第21話 深夜のオフィスと電子ロック
(あの平和な日常を、何としても守り抜く。そのために、今日ここで確実に尻尾を掴む)
深夜11時45分。
オリオンフーズ本社、最上階の経営企画部フロア。
昼間のピリピリとした喧騒が嘘のように、今は完全な静寂に包まれている。等間隔に点灯する非常灯の青白い光だけが、深いブルーのカーペットに長い影を落としていた。
上田晃次は、役員室エリアのすぐ手前に位置する資料室の暗がりに身を潜め、パイプ椅子に腰掛けて息を殺していた。
エアコンの空調音すら大きく聞こえるほどの静寂の中、晃次の脳裏にふと、今朝の自宅での光景が鮮明に蘇ってきた。
数日前の週末にブリーダーから迎え入れたばかりの愛猫、スコティッシュフォールドのニョッキ。
今朝、晃次がネット通販で届いたミネラルウォーターの段ボール箱からペットボトルを取り出し、空になった箱を何気なくリビングの床に置いた、まさにその瞬間のことだった。
『ズサーッ!』という見事なスライディングと共に、ニョッキが弾丸のようなスピードでその箱の中へと滑り込んでいったのだ。
猫というのは、なぜあそこまで狭い空間に魅了されるのだろうか。自分の体より1回り小さな段ボール箱にすっぽりと収まったニョッキは、箱の四隅に体を擦りつけるようにして、カサカサと音を立てながら自分のポジションを定めていく。
そして、自分の短い尻尾を捕まえようとその場で仰向けになり、グルグルと回り始めたのだ。
さらに、箱の側面に開けられた持ち手用の小さな穴から、外の光が差し込んでいるのに気づいたらしい。ニョッキはそこからピンク色の肉球をちょいちょいと突き出し、見えない敵と戦うように細かくパンチを繰り出していた。
ひとしきり暴れて満足したのか、今度は箱の縁から顔を半分だけ出し、まん丸の琥珀色の瞳で晃次を見上げてきた。
「どう? ぼくの完璧な秘密基地」とでも言いたげな、少し得意げな表情。その無防備で破壊的な愛らしさに、晃次は出勤前の貴重な時間を忘れて見入ってしまった。
『あああああっ! 尊い! 天使! 宇宙一の天使が段ボールに降臨したわ! なんで猫ってあんなに箱にジャストフィットするの!?』
同行の準備をしていた内田李理香の幽霊が、空中で身悶えして絶叫していた。
『その無防備なお腹に顔を埋めて、思う存分深呼吸したいぃぃっ! 私もその段ボールに入って、一緒にモフモフの刑に処されたい! 晃次、今すぐAmazonで私が入れる特大サイズの箱を注文しなさい!』
物理的に触れられない悔しさからか、無茶苦茶な要求を口走る推しをなだめつつ出社したのが、つい十数時間前のことである。
(あんな無邪気な命と、騒がしい推しとの奇妙な同居生活……それを理不尽に奪おうとする奴らを、俺は絶対に許さない)
晃次は資料室の暗闇の中で、強く拳を握りしめた。
数日前に盗み聞きした密談により、社長と営業担当の常務が結託して架空の広告宣伝費を計上し、巨額のキックバックを受け取っているという事実は確認できた。さらには、李理香の事故死がその裏金隠蔽のための「処理」であったことも。
その証拠となる「裏帳簿」のデータが、常務室の金庫に隠されている可能性は極めて高い。
晃次が総務部時代に培った情報網と観察眼によれば、常務は月に数回、深夜のこの時間帯に一度部屋を空け、深夜0時ちょうどに戻ってきて一人で金庫を開けるルーティンを持っていた。
そして今日が、その日だ。
「距離制限」の半径5メートルをクリアするため、晃次が壁1枚を隔てた資料室で待機し、常務が部屋に戻ってきたタイミングで、李理香が壁をすり抜けて常務室へ潜入する。役員が電子ロック式の金庫を開ける際、その背後から暗証番号を盗み見るという寸法だった。
「今は常務が部屋を空けている時間帯だ。戻ってきたら頼んだぞ、李理香ちゃん……」
晃次がスマートフォンで時間を確認した、その時だった。
『コツッ……コツッ……』
誰もいないはずのフロアの奥から、微かなヒールの足音が聞こえてきた。
(常務が戻ってきたのか? いや、靴音が違う。硬くて、高音のリズミカルな音だ)
晃次は全身の筋肉を硬直させ、資料室の扉のわずかな隙間から、廊下をそっと覗き見た。
非常灯の薄暗い光の中、スマートフォンの小さなライトを頼りに、常務室の前に立つ女性のシルエットが浮かび上がっている。
ボディラインを強調したタイトなシルエット。そして、わずかに開いた扉の隙間からでも鼻をくすぐる、あの特徴的で甘い香水の匂い。
社長秘書の、酒井すずだ。
(酒井さん……? なぜ彼女がこんな深夜に?)
晃次の背筋に冷たい汗が伝った。
すずは、常務室や社長室のドアノブに手をかけようとしたり、壁に設置されたセキュリティパネルをスマートフォンのライトで丹念に照らし出したりしている。常務が不在であるこの短い隙を突いたようなその動きは明らかに、自分の忘れ物を探しているようなものではなかった。
彼女もまた、暗闇に乗じて役員室の周辺、いや、社長や常務の「何か」を密かに探っているのだ。
(まずいな……非常にまずい)
晃次の中の危機管理アラームが激しく鳴り響く。
もし今、常務が戻ってきて彼女と鉢合わせれば、面倒な騒ぎになる。それ以上に、彼女がこのまま探り続けて隣の資料室の扉を開ければ、息を潜めて潜伏している自分が見つかってしまう。
怪しまれずにこの場をやり過ごすには、こちらから先手を打って接触するしかなかった。
晃次は意を決し、わざと少し足音を立てながら、資料室の扉をゆっくりと開けた。
「……誰ですか?」
すずがビクッと肩を震わせ、スマートフォンのライトをこちらに鋭く向けてくる。眩しい光が晃次の目を射抜いた。
「眩しいですよ、酒井さん。僕です、上田です」
「上田さん……?」
すずはライトを下ろし、ホッとしたような息をついた。しかし、すぐにその大きな瞳に警戒の色を帯びさせ、暗闇の中で猫のように目を光らせた。
「こんな深夜に、残業ですか? 経営企画部は大変ですね。それとも、まだこのフロアに慣れなくて迷子になったのかしら?」
「ええ。新しいプロジェクトの構想を練っていたんですが、どうにも行き詰まってしまって。気分を変えて、静かで暗いこの部屋で一人で思考を整理していたところです。酒井さんこそ、どうしたんですか?」
晃次は李理香のブートキャンプで培ったポーカーフェイスを崩さず、極めて自然なトーンで応じた。
「私は、社長から明日の朝イチで必要な書類を取りに来るよう頼まれて。でも、オフィスが暗くて少し手間取ってしまったんです」
すずは小首を傾げて微笑んだが、それが真っ赤な嘘であることは明白だった。社長秘書が、自分のボスの部屋の場所やセキュリティの解除方法で迷うはずがない。
「手伝いましょうか?」
「いえ、結構です。もう見つかりましたから」
すずはゆっくりと歩み寄り、晃次の目の前で立ち止まった。
暗がりに浮かぶ彼女の妖艶な顔立ちに、深い陰影が落ちている。静まり返ったオフィスに、彼女の甘い香水の香りが濃厚に漂い、晃次の思考を絡め取ろうとする。
「上田さんこそ、本当は『仕事の資料』以外のものを探しているんじゃないですか?」
すずの言葉に、晃次の心臓がドクンと跳ねた。
「……どういう意味ですか?」
「ふふっ。夜のオフィスには、昼間は隠されている秘密がたくさん転がっているものです。特に、この最上階の奥のエリアにはね。……あまり深入りすると、火傷しますよ?」
すずの顔がさらに近づく。彼女の吐息が届きそうな距離だ。
彼女は単なる秘書ではない。会社の裏事情、もしかすると裏帳簿やキックバックの存在にまで勘付いていて、自分の身を守るため、あるいは何か別の目的のために情報を集めているのかもしれない。
敵か味方か。この薄暗い空間での探り合いは、文字通り息詰まる心理戦だった。
「火傷、ですか。ご心配なく。僕はただの平社員ですから、火の粉が飛んでくるような場所には近づきませんよ」
「そう言っている人ほど、危ない橋を渡りたがるものですよ。……ねえ、上田さん」
すずの細い指先が、晃次のスーツの胸元にそっと触れた。
暗闇の中での、生身の女性からの不用意なスキンシップ。
その瞬間だった。
『チカッ、チカチカチカッ!!』
資料室の中、および周辺の廊下の非常灯が、不気味な音を立てて激しく明滅を始めた。
さらに、背後の資料室の棚に並んだ大量の分厚いファイルが『カタカタカタカタッ!』とラップ音を鳴らしながら震え出す。
常務が不在の壁の向こう側から、李理香が顔だけを出して、夜叉のような形相でこちらを睨みつけていたのだ。
『またこの泥棒猫!! 暗闇に乗じて至近距離で密着してんじゃないわよ!! こっちは真剣に常務が戻ってくるのを見張ってるのに、あんたは何やってんのよバカ晃次!!』
李理香の無言の激怒が、周囲の空気を重く震わせている。
「……っ!」
すずは怯えたように肩をすくめ、晃次の胸元からパッと手を離した。
「何か、変な音がしましたね……それに電気も。やっぱりこのビル、古くて気持ち悪いです」
「ええ、漏電かネズミでもいるんじゃないですか。僕はこれで戻ります。酒井さんも、早く帰ったほうがいいですよ」
晃次が冷たく言い放つと、すずは悔しそうに唇を噛んだ。
「……ええ。おやすみなさい、上田さん」
彼女は意味深な視線を残し、コツコツと足早にヒールの音を響かせて暗闇の奥へと去っていった。
彼女の目的は何なのか。単なる秘書ではなく、彼女自身も裏帳簿、あるいは別の弱みを握ろうとしているのか。
謎は深まるばかりだが、今はそれどころではない。
すずの足音が完全に消え、エレベーターのホールへと消えていくのを確認した直後だった。
『ドスッ、ドスッ……』
今度は、明らかに体重の重い男の足音が、廊下の奥から役員室の方へ向かって歩いてくるのが聞こえた。常務だ。
常務が自室のドアを開け、中へ入っていく音が響く。
「李理香ちゃん、今だ!」
晃次が声を潜めて合図すると、李理香は頷き、壁からスッと抜け出して常務室の奥へと消えていった。
数分後。
再び壁をすり抜けて戻ってきた李理香の顔には、先ほどの嫉妬の怒りよりも、大きな獲物を仕留めた興奮と、そして抑えきれない嫌悪感が勝っていた。
「晃次! やったわ! 常務が金庫を開けたの! 電子ロックの暗証番号、バッチリ覚えたわよ!」
李理香の報告に、晃次は小さくガッツポーズを握った。
「でかした。どんな番号だった?」
「『0825』よ。……私の、誕生日」
李理香の声は、氷のように冷たかった。
自分を殺した人間が、その罪の証拠である裏帳簿を隠す金庫の暗証番号に、殺した相手の誕生日を設定している。それは偶然か、それとも倒錯した歪な悪趣味か。いずれにせよ、虫酸が走るおぞましい事実だった。
「……悪趣味な連中だ。だが、これで扉を開ける鍵は手に入った」
晃次は暗闇の中で、静かに闘志を燃やした。
「あとは、あの常務室に物理的に侵入して、データなり原本なりを盗み出すだけだな」
「ええ。でも、社長秘書の女がウロついてるくらいだから、セキュリティは厳重よ。慎重にいかないとね」
「ああ。必ず、あいつらの息の根を止める決定的な証拠を手に入れてやる」
真犯人を社会的に抹殺するための「決定的な証拠」へ、いよいよ手が届くところまで来たのだ。
役員室という魔窟に潜む巨大な悪意を暴き出すための、危険なカウントダウンが、今確実に時を刻み始めた。




