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第19話 偽りの妖精、追放

「……私たちのブランドを、『三流の安い食べ物』、と言ったのね」


 オリオンフーズ本社、経営企画部のフロア。

 パーテーションで区切られた原ユキのデスクの前で、周囲の空気が一瞬にして凍りついたように感じられた。


 ユキの切れ長の瞳が、上田晃次の手の中にあるスマートフォンの画面を冷徹に射抜いている。たった今、そこから流れてきたのは、新CMキャラクターに内定している女優・星野あやかの、信じられないほど傲慢な暴言だった。


「原課長。これは昨日、私がVIP控室の備品点検に入った際、機材の裏にうっかり置き忘れてしまった私用のスマートフォンに、偶然録音されてしまっていた音声です」


 晃次は李理香の指導で身につけた冷静な声色で、あらかじめ用意していた完璧な言い訳を述べた。


「偶然とはいえ、自社の製品をここまで愚弄する人間が、新しい会社の顔になることを見過ごすことはできませんでした」


 ユキはスマートフォンから視線を上げ、ゆっくりと立ち上がった。

 彼女は普段、どんなトラブルにも動じない超合理主義のキャリアウーマンだ。しかし、自社の商品とブランドイメージに対するプライドは誰よりも高く、それに泥を塗る行為は決して許さないという熱い情熱を内に秘めている。


「ええ、その通りよ。上田くん、よくこのデータを持ってきてくれたわ」


 ユキの赤いルージュを引いた唇が、微かに、そして残酷な弧を描いた。


「これから第1会議室で、社長や役員が同席しての『CM契約の最終承認会議』が行われるわ。……私たちも少し、お邪魔させてもらいましょうか」


「いけいけー! あの女の権力を最大限利用して、あの偽物妖精の仮面を完膚なきまでに叩き割ってやりなさい!」


 晃次の背後で、内田李理香の幽霊が空中で激しくガッツポーズをしている。目的が一致した時、この頼もしい上司二人は最強の矛となる。


 最上階の第1会議室には、社長をはじめとする重役たち、そして星野あやかと彼女のマネージャーが円卓を囲んでいた。


「星野さん、これからの我が社のプロモーション、どうかよろしく頼みますよ」

「はいっ! オリオンフーズ様の商品は私も昔から大好きで、毎日食べているんです。先輩の残した大切な枠ですから、誠心誠意、ブランドの魅力を伝えていきたいと思っています!」


 星野は両手を胸の前で合わせ、可憐な笑顔で頭を下げた。重役たちの顔に、満足げな笑みが広がる。


 その和やかな空気を切り裂くように、重厚な扉がノックもなしに開かれた。


「社長、恐れ入ります。契約の最終承認の前に、どうしても皆様に共有していただきたい重大な事実がございます」


 堂々たる足取りで入室してきたのは、原ユキだった。その後ろには、スマートフォンを手にした晃次が静かに付き従っている。


「原課長? 今は重要な会議中だぞ。それに、後ろの君は経営企画部の上田くんじゃないか。一体何の用だね」


 進行役の役員が咎めるような声を上げたが、ユキは全く怯むことなく円卓の端に進み出た。


「これから我が社の顔となる星野あやかさんの、『商品に対する本当の愛情』についてです。上田くん」

「はい」


 ユキの合図を受け、晃次は手元のスマートフォンを操作し、会議室の高性能なBluetoothスピーカーに接続した。

 そして、再生ボタンをタップする。


『だいたい、なんで私がこんな三流企業の安い食べ物のCMなんかやらなきゃいけないのよ!』


 スピーカーから、不機嫌極まりない星野のヒステリックな声が大音量で響き渡った。

 会議室の空気が、ピシッと固まる。星野の顔から、先ほどまでの可憐な笑みが一瞬で消え失せた。

 さらに、音声は続く。


『内田李理香が死んでくれて清々したってのに、死んでまで私の邪魔をする気!? 忌々しい!』


 決定的な本音が、重役たちの耳に叩き込まれた。


「な、ななな、何ですかこれは! AIの捏造です! 私、そんなこと一言も……!」


 星野は立ち上がり、顔を真っ青にして叫んだ。

 しかし、ユキは冷ややかな視線を彼女に突き刺した。


「捏造? 昨日のVIP控室で、あなたが空調の不具合に文句を言い、メイクポーチを床に落として散乱させたことは、清掃に入ったスタッフから報告を受けていますよ。状況と完全に一致していますが、それでも言い逃れをしますか?」


「あ……う……」


 星野の口がパクパクと動き、助けを求めるように隣のマネージャーを見たが、彼もまた滝のような汗を流して俯いているだけだった。

 先ほどまで星野を絶賛していた社長の顔は、怒りで赤黒く染まっていた。


「……星野さん。我が社の、社員たちが心血を注いで開発している商品を『三流の安い食べ物』と。さらには、不慮の事故で亡くなった前任者を『死んで清々した』と……」


 その言葉を聞いた瞬間、晃次の胸の奥で、ドス黒い炎がボワッと燃え上がった。


(不慮の事故だと? 彼女を殺し、隠蔽を指示した黒幕の分際で、よくもそこまで白々しい台詞が吐けるものだ)


 奥歯を強く噛み締める。背後の空中に浮かぶ李理香も、冷たい憎悪に満ちた目で社長を睨みつけていた。今すぐポルターガイストを起こして、その偽善者の首を絞め上げてやりたい衝動に駆られる。

 しかし、今の目的はあくまで星野の追放だ。二人は感情を必死に押し殺し、冷徹にその場を見届けた。


「しゃ、社長! 違います、これは言葉の綾で……!」

「出て行きなさい」


 社長の低く、地を這うような声が会議室を震わせた。


「契約は白紙撤回だ。君のような本性を持つ人間に、我が社の看板は一秒たりとも背負わせられない」


「そ、そんな……! 嫌だ、やっと回ってきた大口のスポンサーなのに!」


 星野は完全にパニックになり、涙目で役員たちを見回した。しかし、彼女を強く推していたはずの役員すらも、周囲の目を気にして顔を背けている。

 完全に居場所を失った彼女は、真っ赤な顔をしてハンドバッグを掴み、マネージャーを置いて逃げるように会議室を飛び出していった。


「……いや、よく止めてくれた、原課長、上田くん。危うく取り返しのつかないミスを犯すところだった」


 社長が深く息を吐き、会議はそのまま契約撤回の事後処理へと移行していった。


「……ふふっ。あははははっ! 見た!? あの女の顔! もう最高! 傑作だったわね!」


 廊下に出た瞬間、晃次の頭上で李理香が腹を抱えて大爆笑を始めた。


「ええ。私たちの商品を馬鹿にしたらどうなるか、これで身に染みてわかったはずだ」


 晃次も静かに頷いたが、その表情は晴れやかなものだけではなかった。


「……でも、あの社長の言葉。虫酸が走ったわ。自分たちの手で私を殺しておいて、『不慮の事故』なんて……」


 笑いを収めた李理香の声が、低く沈む。


「ああ。必ずあの首魁を引きずり下ろして、その偽善の皮を剥いでやる。だが……今日のところは、俺たちの第一歩としての勝利だ」


 晃次は周囲に誰もいないことを確認し、空中に向かって右手を高く掲げた。

 李理香も顔を上げ、晃次の手に向かって自分の右手を勢いよく振り下ろす。


『パーンッ!』という快音は鳴らず、互いの手は虚しく空気をすり抜けただけだった。しかし、霊感ゼロのサラリーマンと半透明の推しの間には、確かな熱い連帯感があった。


「さあ、今日は祝勝会にしましょ! あんたのおごりだからね!」

「わかってるよ。とびきり美味いものを作ってやる」


 夜のマンション。

 愛猫のニョッキに癒やされた後、晃次はキッチンに立ち、腕まくりをした。


「今日は本気のタコスだ。休日にアメ横の輸入食材店で買っておいたマサがあるからな。今日は生地から打つぞ」

「えっ、生地から作るの!? 本格的!」


 ダイニングで宙に浮く李理香が、身を乗り出して目を輝かせる。


 晃次は大きめのボウルにマサを入れ、ぬるま湯と少量の塩を少しずつ加えながら、耳たぶほどの柔らかさになるまで丁寧に捏ねていく。

 それをゴルフボールほどの大きさに丸め、平らな鍋底を使って均等な薄さにプレスする。


「これを、油を引かないフライパンで香ばしく焼き上げるんだ」


 生地がぷくっと膨らみ、トウモロコシの甘く素朴な香りがキッチンいっぱいに広がる。


「具材は『カルネ・アサダ』だ。牛肉のステーキタコスだな」


 牛のハラミ肉を、たっぷりのライム果汁、すりおろしたニンニク、クミン、コリアンダーパウダー、そしてオレガノでしっかりとマリネしておく。

 熱した鉄のフライパンに肉を投入すると、激しい音と共に、野性味あふれるスパイスの香りが弾けた。


「うわぁぁぁっ! 強烈な匂い! お肉の焼ける匂いとスパイスの香りが胃袋を直接掴んでくるわ!」


 強火で一気に表面を焼き固め、中はジューシーなミディアムレアに仕上げた肉を、細かく刻んでいく。


「トッピングはシンプルに。刻んだ生玉ねぎと、シラントロ。そして、トマトとハラペーニョをローストして作った自家製の激辛『サルサ・ロハ』だ」


 焼き立ての熱いトルティーヤに、たっぷりの牛肉と野菜、そして真っ赤なサルサを乗せる。


「よし、完成だ。そして今日のペアリングは、これしかない」


 晃次が冷蔵庫の奥から取り出したのは、ガラス瓶に入ったオレンジ色の炭酸飲料——『ファンタ・オレンジ』だった。


「えっ、ファンタ!? タコスにジュース合わせるの!?」

「メキシコの屋台じゃ、タコスにコーラやファンタを合わせるのが定番中の定番なんだよ」


 晃次は栓抜きで小気味良い音を立てて王冠を抜き、氷を入れたグラスに注いだ。


「いただきます」


 晃次は具材がこぼれないようにタコスを半分に折りたたみ、大きく口を開けてかぶりついた。


「んんっ……!!」

「どう!? 生地から作ったタコスのお味は!?」

「……凄まじいな。市販の生地とはトウモロコシの香りの濃さがまるで違う。噛んだ瞬間、カルネ・アサダの強烈な肉の旨味とスパイスが弾けて、そこに生玉ねぎの辛味とパクチーの清涼感が追いかけてくる。そして、サルサ・ロハの突き抜けるような辛さが全部をまとめ上げてるんだ」


 晃次は額に汗を滲ませながら、すかさずグラスのファンタ・オレンジを喉に流し込んだ。


 強烈な炭酸と、オレンジフレーバーのジャンクでチープな甘さが、口の中で燃え盛るスパイスの熱と肉の脂を、一気に、そして鮮やかに洗い流していく。


「……悪魔的だ。ワインやビールの気取ったマリアージュじゃない。この分かりやすい甘さと炭酸が、タコスの野性味に劇的に合う。無限ループできるぞ」


「はぁ〜っ、最高!」


 李理香は空中で見えないファンタの瓶を高く掲げ、ゴクゴクと呷るような豪快なポーズをとった。


「ワイングラスを傾けるようなお上品なディナーもいいけど、こういうチープで突き抜けたジャンクさが、今の気分にぴったりね! まるで今日の胸のすくような展開みたい!」


 彼女は心底楽しそうに笑い、そして晃次に向かって身を乗り出した。


「……でもやっぱり、疑似体験じゃ物足りないわ! 晃次、もっと一気に飲んで! 炭酸で喉をガンガン鳴らすくらい、豪快にいって!」


 その無邪気な要求に応え、晃次が次々とタコスを口に運び、オレンジ色の炭酸をあおるたびに、彼女も代理摂食によってその強烈な旨味と爽快感を共有し、幸福そうなため息をついていた。


「……はぁ、食った。嫌なこと全部忘れられる味だな」


 最後のファンタを飲み干し、晃次が満足げに息をつく。


「本当ね。今日はあの性悪女の転落も見られたし、極上のタコスも味わえたし、言うことなしの祝勝会だわ」


 李理香も空中の定位置で、満面の笑みを浮かべていた。


 性悪なライバル女優を見事に追放し、自社製品の誇りを守り抜いた一日。

 会社の中枢に潜む黒幕への憎悪は胸の奥で静かに燃え続けているが、今夜だけは、スパイスの香りとオレンジの甘さに包まれた、ただひたすらに痛快で幸せな時間が流れていた。

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