第20話 黒幕の焦りと新たな標的
星野あやかの新CMキャラクター内定が、契約直前で不祥事により白紙撤回されたという大波乱から、数日が経過した週末。
快晴の空の下、原宿・竹下通りは身動きが取りづらいほどの若者たちでごった返していた。
色鮮やかなファッション、ポップミュージックのBGM、そして甘いクレープや綿菓子の匂いが入り混じる、日本一ポップでエネルギッシュな通りだ。
そんな喧騒のど真ん中を、上田晃次はどうにも落ち着かない様子で歩いていた。
休日のラフなシャツ姿とはいえ、30歳の大人の男が一人でこの通りを歩くのは、明らかに周囲から浮いている。すれ違う女子高生たちの「あの人、何しに来たんだろう」という不思議そうな視線が痛い。
「ほら晃次、もっと楽しそうに歩きなさいよ! せっかくのデートなんだから!」
晃次の隣で、半透明の白いワンピース姿の幽霊、内田李理香が弾むような声で笑った。
彼女の足取りは驚くほど軽く、宙を数センチ浮きながら、周囲のカラフルなショップの看板をキラキラとした目で見回している。
「デートって言っても、俺は完全に不審者扱いされてるぞ。そもそも、なんで原宿なんだ?」
晃次が周囲にバレないよう口元をあまり動かさずにボヤくと、李理香は少しだけ歩みを遅め、ふっと柔らかい表情になった。
「……生前は、こんな人混みの中を堂々と歩くなんて、絶対にできなかったから」
彼女の声には、ほんの少しだけ切なさが混じっていた。
「デビューしてからは、ずっと事務所の車で移動して、プライベートで出歩く時も帽子とマスクで顔を隠して……。テレビで紹介されてる原宿の最新スイーツを見ても、『いつか普通のおんなじ歳の女の子みたいに、友達や彼氏と食べ歩きしてみたいな』って、指をくわえて見てるしかなかったの」
李理香は振り返り、晃次に向かって悪戯っぽく微笑んだ。
「だから、幽霊になった今なら、その夢が叶えられるでしょ? あんたには私の姿が見えてるし、隣を歩いてくれてる。これって、最高のデートじゃない?」
その無邪気な言葉に、晃次は思わず息を呑んだ。
幽霊になってしまったからこそ得られた、皮肉な自由。彼女がどれほど普通の日常に憧れていたかを思うと、不審者扱いされる羞恥心などどうでもよくなった。
「……わかったよ。とびきりの原宿デートにしよう。で、何が食べたい?」
「あそこのクレープ! 一番行列ができてるお店のやつ!」
晃次は女子中高生の長い列の最後尾に並び、見事な場違い感を放ちながらも、李理香が指定したメニューを注文した。
「お待たせいたしました! 『ストロベリー・ピスタチオ・スペシャル』です!」
手渡されたのは、薄く焼かれた香ばしい生地に、たっぷりの純生クリーム、真っ赤なフレッシュストロベリー、そして濃厚な緑色のピスタチオジェラートが乗った、見た目にも華やかなクレープだった。
「わぁっ……! 綺麗! 早く、早く食べて!」
李理香がクレープの真横に顔を近づけ、目を輝かせている。
晃次は通りから少し外れた路地の端に立ち、クレープに大きくかぶりついた。
「んっ……」
「どう!? 生地はモチモチ!? クリームは!?」
「……生地は焦がしバターの香りがすごく強くて、表面はサクッとしてるのに中はもっちりだ。純生クリームは甘さ控えめで、イチゴの強い酸味を見事に引き立ててる。そして何より、このピスタチオのジェラートだ。ナッツの濃厚で香ばしい風味が、クリームのコクと合わさって信じられないくらいリッチな味になってる。これは並ぶ価値があるな」
晃次が真剣に食レポをすると、李理香は目を閉じ、恍惚とした表情で両手を胸の前で組んだ。
「……はぁぁ、幸せ。口の中でピスタチオの香ばしさとイチゴの酸味が溶け合っていくのが、手に取るようにわかるわ。最高。生きてる時より、ずっと美味しいかもしれない」
彼女はそのまま目を開け、クレープを食べる晃次の顔をじっと見つめた。
「……ありがとう、晃次。私のわがままに付き合ってくれて」
「別にいいさ。コンペの勝利と、あの偽物妖精を追い出したご褒美だ。……それに、俺も楽しいしな」
晃次が照れ隠しに視線を逸らすと、李理香はふふっと笑い、少しだけ彼との距離を縮めた。物理的に触れることはなくても、二人の間には確かに温かい空気が流れていた。
しかし、その穏やかな時間は、李理香の次の一言で静かに引き締まった。
「……束の間の休息はこれで終わりね。週明けからは、いよいよ本丸に攻め込むわよ」
「ああ。星野の契約が白紙になったことで、会社の中枢は今、間違いなく揺れている。あいつらの隠しているボロを引きずり出す、最大のチャンスだ」
甘いクレープの香りの裏で、二人の目には鋭い闘志が宿っていた。
週明けの月曜日。
オリオンフーズ本社、最上階の経営企画部フロアは、異様なほどの慌ただしさに包まれていた。
主力商品の新CMキャラクターに内定していた星野あやかの契約が、直前の不祥事により白紙撤回されたのだ。すでに動き出していたプロモーション計画は根底から覆り、予算の再調整や新たなキャスティングの選定で、各部署の電話は鳴りっぱなしだった。
「上田くん。この決裁書類、至急社長室へ届けてちょうだい」
直属の上司である原ユキが、足早に晃次のデスクにやってきてファイルを差し出した。彼女の表情も、連日の激務とトラブル対応で少しだけ険しい。
「承知いたしました。すぐに」
晃次はファイルを受け取り、フロアの奥にある重厚な木目調の扉——社長室へと向かった。
「……晃次、社長室の中から声がするわ。社長と、営業担当の常務ね」
晃次の斜め上空を漂っていた李理香が、すっと目を細めて扉を睨み、そのまま続けた。
「私、中に入って聞いてくる。あんたは距離制限に引っかからないように、隣の資料室で待機してて」
「頼んだ。誰か来たら、資料を探しているふりをして誤魔化す」
晃次は社長室の隣にある資料室に入り、分厚い壁に背中を預けた。手にはユキから託された決裁書類のファイルを持ったままだ。
李理香はふわりと壁をすり抜け、社長室の中へと姿を消す。
(頼む。何か、決定的な手がかりを掴んでくれ)
晃次は暗い資料室の中で、息を潜めて待ち続けた。
数分後。
壁の中から、李理香がスーッと戻ってきた。
その顔は、幽霊であることを差し引いても異常なほどに青ざめており、同時に、深い怒りに唇を震わせていた。
「……どうだった」
晃次が極小の声で尋ねると、李理香は冷え切った声で話し始めた。
「……最低よ、あいつら。CM枠が空いたことで生じた『予算の穴埋め』について密談してたわ」
「予算の穴埋め?」
「ええ。社長が『星野の件は誤算だったが、浮いた予算はどう処理する』って聞いたの。そしたら常務が、『例の広告代理店とはすでに話がついています。実体のない架空の広告宣伝費を計上して、社長の裏口座にキックバックを回す手筈です』って答えたわ」
架空の宣伝費と、キックバック。
それは、李理香が死の直前に聞いてしまったという、役員たちの不正そのものだった。
「やっぱり、会社の広告費を私物化して裏金を作っていたんだな。その額は?」
「……年間で億単位みたい」
李理香の言葉に、晃次は絶句した。それほどの巨額の裏金が動いているとなれば、彼らは絶対にその事実を隠し通そうとするはずだ。
「それだけじゃないの」
李理香の声が、微かに震えを帯びた。
「社長が、こう言ったわ。『今回の予算調整、代理店とのやり取りには細心の注意を払え。内田李理香の事故の時のように、うまく処理するんだ。あの尻尾切りには随分と骨が折れたんだからな』……って」
資料室の空気が、一瞬にして氷点下まで凍りついたように感じられた。
『ジリッ……ジリジリッ……』
李理香の静かで、しかし底知れない激しい怒りが、頭上の蛍光灯を不気味な音と共に明滅させた。
「……私たちの推測通りだったわ。私を殺したのは、やっぱりあいつらよ」
李理香の瞳から、一筋の透明な涙がこぼれ落ち、床に届く前に空中で霧散した。
「私の死は、あいつらの裏金を隠蔽するための、ただの『処理』に過ぎなかったのね……!」
晃次は、手に持ったファイルを強く握りしめた。
以前、彼女から「口封じで殺された」と聞いて以来、二人はその事実を前提として潜入捜査を進めてきた。しかし、推測が完全な「裏付け」へと変わった今、改めて突きつけられた現実の重さは想像を絶していた。
自社のトップが、一人の才能ある若き女優の命を奪い、それを今もなお『処理』と呼んで憚らない。そのおぞましい本性に、晃次の胸の奥で静かに、しかし決定的な怒りの炎が燃え上がった。
「李理香ちゃん……」
晃次は、明滅する冷たい光の中で、彼女の半透明の肩を包み込むように手を伸ばした。当然、物理的な感触はない。しかし、彼の決意の熱は、確かに彼女へと伝わっていた。
「あいつらを、このままにしておくわけにはいかない。社会的に完全に抹殺して、君の無念を晴らす」
「……ええ。でも、会話を録音した私のスマホはもうないわ。あいつらを追い詰めるには、どうすれば……」
「裏帳簿だ」
晃次は暗闇の中で、鋭い眼光を放った。
「架空の経費を計上してキックバックを受け取っているなら、必ずどこかに金の流れを記録した『裏帳簿』のデータか原本が存在するはずだ。それを探し出して、警察かマスコミに叩きつける」
それは、一介のサラリーマンが足を踏み入れるにはあまりにも危険すぎる、底なしの沼への入り口だった。
しかし、晃次に迷いはなかった。
休日の原宿で見せた、彼女の普通の女の子のような無邪気な笑顔。それを理不尽に奪い去り、あまつさえ虫ケラのように扱い嘲笑う者たちを、決して許すことはできない。
「探そう、李理香ちゃん。会社の中枢に隠された、真っ黒な秘密を」
「……ええ。やってやりましょう。二人の力で、あいつらの首根っこを掴んでやるわ」
薄暗い資料室で、霊感ゼロのサラリーマンと幽霊の推しは、静かに、しかし燃え盛るような決意を交わした。
「……さて。それじゃあまずは、この『至急の決裁書類』を、平然とした顔であのタヌキどものところへ届けてくるとするか」
晃次はスーツの皺を整え、「デキる男」の完璧なポーカーフェイスを作ると、資料室を出て社長室の重厚な扉をノックした。
巨大な組織のトップという、あまりにも強大な「黒幕」を標的に据えた、命懸けの潜入捜査が、今、本格的にその幕を開けようとしていた。




