第23話 才女とデザイナー、そして幽霊の受難
真犯人を追い詰めるための決定的な証拠、「裏帳簿」。それを常務室の金庫から奪い出すという命懸けのミッションを決意してから、数日が経過した週末の昼下がり。
上田晃次は自宅のキッチンで、静かに、しかし研ぎ澄まされた集中力で包丁を握っていた。
過酷な極秘ミッションを前に、まずは週明けの『新規アジア市場開拓プロジェクト』の重要なミーティングに向けて、心身のコンディションを最高潮に整えておく必要がある。
そのための勝負飯として晃次が選んだのは、プロ顔負けの本格的な『鴨せいろ』だった。
まずは、つけ汁となる鴨汁の仕込みだ。
厚く切った合鴨のロース肉の皮目に、細かく格子状の切れ目を入れる。熱した鉄のフライパンに油を引かずに鴨肉を乗せると、『ジュウウウウッ!』という音と共に、良質な鴨の脂が溶け出してきた。
「ああっ……! いい匂い! 鴨の脂って、どうしてこんなに上品で甘い香りがするの!」
頭上から、半透明の白いワンピース姿の幽霊、内田李理香が身悶えする声が降ってくる。
「鴨の脂は溶ける温度が低いから、口当たりが滑らかで旨味が強いんだ。この脂をネギに吸わせるのが鴨せいろの醍醐味だ」
晃次は鴨肉の両面に香ばしい焼き色をつけ、一旦取り出す。フライパンに残った黄金色の脂の中に、5センチほどの長さに切った太い長ネギを投入し、表面が焦げてトロトロになるまでじっくりと焼いていく。
次に、醤油、本みりん、少量のザラメを煮詰めて寝かせた特製の『かえし』を用意し、たっぷりの一番出汁と合わせて火にかける。そこに焼いたネギと鴨肉を戻し入れてサッと煮る。長ネギの甘みと鴨の濃厚なエキスが、つゆに完全に溶け込んでいく。
「そして、今日の隠し玉はこれだ」
晃次が冷蔵庫から取り出したのは、特製のタレに一晩漬け込んでおいた『半熟とろとろの味付けゆで卵』だ。
沸騰したお湯に冷蔵庫から出したての卵を入れ、正確に6分30秒茹でた後、氷水で一気に急冷して殻を剥く。それを醤油、みりん、出汁を合わせたタレに漬け込んだ、黄金の輝きを放つ逸品だ。
「わぁっ! 卵! お蕎麦屋さんのトッピングといえば卵よね! 中身どうなってるの!? 早く切って!」
李理香の急かしに従い、晃次が包丁でゆで卵を半分に割ると、白身はしっかりと味が染みてプルプルに仕上がり、中心からは琥珀色に輝く濃厚な黄身が、とろりと溢れ出してきた。
「……完璧だ。黄身のコクが鴨の脂と合わされば、無敵の旨味になるぞ」
たっぷりの沸騰したお湯で二八蕎麦を茹で上げ、氷水で一気に締めてザルに盛る。
熱々の鴨汁を器に注ぎ、三つ葉と柚子の皮を散らし、半分に切ったとろとろのゆで卵を添えれば、極上の『鴨せいろ』の完成だ。
ダイニングテーブルに座り、晃次は冷たい蕎麦を箸で一つかみし、熱々の鴨汁にサッとくぐらせて一気にすすり上げた。
『ズズズッ……!』
「んんっ……!」
「どう!? 鴨の脂! お蕎麦の喉越し!」
「……すさまじいな。冷たくてコシのある蕎麦に、鴨の濃厚な旨味とネギの甘みが絡みついて、口の中で完璧なハーモニーを奏でてる。柚子の香りが脂のしつこさを完全に消してくれて、無限にすすれるぞ」
晃次はすかさず、とろとろの半熟ゆで卵を口に放り込んだ。
出汁の染みた白身の食感と、濃厚な黄身の甘みが鴨汁と一体になり、圧倒的なコクとなって舌を支配する。
「あああああっ! ズルい! ズルすぎる! その鴨の脂の甘みと、とろとろの卵の黄身のコク、たまんないわね! 私の魂が美味しいって叫んでるわ!」
李理香は空中で身をよじらせ、両手で頬を押さえてうっとりとした表情を浮かべている。
晃次が次々と蕎麦をすすり、鴨肉を噛み締めるたびに、彼女も代理摂食による強烈な旨味を共有し、幸福そうなため息をついていた。
「……はぁ、食った。これで週明けのミーティングへの気合は十分だ」
蕎麦湯で割った鴨汁を最後の一滴まで飲み干し、晃次が満足げに息をつくと、李理香も空中でうんうんと頷いた。
「そうね! 役員室の金庫にどうやって侵入するかは引き続き探っていくとして、まずはあんたがコンペで勝ち取ったこの新プロジェクトを絶対に成功させないと。会社の中枢でのあんたの発言力を、揺るぎないものにするのよ」
「ああ。プロジェクトが実務のフェーズに入って、いよいよ外部の専門メンバーが合流する。どんな人間か気になるところだがな」
そして迎えた週明けの月曜日。午後2時。
オリオンフーズ本社、経営企画部のフロアに隣接する第2会議室。
『新規アジア市場開拓プロジェクト』の拡大ミーティングが開かれていた。
上座には、タイトなスーツを完璧に着こなした原ユキが座り、その隣には晃次が控えている。そして、長机を挟んで向かい側には、今日からこのプロジェクトに合流する二人の女性社員が座っていた。
「それでは、新メンバーを紹介するわ。まずは……上層部の強い意向で、今回のアジア戦略のアドバイザーとして外部から招かれた才女よ」
ユキの紹介は表面上こそ丁寧だったが、その声の響きには、自身の直轄プロジェクトに外部の人間が送り込まれたことへの微かな警戒と不満が滲んでいた。
紹介を受け、スラリとした長身の女性が優雅に立ち上がった。
「はじめまして。アジア戦略室長として着任いたしました、メリッサ・チャンと申します」
彼女が口を開いた瞬間、会議室の空気が一段と華やかに、かつピシッと引き締まったように感じられた。
マレーシア出身だという彼女は、切れ長で涼しげな瞳と、優雅な微笑みが特徴的なアジアンビューティーだった。黒髪のロングヘアを美しくまとめ、洗練されたハイブランドのスーツをモデルのように着こなしている。
「上田さんですね。あなたのコンペの企画書、拝見しました。現地の食文化への深いリスペクトと、地産地消のロジック。素晴らしい洞察力に感銘を受けましたわ。これから、よろしくお願いいたします」
メリッサは流暢で美しい日本語を操り、晃次に向かってスッと右手を差し出した。
「あ、ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
晃次が立ち上がって握手を交わすと、彼女の細く冷たい指先から、圧倒的な知性と大人の余裕が伝わってくるようだった。
「……なんか、すっごい強キャラ感ある女ね。原ユキとはまた違うベクトルの、隙のないエリートって感じ」
晃次から半径5メートル以内の壁際を漂いながら、李理香が腕を組んで品定めするように呟いた。
「そしてもう一人。商品のパッケージデザインを担当してもらう、商品開発部の横山千春さんよ。彼女のデザインセンスは、このプロジェクトに不可欠だと私が判断したわ」
ユキの紹介に、メリッサの隣に座っていた女性が「はーい!」と元気よく立ち上がった。こちらはユキ自身が引き抜いてきた人材らしい。
「商品開発部から来ました、横山千春です! アジア向けの新しいパッケージ、いっぱい可愛いものを描いてみせますので、よろしくお願いします!」
千春は、透き通るような白い肌と、顔の半分を占めるような丸く大きな瞳を持つ、まるで小動物のような愛らしさを持つ女性だった。オフィスカジュアルの枠に囚われない、少しボヘミアンテイストのふんわりとしたワンピースを着ており、指先には色鮮やかなペンのインクが微かに残っている。
エリート揃いの経営企画部の空気には全く馴染んでいないが、彼女自身はそんなこと一切気にしていない様子だった。
「……この子、なんかフワフワしてるけど、大丈夫なの?」
李理香が訝しげに首を傾げる。
晃次も同じ疑問を抱いたが、ユキが小声で補足した。
「彼女、ああ見えて天才肌なのよ。彼女がデザインしたパッケージの商品は、なぜか必ず若い女性を中心にヒットするの。今回のフレッシュデリの企画には、彼女の直感的なセンスが不可欠よ」
ミーティングが進行し、晃次がこれまでに作成した詳細なターゲット層のデータや、パッケージのイメージ案に関する資料を配り終えた時だった。
「わぁっ! この企画書のターゲット層のイメージ写真、すごく色使いが綺麗!」
突然、千春が席を立ち、晃次の背後へと小走りで回り込んできた。
「えっ?」
「ねえねえ上田さん、この写真の現地の市場のハーブ、すっごく鮮やかな緑色だね! これ、パッケージのメインカラーにしたら絶対に可愛いと思うな!」
千春は晃次の肩越しに、彼の手元にある資料を覗き込んできた。
その距離が、異常に近い。
「近っ……!?」
晃次は思わず息を呑んだ。彼女の顔が晃次の頬に触れそうなほど接近しており、ふんわりとしたワンピース越しの柔らかな胸の感触が、晃次の背中から二の腕にかけて、無自覚に、しかしはっきりと押し当てられていたのだ。
「あ、あの、横山さん、少し距離が……」
「ん? なに? あ、ここにもすごくいい写真がある! 上田さん、これって自分で撮ったの?」
千春は晃次の困惑など全く意に介さず、さらに身を乗り出して資料を指差してくる。彼女のパーソナルスペースという概念は、完全にバグっているらしかった。
「……ッ!!」
その瞬間、会議室の温度が、物理的に急降下したように感じられた。
晃次の耳の奥で、何かがブチッと千切れる音がした。
「な・に・密・着・し・て・ん・の・よォォォォォッ!!!」
壁際で待機していた李理香の、鼓膜を突き破らんばかりの絶叫が炸裂した。
「この泥棒猫その4!! 初対面の男の背後から胸を押し当てるなんて、どこの天然のフリした計算女よ!! 離れなさい! 今すぐ私の晃次から離れなさいよ!!」
李理香の嫉妬と怒りが限界を突破し、強烈なエネルギーの波となって会議室を揺るがせた。
『ガシャァァァァッ!!』
突然、会議室の大きな窓に設置されていたブラインドが、風もないのに狂ったように跳ね上がり、けたたましい音を立てて波打った。
さらに、天井の空調が『ゴォォォォッ!』と異音を発し、真冬のような冷風を猛烈な勢いで吹き出し始めた。
「きゃっ!? な、なに!?」
ユキが驚いて立ち上がり、バインダーで身を庇う。
「あら……空調の故障かしら? それとも、日本のビルは少し古いのね」
メリッサは冷静に状況を分析しつつ、乱れた美しい黒髪を手で押さえた。
一方の千春は、晃次の背中にしがみついたまま、ブラインドが荒れ狂う窓辺を見て目をキラキラと輝かせていた。
「わぁっ、すごい! 風の精霊さんが怒ってるみたい! なんだかインスピレーションが湧いてきちゃった!」
「精霊じゃないわよ怨霊よ!! あんたがくっついてるから怒ってんのよ!!」
李理香の怒号が響き渡るが、当然誰にも聞こえない。
「あ、あの! ビルの老朽化で、たまに空調とブラインドのシステムが誤作動を起こすんです! す、すぐに直りますから!」
晃次は顔面を蒼白にしながら、必死に机に散らばる資料を押さえ、千春の密着から逃れるために立ち上がった。
「もう、李理香ちゃん! 落ち着いてくれ! ここで心霊現象がバレたら、プロジェクトごと頓挫するだろ!」
晃次が腹話術で必死になだめると、李理香は「うぅぅっ……」と唸りながらも、なんとか感情の波を収め、空調とブラインドの暴走はピタリと止まった。
「……驚きましたわね。でも、なんだかエネルギーに満ちたプロジェクトになりそうで、ワクワクしてきましたわ」
メリッサが優雅な微笑みを浮かべて席に座り直す。
「うんうん! 私も、上田さんの隣にいるとすごくいいアイデアが降ってきそうな気がする!」
千春も全く怯えることなく、晃次に向かって無邪気な笑顔を向けている。
ユキはそんな二人を横目で見つつ、小さくため息をつきながら進行に戻った。
「……はぁ。前途多難すぎる」
晃次は乱れたネクタイを直しつつ、深い溜め息を吐き出した。
役員室に潜む巨悪を暴くための、真面目な新規プロジェクト。しかしそこに集まったのは、独占欲の強いエリート上司、上層部が送り込んできたマレーシアからの完璧な才女、パーソナルスペース皆無の天才デザイナー。
そして何より、嫉妬の炎でいつポルターガイストを起こすか分からない、最強の幽霊プロデューサー。
会社の中枢での隠密作戦は、晃次の思惑とは裏腹に、ますます多国籍で騒がしい、嵐のような社内ハーレムの様相を呈し始めていた。




