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第22話 金庫の番号と口封じの確信

 深夜0時を大きく回った、オリオンフーズ本社の最上階。

 冷え切った空調の音が微かに響く中、上田晃次は資料室のパイプ椅子からゆっくりと立ち上がった。


 壁の向こう側——常務室から戻ってきた内田李理香の顔は、殺した相手の誕生日を暗証番号に設定するという悪趣味な事実に怒りを燃やし、氷のように冷え切っていた。

 しかし、彼女の報告はそれだけで終わらなかった。


「……あいつらの底知れない傲慢さは、それだけじゃなかったわ。晃次、あいつ、金庫を開けながらとんでもないことを口走ってたの」


 李理香の霊体が小刻みに震え、輪郭がノイズのようにブレ始める。物理的な涙を流すことはできないが、彼女の魂が血の涙を流して慟哭しているのが、晃次には痛いほどに伝わってきた。


「金庫の中に黒いUSBメモリと分厚い革張りの手帳があって、それに何か書き込みながらボヤいていたのよ。『まったく、いつまでこんなアナログな管理をしなければならないんだ。だが、この裏帳簿だけは絶対に見られるわけにはいかない』って」

「裏帳簿……やっぱり原本がそこにあったんだな」

「ええ。でも、問題はその後に続いた言葉よ」


 李理香がカッと目を開き、晃次を真っ直ぐに見据えた。彼女の瞳の奥で、激しい感情の炎が揺らめいている。


「常務はこう言ったわ。『内田李理香の時のように、尻尾を掴まれるわけにはいかないからな。あの小娘の処理には、随分と骨が折れたんだ……』って」


 その瞬間、資料室の空気が完全に凍りついた。

 晃次の全身の毛穴から冷たい汗が噴き出し、心臓が早鐘のように激しく打ち始める。

 これまで二人は、李理香が裏金の密談現場に居合わせてしまったこと、そしてその直後に不自然なセット崩落事故で命を落としたことから、「口封じで殺されたに違いない」という強い推測のもとに動いてきた。

 しかしそれは、あくまで推測の域を出なかった。万が一、本当にただの不運な事故だったのではないかという、ごくわずかな可能性も否定しきれずにいたのだ。


 だが、今の常務の独り言は違う。


『内田李理香の時のように』『処理には骨が折れた』。


 それは、自らの意思と計画で彼女を殺害し、事故に見せかけて隠蔽したという、揺るぎない自白に他ならなかった。


「……自分の私腹を肥やすために、人間の命と未来を奪っておいて、それをただの『処理』だと言い捨てるのか」


 晃次は、強く、強く両拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込み、皮膚を破って血が滲みそうになるほどの力で。

 あいつらの目には、他人の命や夢が、ただの面倒な事務作業の対象にしか見えていないのだ。その果てしない冷酷さに、晃次の胸の奥で、ドス黒い怒りのマグマが沸騰し始めていた。


「推測は、完全な裏付けへと変わった。……あいつらを、絶対にこのまま生き延びさせるわけにはいかない。金庫の中身を根こそぎ奪ってやりたいところだが」


 晃次は資料室の扉を数ミリだけ開け、廊下の奥にある常務室の重厚なマホガニー製のドアを睨みつけた。

 ドアの横には、青白く発光する最新型のセキュリティパネルが設置されている。

 役員室のセキュリティは24時間いかなる時も厳重であり、限られた役員本人の特権IDカードと、静脈認証の二重ロックがなければ扉を開けることはできない。単なるプロジェクトメンバーである晃次のIDカードでは、ドアノブに触れた瞬間にエラー音が鳴り響き、警備会社のコントロールセンターに異常が通知されてしまうだろう。


「金庫の暗証番号が分かっても、部屋そのものに入れなければ意味がない。だからこそ、先ほど暗躍していた酒井すずも、あの暗闇の中でシステムの盲点や、ドアの隙間がないかを必死に探り回っていたんだろうな」


 晃次が唇を噛んで悔しさを滲ませると、宙に浮く李理香が静かに首を横に振った。


「焦らないで、晃次。物理的な侵入と証拠の確保は今日できなかったけど……それ以上に重要な、殺人の『完璧な動機』を裏付ける言葉を聞いてきたわ。私たちの戦いは、ここからが本番よ」


 暗闇の中で、二人の間にこれ以上の言葉は必要なかった。

 真犯人を社会的に抹殺し、その罪を白日の下に晒す。そのための最も確実で致命的な武器が「裏帳簿」であるという目的が、不動の決意として二人の魂に深く刻み込まれた。


 深夜2時。

 タクシーで自宅のマンションに戻ってきた晃次は、玄関のドアを開け、重い足取りで中へと入った。

 靴を脱ごうとした瞬間、暗闇の廊下の奥から、高く愛らしい声が響いた。


『にゃっ。にゃあぁん』


 トコトコという軽い足音と共に、床すれすれを這うような短い足で駆け寄ってきたのは、スコティッシュフォールドの子猫、ニョッキだった。


「ただいま、ニョッキ。起こしちゃったか?」


 晃次がしゃがみ込むと、ニョッキはフワフワの尻尾をピーンと立てて近づき、晃次の足首に自分の頬や体をスリスリと擦り付けてきた。


『にゃあぁん、にゃあぁぁん』


 見上げてくる琥珀色のまん丸な瞳は、「遅いよ、どこ行ってたの?」と甘えるような、あるいは「早くあれをちょうだい」と明確に催促しているような光を帯びている。


「お腹が空いたのか? ミルクか?」


 晃次が立ち上がってキッチンに向かうと、ニョッキは足元にまとわりつくようにして、八の字を描きながらついてくる。


 晃次は冷蔵庫から猫用の特製ミルクを取り出し、小さな手鍋にあけて弱火にかけた。

 人肌程度に温めることで、ミルクの甘くまろやかな香りがふわりとキッチンに広がる。

 その匂いを嗅ぎつけたニョッキのテンションが一気に跳ね上がった。後ろ足で立ち上がり、前足を晃次の膝にかけて『にゃあぁーっ! にゃあぁーっ!』と必死に鳴き声を上げる。


「わかった、わかったから。今注ぐから待て」


 晃次が浅い小皿に温かいミルクを注ぎ、フローリングの床にそっと置いた瞬間だった。

 ニョッキは小皿に顔を突っ込むような勢いで近づき、小さなピンク色の舌を猛スピードで出し入れし始めた。


『チャプチャプチャプチャプ……ッ!』


 静かな深夜の部屋に、猫がミルクを飲むリズミカルで小気味良い音が響き渡る。

 余程お腹が空いていたのか、あるいは温かいミルクが美味しいのか、ニョッキは無我夢中だ。その必死さゆえに、ミルクを飲むリズムに合わせて、前方に折れ曲がった小さな耳が『ピクッ、ピクッ』と連動して愛らしく動いている。

 さらに、小皿の縁に両方の短い前足をグッと踏ん張り、小さな尻尾をピンと一直線に立てて、全身の筋肉を使ってミルクの美味しさを表現しているようだった。


「あああああ……っ! 可愛すぎるぅぅっ!」


 先ほどまでの絶望と憎悪はどこへやら、李理香の幽霊がキッチンカウンターの上で身悶えしながら絶叫した。


「なによその無我夢中な飲み方! しかも飲むたびにお耳がピクピク動いてる! 前足の踏ん張り具合もたまらない! あざとい! 確信犯的なあざとさよ! もう、そのピクピクするお耳を優しく甘噛みしてあげたいのに、触れないぃぃっ!」


 李理香は空中でジタバタと暴れながら、エアでニョッキの耳を撫で回す真似をしている。


 晃次も思わず頬を緩め、ミルクに夢中になっているニョッキの柔らかい背中を、指先でそっと撫でた。

 フワフワの毛並みの下から伝わってくる、確かな温かい体温。そして、ミルクを飲みながら喉の奥で『ゴロゴロ……』と鳴らしている小さな振動。

 その無防備で純粋な命の感触に触れていると、役員室の扉の前で極限まで張り詰めていた神経が、ゆっくりと、確実に解れていくのがわかった。


(ああ……癒やされる。この温かさがあるから、俺はまた明日も戦えるんだな)


 晃次はニョッキの背中を優しく撫でながら、改めて胸の内に決意を固めた。


 ミルクをすっかり飲み干し、口の周りを前足で器用に舐めて綺麗にしたニョッキは、満足そうに短く『にゃ』と鳴き、リビングのクッションの上で丸くなってすぐに寝息を立て始めた。

 その平和な寝顔を見届けた後、晃次は自分のために濃いブラックコーヒーを淹れ、ダイニングテーブルに座った。

 李理香もすっかり落ち着きを取り戻し、晃次の向かいの空中の定位置にふわりと浮かぶ。


「さて……殺人の動機は完全に確定した。あとは、あの常務室から『裏帳簿』のデータか原本を、どうやって物理的に盗み出すかだ」


 コーヒーの熱い湯気を顔に受けながら、晃次が静かに口を開いた。


「ええ。金庫の暗証番号は分かっても、部屋の鉄壁のセキュリティを突破できなきゃ意味がないわ」

「日中、常務が部屋を空けて誰かが出入りする一瞬の隙を突くしかない。あるいは、あの静脈認証と特権IDの網をかいくぐるための何らかの『物理的な鍵』を手に入れるか……」


 これからの戦いは、今まで以上に危険な綱渡りになる。

 会社の中枢に食い込んできたからこそ、敵の懐深くに飛び込まなければならない。一歩間違えれば、自分も李理香と同じように「処理」される運命が待っているかもしれない。

 しかし、晃次に退く気は一切なかった。

 ソフィアの裏表のない笑顔、ユキの自社製品に対する誇り、そして何より、目の前で共に戦ってくれている愛すべき推しの尊厳。

 それらを守り抜くためには、自分が泥を被ってでも巨悪を討ち果たさなければならないのだ。


「李理香ちゃん。俺はやるぞ。あのクソみたいな連中を地獄に引きずり落として、君の無念を完全に晴らしてやる。そして、この部屋の平和な日常を守り抜く」


 晃次の真っ直ぐな言葉に、李理香はふっと柔らかく、しかし凄みのある笑みを浮かべた。


「頼もしいわね、私の優秀なバッテリー。私も最後までとことん付き合うわよ。一流の女優の執念、あいつらにたっぷり味わわせてやるんだから」


 暗闇の窓ガラスに、決意を固めた一人のサラリーマンと、半透明の女優の姿が薄っすらと反射している。

 真犯人との直接対決に向けた、退路なき深淵へと、二人は確実に歩みを進めていた。

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