隣の席に腰を下ろし、バーテンダーにシャンパンを注文した。


「貴重な情報を提供するんですから、当然『対価』はいただきますよ。今日の対価は……私とのデート、ということで」


 艶やかな唇が、弧を描く。彼女の大きな瞳が、獲物を狙うように晃次を捉えていた。


「なるほど……そういうことですか」


 彼女が情報を流した目的は、晃次を呼び出して自分のペースに巻き込むことだったのだ。


「さあ、乾杯しましょう? 社長たちの密談を肴に飲むお酒なんて、最高にスリリングじゃないですか」


 すずはグラスを合わせると、そのまま晃次の肩に自分の肩が触れるほど距離を詰めてきた。


「お腹、空いてませんか? ここのお料理、料亭の厨房から直接運ばれてくるから、すごく美味しいんですよ」


 彼女がバーテンダーに注文し、程なくして運ばれてきたのは、『黒毛和牛と雲丹の炙り肉寿司』だった。

 表面を軽く炙られた霜降りの和牛の上に、黄金色に輝く新鮮な雲丹がたっぷりと乗せられている。


「どうぞ、遠慮しないで」

「……では、お言葉に甘えて」


 すずに勧められるまま、晃次は一つ箸で摘み、口に運んだ。

 肉の濃厚な脂の甘みと、雲丹の磯の香りが口の中でとろけ合い、極上の旨味となって舌を支配する。


「……確かに、素晴らしい味ですね。和牛の脂を雲丹がまろやかに包み込んでいて、醤油ではなく少量の岩塩が素材の味を引き立てている」


 晃次が料理オタクとしての素直な感想を漏らすと、すずは「ふふっ」と嬉しそうに笑い、さらに体を寄せてきた。


「上田さんが美味しそうに食べる顔、好きですよ。……ねえ、あの総務部で大人しくしていたあなたが、どうして急にこんな危険な真似をしてまで、社長たちの動向を探っているんですか?」


 核心を突く質問。すずの指先が、テーブルの上で晃次の手にそっと触れる。


「ちょっとォォォォッ!!」


 その瞬間、壁の向こうから李理香が顔だけを突き出して絶叫した。


「私が真剣に汚いおじさんたちの密談を記憶してる間に、なに別の女と肉寿司食ってイチャついてんのよ!!」

「い、イチャついてない! これは情報収集の一環だ!」


 晃次はすずにバレないよう、腹話術で必死に弁明する。


「言い訳無用! またこの女! あんたは私のバッテリーなの! 勝手に他の女に放電してんじゃないわよ!」


 李理香の強烈な嫉妬心が膨れ上がった瞬間、バーのカウンターの奥に並べられていた高級なグラスが、微かに『カチン、カチン』と鳴り始めた。


(まずい、ポルターガイストが起きる……!)


「あ、あの! 酒井さん、少し酔ったんじゃないですか? お水をもらいましょう!」


 晃次はすずの手をさりげなく躱し、バーテンダーに水を頼むことでなんとかその場をやり過ごした。

 すずは少し不満そうに唇を尖らせたが、それ以上追及してくることはなかった。


 やがて、会食が終わる気配を感じ取ったすずが「そろそろ、社長たちのお見送りに行かなくちゃ。今日のデートはここまでですね」と席を立った。


「上田さん。あなたが何を企んでいるのかは知りませんが……火傷しないように気をつけてくださいね」


 すずは意味深なウインクを残し、夜の街へと消えていった。


「……はぁ。寿命が縮むかと思った」


 晃次が安堵の息をつくと、完全に壁から抜け出してきた李理香が、不機嫌そうに腕を組んで目の前に浮かんだ。


「あんたの脇が甘いからよ。……まあいいわ。それより、重要な情報を持ってきたわよ」


 李理香の表情が、プロデューサーのそれに切り替わる。


「極秘会食の目的、わかったわ。私の事故の隠蔽の話じゃなかった。『私の後任となる、新しいCMキャラクターの最終決定』よ」

「君の後任……」


 オリオンフーズの主力商品のCMは、長年李理香が務め、クリーンで爽やかなイメージを定着させてきた。彼女が亡くなった今、早急に代役を立てる必要があるのは企業として当然の判断だ。


「で、誰に決まったんだ?」

「星野あやか」


 その名前を口にした瞬間、李理香の周囲の空気がピリッと冷たくなった。


「星野あやか……最近よくバラエティやドラマに出ている、少し気の強そうな若手女優か」

「そう。私の所属事務所の、一つ後輩よ」


 李理香は忌々しそうに、宙のグラスを睨みつけた。


「あの子、生前から私のことをめちゃくちゃライバル視してたの。『清楚ぶってるけど、本当は裏で枕営業でもしてるんでしょ』なんて、根も葉もない噂を流されたりもしたわ。表向きは愛想良く振る舞ってるけど、中身はとんでもなく性悪な女よ。社長たちが、なんであんな女を選んだのか理解できない」

「……君の事務所の社長が、役員に強く推したのかもしれないな」


 晃次が推理を述べると、李理香は悔しそうに唇を噛んだ。


「私が守ってきたCMの枠を、あんな女に奪われるなんて……絶対に嫌。でも、もう決定事項として話が進んでたわ」


 それから数日後の午後。

 オリオンフーズ本社の最上階は、少し浮き足立った空気に包まれていた。

 新しいCMキャラクターに就任することが決まった星野あやかが、社長や役員への挨拶のために来社したのだ。


「皆様、本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます。星野あやかです。偉大な先輩の跡を継ぐプレッシャーはありますが、オリオンフーズ様の素晴らしい商品を、全力でアピールさせていただきます!」


 応接室から漏れ聞こえてくる声は、見事なまでに謙虚で、明るく礼儀正しいものだった。

 廊下で見かけた社員たちも、「テレビで見るよりずっといい子だね」「李理香ちゃんの抜けた穴をしっかり埋めてくれそうだ」と好意的な反応を示している。


「……猫被りやがって。反吐が出るわ」


 晃次の斜め後ろで、李理香がギリッと歯軋りをした。

 挨拶を終えた星野と彼女のマネージャーは、一時的に用意されたVIP用の控室へと案内されていった。


「おい、李理香ちゃん。まさか」

「当然よ。あいつの本性、探ってくるわ」


 李理香は止める間もなく、控室の分厚い扉をすり抜けて中へと消えていった。

 晃次もすぐ隣の資料室に入り、壁際に背中を預けて息を潜めた。


 数分後。

 資料室の壁から、李理香がスーッと姿を現した。その顔は、怒りで青白く燃え上がっているように見えた。


「……どうだった」


 晃次が小声で尋ねると、李理香は震える声で控室の様子を報告し始めた。


「……社長たちの前ではあんなにいい子ぶってたのに、控室に入った途端、マネージャーに向かってこう言ったわ。『あーあ、あの退屈なおじさんたちの相手、マジで疲れた。内田李理香もよくこんな古臭い会社のCM、何年もやってたわよね』って」

「……」

「それだけじゃないわ。『でも、あの女が勝手に死んでくれたおかげで、一番オイシイ枠が私に転がり込んできたんだから、感謝しなきゃね。まあ、どうせあんな安っぽいレトルト食品なんて、私絶対に食べないけど』……そう言って、鼻で笑ったのよ」


 晃次の胸の奥で、ドス黒い怒りの炎がボワッと燃え上がった。

 李理香への冒涜。そして、自社の商品への侮蔑。

 食品メーカーの社員として、そして何より、内田李理香の熱狂的なファンとして、絶対に許すことのできない言葉だった。


「……あいつ、本当に私たちの商品のこと、馬鹿にしてたのね」


 李理香が悔しそうに俯く。


「私の代わりなら、せめて商品のことを愛してくれる人にやってほしかった。あんな女が、私の枠に座るなんて……」


「……李理香ちゃん」


 晃次は壁から背中を離し、静かに、しかし冷酷なまでの決意を込めた瞳で前を見据えた。


「あんな女に、君の代わりは務まらないし、うちの商品の顔になんかさせない」

「晃次……」


「教えてくれ、プロデューサー。あの『偽りの妖精』の化けの皮を完全に剥がし、社会的に失脚させるには、どう動けばいい?」


 李理香の顔がパッと上がり、その瞳にゾクッとするような悪戯っぽい光が宿った。


「ふふっ。いい目をしてるじゃない。それじゃあ、極上の『ざまぁ』のシナリオを授けてあげる。まずは、あいつのあの最悪な本音を、決定的な『証拠』として残すところからよ」


 資料室の薄暗い空間で、霊感ゼロのサラリーマンと幽霊の推しは、冷ややかな笑みを交わした。

 会社の中枢を蝕む闇に辿り着くための前哨戦。

 性悪なライバル女優への、容赦のない反撃のシナリオが、静かにその輪郭を現し始めていた。

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