第18話 幽霊スパイの誘導作戦
「……あいつ、本当に私たちの商品のこと、馬鹿にしてたのね」
数日前、オリオンフーズ本社の控室に隣接する資料室。
壁をすり抜けて戻ってきた内田李理香の報告を聞き、上田晃次は静かな、しかし確かな怒りを燃やしていた。
表向きは愛想の良い後輩女優、星野あやか。しかし控室での彼女は、李理香の死をあざ笑い、自社製品を「安っぽいレトルト食品なんて、私絶対に食べないけど」と吐き捨てていた。彼女が新しいCMキャラクターとして会社の顔になることなど、断じて許せるものではない。
「星野あやかの次回の来社予定はいつだ?」
晃次が尋ねると、李理香の瞳に女優としてのプライドと、推しを侮辱されたことへの強烈な反骨心が宿った。
「今週末よ。本格的なCM撮影の前に、衣装合わせと最終の打ち合わせで来るはず。……絶対に、あの女の本性を暴き出してやるんだから」
そして迎えた週末の休日。
星野を罠にはめるための緻密な作戦を練り上げ、少しだけ精神的な疲労を感じていた晃次を、一陣の陽気な風が連れ出していた。
「コージ! こっちこっち!」
代官山の裏路地にある、色鮮やかな壁画が目を引く本格メキシカンレストラン。そのテラス席から、大きく手を振っている女性がいた。
海外事業部のソフィア・エルナンデスだ。休日の彼女は、オフショルダーの真っ赤なブラウスにデニムという、健康的でパッションに溢れた私服姿だった。
「待たせてごめん、ソフィアさん」
「ううん、今来たとこ! 休日に付き合ってくれてグラシアス! このお店、メキシコ人の友達から『本物の味がする』ってオススメされて、どうしてもコージと一緒に来たかったの!」
先日、晃次の家でタコスを作った際、「次はわたしが美味しいものを紹介する!」と強引に約束を取り付けられていたのだ。実質的なデートであるが、彼女の底抜けの明るさの前では、不純な駆け引きなど入り込む隙はない。
「ちょっと! なんでまたこのラテン女とホイホイお出かけしてんのよ! 今週末は決戦の日なのよ!?」
晃次のすぐ後ろの空中で、白いワンピース姿の李理香がプンスカと怒っている。
「(作戦の準備は完璧に終わってるだろ。少しは気を抜かないと、本番でミスをする)」
晃次が口を動かさずに呟くと、李理香は不満そうに唇を尖らせたが、テーブルに運ばれてきた料理の鮮やかな色彩とスパイシーな香りに、すぐに目を奪われたようだった。
「これ、わたしの大好物! 『ファヒータ』っていうの!」
熱々に熱された鉄板の上に、スパイスでマリネされた牛肉や鶏肉、パプリカ、玉ねぎが山盛りに乗せられ、ジュージューと暴力的な音を立てている。
ソフィアは手際よくトルティーヤに肉と野菜を乗せ、サワークリームとサルサソースをたっぷりとかけて巻き上げ、晃次に差し出した。
「はい、アーンして!」
「えっ、いや、自分で食べるから……」
「ダメ! 美味しいものはシェアするのがメキシコ流! ほら!」
(ここで下手に拒否してソフィアに密着されれば、背後の李理香の嫉妬が爆発する。もしポルターガイストが起きて鉄板や皿が宙を舞えば、このレストランは大パニックだ……!)
危機感を抱いた晃次は、周囲への被害を防ぐため、ソフィアの手からファヒータを素早く奪い取り、「い、いただきます!」と自分で勢いよく口に放り込んだ。
「んんっ……!」
クミンやチリの複雑なスパイスが肉の旨味を引き立て、直後にサワークリームのまろやかな酸味が口の中をリセットしてくれる。シャキシャキとした野菜の甘みも絶妙だ。
「美味しいだろ!? コージの顔見ればわかるよ!」
「ああ、最高だ。スパイスのパンチが効いてるのに、いくらでも食べられそうだ」
晃次が素直に絶賛すると、ソフィアは自分のことのようにパァッと顔を輝かせた。
そして、その強烈な旨味は、代理摂食を通じて空中の李理香にもダイレクトに伝わっていた。
「ああっ……! サワークリームの酸味とスパイスの相性が神がかってる! 怒るのも馬鹿らしくなるくらい美味しいわね、これ!」
美味しい食事を前にして、李理香の嫉妬もすっかり鳴りを潜めた。
「ねえ、コージ」
食事の手を止め、ソフィアがふと、優しく微笑みながら晃次を見つめた。
「コージ、最近すごくいい顔してるね。初めて社食で会った時は、ちょっと疲れてるみたいだったけど……今は、何かに夢中になってる男の人の顔だよ」
無邪気な言葉が、核心を突く。
「……そう見えるか?」
「うん。何を目指してるのかは分からないけど、コージならきっと上手くいくよ。わたし、応援してる!」
裏表のない、真っ直ぐなエール。
彼女の太陽のような笑顔は、会社の中枢で泥沼の駆け引きに身を投じようとしている晃次の心に、温かな光と安らぎを与えてくれた。
(ああ。この平穏な日常を守るためにも、絶対に負けられない)
晃次はファヒータを喉に流し込みながら、静かに闘志を新たにした。
数日後。
オリオンフーズ本社、最上階のVIP用控室。
星野あやかが衣装合わせと打ち合わせのために来社し、マネージャーと共に控室内で待機していた。
「失礼いたします。総務部の上田と申します。本日の打ち合わせ用のケータリングをお持ちいたしました」
晃次はワゴンに乗せた高級フルーツの盛り合わせと特製スイーツをテーブルに並べた。
現在、晃次は経営企画部のプロジェクトチームに所属しているが、もしその立場で星野やマネージャーに顔を覚えられれば、後々不審に思われる可能性がある。そのため晃次は、引き出しの奥にしまっていた古い「総務部」の名札をあえて胸につけ、単なる雑用係を装っていたのだ。
「あら、わざわざありがとうございます」
星野は表向きの『愛想の良い若手女優』の顔で微笑み返した。
「どうぞごゆっくり。それでは、失礼いたします」
晃次は深く一礼をして退室する直前、テーブルの端に置かれていた大きな観葉植物の鉢の裏に、通話状態にした私用のスマートフォンをスッと忍ばせた。
事前の下見で確認しておいた、死角になる完璧な位置だ。
ドアを閉めた晃次は、控室から半径5メートル以内の廊下の壁際に背中を預ける。手元にある社用のスマートフォンにワイヤレスイヤホンを繋ぎ、通話越しに控室の音声をリアルタイムで傍受しながら、同時に端末の録音アプリでその音声を記録していく寸法だ。
「さあ、私の出番ね」
壁の向こう側へすり抜ける直前、李理香がニヤリと笑った。
「狙ってポルターガイストを起こせるのか?」
「舐めないで。私は一流の女優よ。『激怒する役』に入り込めば、自分の中の感情のボルテージを意図的に最高限度まで引き上げることなんて簡単なんだから。究極の『メソッド演技』を見せてあげるわ」
李理香は自信満々にウインクを残し、壁の中へと消えていった。
イヤホンから、控室の音声が鮮明に聞こえてくる。
晃次が退室した直後、星野の声のトーンは一変していた。
『あーあ、面倒くさい。フルーツなんて糖分の塊、誰が食べるのよ。本当に気が利かないわね、この会社の人たち』
『まあまあ、あやかさん。これも大事なスポンサーですから』
『分かってるわよ。でも、こんな古臭い企業の商品なんて、私のイメージに合わないのよね』
その傲慢な言葉を聞きながら、李理香は控室の空中に浮かび、ゆっくりと目を閉じた。
(……許さない。私の大切にしていた仕事を、私のファンを、ここまで愚弄するなんて)
彼女は自身の内側にある「怒り」の感情の種火に、これまでの屈辱と理不尽な死への無念を注ぎ込み、一気に燃え上がらせた。
女優・内田李理香の真骨頂。完璧な感情のコントロールによる、怒りの増幅。
『……っ!!』
李理香がカッと目を開いた瞬間、彼女の霊体から目に見えない強烈なエネルギーの波が放射された。
『……ん? なんだか急に、部屋が寒くない?』
イヤホンから、星野の戸惑う声が聞こえた。
『冷房が強すぎるわ! マネージャー、ちょっと温度上げてきて! 私、冷え性なんだから!』
『は、はい! おかしいな、設定は25度になってるのに……』
マネージャーが空調のパネルを操作しようとした、その時。
『ガタガタガタッ!』
星野の目の前、テーブルの上に置かれていた彼女の高級なメイクポーチが、まるで目に見えない手で揺すられているかのように激しく震え始めた。
『きゃっ!? な、なによこれ!』
震えはさらに激しさを増し、ついには『ガシャァァン!』という音を立てて床に落下。中に入っていたファンデーションやリップが散乱した。
『なんなのよこの部屋! 気持ち悪い!』
星野は完全にパニックと苛立ちの極致に達し、ヒステリックな金切り声を上げた。
『早くここから出してよ! だいたい、なんで私がこんな三流企業の安い食べ物のCMなんかやらなきゃいけないのよ!』
『あやかさん! 声が大きいです、外に聞こえますよ!』
『うるさいわね! どうせあの女の怨念でもこびりついてるんじゃないの!? 内田李理香が死んでくれて清々したってのに、死んでまで私の邪魔をする気!? 忌々しい!』
――録音は、完璧だった。
「……カット。素晴らしい演技だったわ、星野あやかさん」
壁の中からスーッと戻ってきた李理香が、冷ややかな笑みを浮かべて晃次の隣に並んだ。
晃次もイヤホンを外し、静かに頷いた。
「見事な誘導だった。これ以上ない、決定的な本音を引き出せたな」
総務部の名札を提げた晃次は、再び「デキる男」の表情を作り、ゆっくりと控室のドアノブに手をかけた。
「失礼いたします。物音が聞こえましたが、いかがなさいましたか?」
心配そうな顔で中に入り、散乱したメイク道具を片付けるふりをしながら、観葉植物の裏からスマートフォンを鮮やかに回収する。
「あ、いえ……なんでもないです。ちょっと落としてしまって」
顔を引きつらせている星野を背に、晃次は恭しく一礼をして部屋を後にした。
廊下を歩きながら、晃次は手元のスマートフォンの画面を見下ろした。
そこには、国民的女優の仮面を被った女の、醜悪な本音が克明に記録された音声ファイルが存在している。
「これで、チェックメイトだ」
「ええ。思い知らせてやりましょう。私たちの怒りをね」
太陽のように明るい休日を経て、冷酷に研ぎ澄まされた二人の刃。
性悪な後輩女優を引きずり下ろし、会社の中枢に潜む闇に迫るための、容赦のない反撃のカウントダウンが始まった。




