第25話 ミューズの接近と次なる一手
深夜のリビング。
部屋の明かりは少しだけ落とされ、テレビの微かな環境音だけが静かに流れている。
上田晃次はソファに深く腰掛け、手元のスマートフォンで来週以降のスケジュールを確認していた。その彼の太ももの上には、柔らかな毛玉のような生き物が丸まっている。
スコティッシュフォールドの子猫、ニョッキだ。
ニョッキは今、強烈な睡魔と必死に戦っていた。
前方にペタンと折れ曲がった小さな耳をピクピクと動かし、琥珀色の丸い瞳をなんとか開けていようとするのだが、重力に逆らいきれずにまぶたがゆっくりと落ちていく。
そして、完全に目が閉じて首がカクンと下に落ちた瞬間、『にゃっ!?』と我に返ったように目を見開き、何事もなかったかのように前足をペロペロと舐めて毛繕いを始めるのだ。
しかし、数秒後には再び動きが止まり、舟を漕ぐように首が揺れ始める。
「……眠いなら、素直に寝ればいいのに」
晃次が苦笑しながらその小さな背中を指先で優しく撫でると、ニョッキは『ぐるる……』と喉を鳴らし、そのまま晃次の太ももに顎を乗せて、今度こそスヤスヤと穏やかな寝息を立て始めた。
「んんんっ……! なにあの意地張ってる顔からの、完全降伏の寝顔! 可愛すぎて霊体が消滅しそう!」
頭上から、限界オタクのように感極まった歓喜の声が降ってきた。半透明の白いワンピース姿の幽霊、内田李理香である。
「晃次、もっと顔を近づけて! 私もニョッキの無防備な寝息を至近距離で浴びたいの!」
空中でジタバタしながら、見えない両手で口元を覆って身悶えしている。
「……触れないんだから、見ているだけで我慢しろよ」
「癒やされるな……。連日の激務と、君のスパルタ指導で削られた精神が回復していくよ」
晃次が呟くと、李理香はハッとして空中の定位置に戻り、コホンと咳払いをした。
「癒やされてる場合じゃないわよ。アジア戦略のプロジェクトが本格始動したんだから、これからが正念場なんだからね。……それに、あの常務室の金庫をいつ開けるか、その『Xデー』を早く特定しなきゃ」
「わかってる。常務のスケジュールを把握できれば、部屋を長期間空けるタイミングがわかるはずだ。明日、隙を見て原課長から探りを入れてみる」
「頼んだわよ。……それと、お弁当の仕込みもね。あの余裕ぶったアジアンビューティーや、新しく来た小動物みたいなデザイナーに舐められないように、明日もとびきり美味しそうなやつを作っていくのよ」
李理香の強烈なプロデューサー魂に急かされ、晃次は眠るニョッキをそっとクッションに移すと、深夜のキッチンへと向かった。
翌日の昼休み。
オリオンフーズの社員食堂は多くの社員で賑わっていたが、晃次は窓際の少し離れたテーブル席を確保していた。
ランチジャーの蓋を開けると、食欲を刺激するナンプラーとバジルの香りがふわりと立ち上った。
「今日はタイ料理の定番、『ガパオライス』だ」
ご飯の上に、粗挽きの豚ひき肉とホーリーバジルをオイスターソースとナンプラー、そして隠し味のダークソイソースで旨辛く炒め合わせたものがたっぷりと乗っている。フタを開けた瞬間に立ち昇る、エスニックで刺激的な香りがたまらない。
さらに、多めの油で縁がカリッと揚がるように焼かれた半熟の目玉焼き、紫玉ねぎとニンジンの甘酢漬け、そしてフレッシュなパクチーが添えられ、赤、黄、緑、紫という鮮やかな色彩のコントラストが、まるで一枚の絵画のように美しいお弁当に仕上がっていた。
「うわぁっ……! 暴力的なまでにいい匂い! 色合いも完璧じゃない! これなら誰も文句言えないわね!」
向かいの空席で、李理香が身を乗り出して歓声を上げている。
晃次がスプーンを手に取った、その時だった。
「わぁっ! すっごく綺麗な色!」
背後から突然、明るい声が響いた。
振り返る間もなく、ふわりとしたボヘミアンテイストのワンピースを着た女性が、晃次の背中越しに身を乗り出してきた。商品開発部の天才デザイナー、横山千春だ。
彼女の顔が、晃次の頬に触れそうなほどの至近距離まで接近する。ワンピースから、ほんのりと甘い石鹸の香りと、微かな絵の具の匂いが漂ってきた。
「近っ……!? 横山さん!?」
「ねえねえ晃次くん、このお弁当、自分で作ったの? すっごく色彩感覚がいい! この紫玉ねぎの赤紫色と、バジルの深い緑色のコントラスト、新しいパッケージデザインのメインカラーにしたら絶対に可愛いと思うな!」
千春は晃次の困惑など全く意に介さず、さらに身を乗り出して弁当を覗き込んでくる。彼女のパーソナルスペースという概念は、完全に崩壊しているらしかった。
「ちょっとォォォォッ!! またあんた!? 距離感バグりすぎでしょ!!」
晃次の耳元で、李理香の怒号が炸裂した。
「いつの間にかシレっと『晃次くん』呼びになってるし! どさくさに紛れて密着しないでよ! 離れなさい!」
李理香の嫉妬と怒りが急上昇し、食堂のテーブルの上に置かれていた晃次のステンレス製タンブラーが、風もないのに『カタカタカタッ!』と微かに、しかし不気味な音を立てて震え始めた。
「わぁっ、妖精さんがまたイタズラしてるみたい。晃次くんの周りって、いつも賑やかで楽しいね!」
千春はタンブラーの震えを全く怖がる様子もなく、目をキラキラと輝かせている。
「あ、あの! 横山さん、少し離れて……!」
「ねえねえ、その目玉焼きの黄色いところ、すっごく美味しそう! 私にも一口ちょうだい! あーん!」
千春は晃次のスプーンを指差し、無邪気に口を開けて待っている。
「ア・ー・ン・だ・とォォォォッ!?」
李理香の怒りのオーラがさらに膨張し、今度は晃次のランチジャーの蓋がカタカタと震え始めた。
晃次が顔面を蒼白にしながら、必死に心霊現象を誤魔化そうとしたその瞬間。
「あら、横山さん。インスピレーションを得るのは素晴らしいことですけれど、彼のお昼休みを邪魔しては駄目よ」
涼しげで、大人の余裕に満ちた声が降ってきた。
振り返ると、完璧なハイブランドのスーツを着こなしたアジア戦略室長、メリッサ・チャンが、優雅な微笑みを浮かべて立っていた。
彼女は流れるような動作で晃次の隣の席に腰を下ろし、洗練された大人の香水の匂いで、千春のふんわりとした空気を牽制した。
「あ、メリッサさん! だって、晃次くんのお弁当がすっごく美味しそうなんだもん。メリッサさんも一緒に一口どう?」
千春の天然すぎる返しに、メリッサはふふっと涼やかに笑った。
「遠慮しておくわ。私は上田さんの手作りなら、こんな慌ただしい場所ではなく、休日にコースでゆっくりといただきたいもの」
それは、千春の無自覚なアプローチに対する、圧倒的な大人の余裕を見せつける強烈なマウントだった。
「……なんなのよこの空間。アジアンビューティーと小動物デザイナーの間に挟まれて、社食が修羅場になってるじゃない……!」
空中の李理香が、あまりの状況に怒りを通り越して呆れ返っている。ポルターガイストもすっかり収まっていた。
「(俺が一番胃が痛いんだよ……)」
多国籍でマイペースすぎる女性陣に挟まれ、晃次は冷や汗を拭いながら、なんとかガパオライスを胃に流し込んだ。
だが、その急ごしらえの食事が、さらに別の怒りを買ってしまう。
「……ちょっと! 晃次!!」
頭上から、抗議の声が降ってきた。
「私のガパオライスを、ただの作業みたいに流し込まないでよ! あんたがちゃんと味わって食レポしてくれないと、ナンプラーの香りもバジルの風味も全然こっちに伝わってこないじゃない! 楽しみに待ってたのに、私の至福のランチタイムを返してぇぇっ!」
空中の李理香からの猛烈なクレームに、晃次はさらに胃を痛める羽目になったのだった。
午後3時。
騒がしい昼休みを乗り越え、晃次は経営企画部のフロアで本来のミッションに向けて動いていた。
彼は手元の資料をまとめると、斜め前のデスクに座る原ユキの元へ向かった。
「原課長。こちら、アジア市場の初期マーケティング資料です。次回の役員会議に提出する予定ですが、ご確認いただけますか?」
「ええ、ご苦労様。置いておいて」
ユキはパソコンのモニターから目を離さず、タイピングを続けながら答えた。
晃次は資料をデスクに置き、極めて自然なトーンで言葉を続けた。
「このデータは、市場のトレンドをかなり攻めた内容になっています。事前の根回しとして、担当役員である常務に早めに目を通しておいていただいた方がよろしいでしょうか?」
それは、極めて真っ当なビジネス上の提案を装った、周到な探りだった。
ユキはタイピングの手を止め、ふっと息をついて晃次を見上げた。
「そうね……。でも、常務に決裁を仰ぐなら、急いだ方がいいわよ」
「と、言いますと?」
「常務は来週の水曜日から、シンガポール支社の視察に出る予定なの。スケジュールを見る限り、金曜日の夜まではこちらに戻らないわ」
(……来た!)
晃次の心臓が大きく跳ねた。
「水曜日から金曜日まで、ですね。承知いたしました。それまでに内容を精査し、週明け早々に提出できるように準備を進めます」
「ええ、頼んだわよ」
晃次は深く一礼をして自分のデスクに戻った。その背中を、半透明の李理香が興奮した様子で追いかけてくる。
「やったわね晃次! 常務が長期間部屋を空けるタイミング、完璧に掴んだわ!」
「ああ。来週の水曜日から金曜日。この3日間が、金庫に侵入して裏帳簿を奪取するための『Xデー』だ」
晃次はパソコンの画面を見つめながら、口元だけで小さく呟いた。
会社の中枢に潜む黒幕の決定的な証拠。それを掴むための、最も危険で、最も重要な計画の輪郭が、ついに明確に定まったのだ。
その日の夜。
夕食の片付けを終えた晃次と李理香は、リビングのテーブルに図面を広げていた。
「常務室の金庫の暗証番号は、君の誕生日である『0825』で間違いない。問題は、あの部屋そのものに侵入する方法だ」
晃次がフロアマップの役員室の扉を指差す。
「常務が海外出張で不在なら、夜間にあの部屋に出入りする人間はいないわ。でも、どうやってあの分厚い扉を開けるの?」
李理香が空中で腕を組み、真剣な表情で問いかける。
「……常務室の扉は二重ロックだ。突破するには、特権IDカードの複製と、さらに静脈認証のシステムを一時的にバイパスする方法の、両方が必要なんだ」
晃次は目を細め、今日一日、彼を囲んでいた女性たちの顔を思い浮かべた。
「社長秘書の酒井すずなら、何らかの抜け道を知っているかもしれない。だが、彼女は危険すぎる。……俺たち自身の力で、両方のセキュリティの網の目を縫う作戦を立てるしかない」
「ええ。一流のサスペンス映画の主人公になったつもりで、完璧なシナリオを書き上げましょう」
愛猫のニョッキが、ソファの上で平和な寝息を立てている。
その穏やかな日常のすぐ裏側で、霊感ゼロのサラリーマンと幽霊の推しによる、会社組織の暗部を暴くための命懸けの侵入計画が、夜の闇の中で静かに練り上げられていた。




