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第24話 スパイスと知性のマリアージュ

「ほらニョッキ、大人しく乗ってくれ。健康管理のためなんだから」


 朝の柔らかな日差しが差し込むリビングで、上田晃次は小さなペット用の体重計を前にして悪戦苦闘していた。

 スコティッシュフォールドの子猫、ニョッキの体重測定である。育ち盛りの子猫にとって、日々の体重変化を記録することは非常に重要なミッションなのだ。


 しかし、当のニョッキにとって、目の前に置かれた平らなプラスチックの板は、全く別の意味を持っていたらしい。

 晃次がそっとニョッキの体を持ち上げ、体重計の真ん中に下ろした瞬間だった。


『にゃうっ』


 ニョッキは四つの足が板に触れた途端、まるでトランポリンの反動を利用したかのような見事なジャンプを見せ、一瞬で床へと飛び降りてしまったのだ。

 そして、体重計の少し離れた場所から、丸い琥珀色の瞳で警戒するように板を見つめ、短い前足を伸ばして『ちょいちょいっ』と端っこを叩いている。どうやら、新しい遊び道具か、得体の知れない敵だと思っているらしい。


「違う、ニョッキ。それは敵じゃない。ただ上に三秒間だけじっとしててくれればいいんだ」


 晃次がもう一度抱き上げて乗せようとするが、今度は乗せられる前に空中で体をひねり、液体のようにスルリと晃次の手から抜け出してしまった。そして床にコロンと転がり、自分の短い尻尾を追いかけてグルグルと回り始める。


「ああああああっ! 尊い! 体重計と戦う毛玉! 尊すぎる!」


 頭上から、悲鳴にも似た歓声が降ってきた。半透明の白いワンピース姿の幽霊、内田李理香である。


「なにあの見事なエスケープ! そしてちょいちょいってする前足! ああっ、私が両手でしっかりホールドして体重計に乗せてあげたいのに……触れないっ! 幽霊のバカ! 物理法則のバカァッ!」


 李理香は空中で身悶えしながら、見えない両手でニョッキを包み込むような仕草をして嘆いている。


「……仕方ない、最終手段だ」


 晃次は諦めてため息をつくと、ニョッキをしっかりと胸に抱き抱え、そのまま洗面所にある人間用の体重計へと乗った。

 表示されたデジタルの数値から自分の体重を差し引き、暗算で子猫の体重を割り出す。


「よし、順調に育ってるな」


 胸の中で『ぐるる……』と気持ちよさそうに喉を鳴らすニョッキの温もりに、限界まで削られていた晃次の精神力がじんわりと回復していくのを感じた。


 会社の中枢である経営企画部、『新規アジア市場開拓プロジェクト』のメンバーとして実務が始まってから数週間。連日の残業と膨大な資料作成に追われ、晃次の生活はまさに分刻みの戦場と化していた。

 そんな激務の中で、ふと思い出す光景がある。数日前の夜、誰もいなくなったオフィスでの残業中のことだ。


『……ふぅ』


 晃次の斜め前のデスクで、プロジェクトのアジア戦略室長としてヘッドハンティングされてきた才女、メリッサ・チャンが、深く、そしてどこか物憂げなため息をついたのだ。

 完璧なスーツを着こなし、複数の言語を操り、常に優雅で隙のない彼女が見せた、初めての「素」の表情だった。


『お疲れですか、メリッサさん。コーヒー、淹れ直しましょうか』


 晃次が声をかけると、彼女は少し驚いたように目を瞬かせ、やがて柔らかく微笑んだ。


『ありがとう、上田さん。……日本での仕事は刺激的でやりがいがありますけれど、時々、無性に故郷の熱気が恋しくなるの』

『マレーシアの、ですか?』

『ええ。クアラルンプールの屋台で食べる、あの雑多でエネルギーに満ちた味。ココナッツの甘い香りと、サンバルという辛味ペーストの突き刺さるような刺激。……あれを食べないと、本当の意味で魂のエネルギーがチャージされない気がするのですよ』


 すぐ横の空中でその会話を聞いていた李理香が「あの完璧エリート女が、屋台の辛いご飯で郷愁に浸るなんて意外ね」と呟いていたが、晃次も同感だった。そして同時に、その涼しげな瞳の奥に揺れた確かな望郷の念が、料理オタクである晃次の心に火をつけたのだ。


「よし、今日の弁当は気合が入ってるぞ。李理香ちゃん、行くぞ」

「ええ。あの余裕ぶったアジアンビューティーの胃袋を、あんたの料理で完全に掌握してやりなさい!」


 晃次はニョッキに後ろ髪を引かれつつも、ずっしりと重い保温ランチジャーと複数のタッパーを鞄に詰め、オフィスへと向かった。


 午後1時。オリオンフーズ本社の社員食堂。

 ピークの時間を過ぎ、少しだけ人がまばらになった窓際の席で、晃次はランチジャーの蓋を開けた。

 その瞬間。


『ふわぁっ……』


 食堂の日本の定食やカレーの匂いを一瞬にして上書きするような、エキゾチックで甘く、そして暴力的なまでに食欲をそそる香りが周囲に広がった。


「ああっ……! なにこれ、南国の匂いがする! リゾート地に来たみたい!」


 向かいの空席で、李理香が鼻をヒクヒクさせて身悶えしている。


「休日にアメ横の輸入食材店を回って、完璧な材料を揃えて仕込んでおいたんだ。マレーシアの国民食にして究極のソウルフード、『ナシレマ』だ。お裾分けできるように、多めに作ってある」


 晃次はタッパーから、手際よく料理を大きめの平皿に盛り付けていく。


 主役は、ココナッツミルクと『パンダンリーフ』という東南アジア特有のハーブ、そして薄切りの生姜と共に炊き上げたジャスミンライスだ。米の一粒一粒がココナッツの油分で艶やかにコーティングされ、バニラにも似たパンダンリーフの甘い香りを放っている。

 そのライスの横に添えるのが、味の決め手となる辛味ペースト『サンバル』だ。


「乾燥した小エビを発酵させた『ブラチャン』を香ばしくローストし、大量の唐辛子、エシャロット、ニンニクと一緒にペースト状になるまでじっくりと炒め上げた。そこにタマリンドで酸味を出し、パームシュガーでコクのある甘みを足す」


 真っ赤でどろりとしたサンバルからは、海老の濃厚な旨味と、鼻を突き抜ける唐辛子の刺激的な香りが立ち上っている。

 さらに、付け合わせとして、油でカリッと素揚げにした小魚とピーナッツ、半分に切ったゆで卵、そして口休めのキュウリのスライスを添える。


「完璧だ。香りのバランスが現地そのものだ」


 晃次が自画自賛した、その時だった。


「……上田さん。その香り、もしかして……」


 背後から、信じられないものを見るような、震える声が聞こえた。

 振り返ると、メリッサが社食のトレイを持ったまま、目を大きく見開いて晃次の皿を見つめていた。いつもの冷静でエレガントな彼女の面影はどこかに飛び去り、その瞳は完全に、故郷の味を見つけた少女のように輝いている。


「メリッサさん。お疲れ様です」


 晃次は立ち上がり、微笑みながら予備の平皿と手で前の席を示した。


「先日、残業中に故郷の味が恋しいと仰っていたので。少し本格的にナシレマを仕込んでみたんです。もしよろしければ、味見してみますか?」

「……! いただきます。絶対にいただきますわ!」


 メリッサは普段の優雅な所作を忘れ、半ばひったくるようにして晃次の向かいの席に座り込んだ。


「ちょっと! なんでこの女が当然のように私の定位置に座ってんのよ!」


 李理香が空中でプンスカと抗議するが、メリッサには聞こえない。

 晃次は手早くもう一つの皿にナシレマを盛り付け、メリッサに手渡した。そして自分もスプーンを持ち、ココナッツライスにサンバルを絡めて口に運んだ。


「んんっ……!」

「……完璧だ。パンダンリーフの甘い香りとココナッツのコクがジャスミンライスに芯まで染み込んでる。そこにサンバルの容赦ない辛味と海老の爆発的な旨味が合わさって、噛むほどに奥深い味が弾けるぞ」


 晃次が唸るように食レポをすると、頭上の李理香が「あああっ!」と歓喜の声を上げた。


「ココナッツのまろやかな甘みと、サンバルの強烈なスパイスのコントラスト、たまんないわね! 小魚のカリカリした塩気もいいアクセントになってる! スプーンが止まらなくなるやつじゃない!」


 代理摂食によって共有された鮮烈な東南アジアのパッションに、李理香は空中で身悶えしながら至福の表情を浮かべている。


 そして、目の前に座るメリッサもまた、一口咀嚼した瞬間に涼しげな瞳からポロリと一筋の涙をこぼし落としていた。


「……信じられないわ。こんな本格的な味を、日本のオフィスで味わえるなんて」


 メリッサは涙を拭うのも忘れ、夢中で言葉を紡いだ。


「ブラチャンの強烈な旨味と、タマリンドのフルーティーな酸味、唐辛子の容赦ない辛さ。そのすべてがパームシュガーの甘みで見事に調和しています。イカンビリスのサクサクとした食感が、ココナッツのまろやかな甘みを最高に引き立てて……これ、クアラルンプールの、私が一番好きだった屋台の味そのものですわ!」


 彼女はスプーンを止めることなく、次々とナシレマを口に運んでいく。辛さにほんの少しだけ顔を赤らめ、額にうっすらと汗を滲ませながら、心の底から満たされた表情で咀嚼を繰り返している。


 数分後。

 特大のナシレマを最後の一粒まで完食したメリッサは、深く、そして本当に幸せそうなため息をつき、ナプキンで優雅に口元を拭った。


「……ありがとう、上田さん。こんなに心が満たされた食事は、日本に来てから初めてよ」


 メリッサは、熱を帯びた、とろけるような視線で晃次を見つめた。


「あなたは私の期待を遥かに超えてくるわね。仕事のロジックの正確さだけでなく、こんなに完璧に私の胃袋と魂まで満たしてくれるなんて」


 彼女はスッと身を乗り出し、テーブルの上にあった晃次の手に、自分の白く冷たい手をそっと重ねてきた。


「……ねえ、上田さん。いっそ、私の専属シェフになっていただけないかしら?」

「えっ……」

「もちろん、今のポジションよりもずっと最高の待遇をご用意するわ。……公私ともに、ね」


 洗練された大人の色香と、知性が入り混じった極上のアプローチ。

 社食という開かれた空間でありながら、メリッサの纏う圧倒的なオーラが、二人だけの密室を作り出しているかのようだった。


「——ッッ!! な・に・が・公・私・と・も・に・よォォォォォッ!!」


 李理香の嫉妬のボルテージが、一瞬にして沸点を突破した。


『ガタガタガタガタッ!!』


 李理香の激しい感情の爆発に呼応するように、二人が座っているテーブルのすぐ横の大きなガラス窓が、風もないのに狂ったようにガタガタと鳴り始めた。

 さらに、『チカッ、チカチカチカッ!!』と頭上の蛍光灯が不気味な明滅を繰り返す。


「や、やばい……!」


 晃次は顔面を蒼白にしながら、重なっているメリッサの手をさりげなく外そうとした。


「あ、あの! メリッサさん、この窓、少し建て付けが悪くて! それに電気も……!」

「私の晃次を胃袋から囲い込もうとしないでよ! 離れなさいこのアジアンビューティー!!」


 李理香の怒号が響き渡るが、当然誰にも聞こえない。


 しかし、メリッサの反応は、晃次の予想を見事に覆すほどクールなものだった。


「……あら」


 メリッサは明滅する蛍光灯と、ガタガタと鳴る窓を涼しげな瞳で見上げ、ふふっ、と余裕のある笑みをこぼした。


「古いビルだから、建付けや配線に不具合があるのかしら。でも、スパイスで火照った体にはちょうどいい風ね」


 彼女は全く動じることなく、むしろその不可解な現象すらも、大人の余裕でスマートに受け流してみせたのだ。


「ふふっ、このナシレマは誰にも譲る気はないのだけれど」


「な……なんなのよこの女! 渾身のポルターガイストを、ただの隙間風扱いしてスルーしたわよ! メンタル強すぎでしょ!」


 見事なまでに論理的かつエレガントに受け流された李理香は、完全に毒気を抜かれ、ポカンと口を開けて宙に浮いている。その怒りのオーラが急速に萎んでいくとともに、窓の揺れと蛍光灯の明滅もピタリと収まった。


「ごちそうさま、上田さん。午後のミーティングも、よろしくお願いいたしますね」


 メリッサは上品なウインクを一つ残し、優雅な足取りで食堂を後にした。

 残された晃次は、冷や汗を拭いながら、呆然としている幽霊の推しを見上げた。


「……前途多難すぎる」


 原ユキの野心的な独占欲、酒井すずの危険な誘惑、ソフィアの陽気な強引さ、そしてメリッサの圧倒的な大人の包容力と知性。

 会社の中枢に潜む闇を暴くための過酷な潜入捜査は、晃次の料理スキルと李理香の嫉妬を巻き込みながら、ますます多国籍で予測不可能な、甘く危険な迷宮へと深く入り込んでいくのだった。

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