第26話 イタリアからの黒船と厨房の救世主
朝の静かなリビングに、『シャカシャカシャカッ』というリズミカルな砂を掻く音が響き渡っていた。
出勤前のスーツに着替えようとしていた上田晃次は、ネクタイを手に持ったまま、部屋の隅に置かれた猫用トイレの前でピタリと足を止めた。
そこには、スコティッシュフォールドの子猫であるニョッキが、トイレの砂の上にちょこんと座り込み、どこか遠くを見るような、真剣そのものの表情で一点を見つめていた。
「……おっ、始まったな」
晃次が息を殺して見守る中、ニョッキはしばらくの静寂の後、見事に自分のミッションを完遂した。そして、くるりと振り返ると、短い前足を懸命に動かして周囲の砂をザッザッと掻き集め、自分の排泄物を完璧に隠してみせたのだ。
最後に鼻先を近づけて「よし、隠れたにゃ」と確認するような仕草を見せると、満足げにトイレから飛び出してきた。
「えらいぞ、ニョッキ。ちゃんとトイレでできたな。しかも砂かけまで完璧だ」
晃次がしゃがみ込んで頭を撫でると、ニョッキは誇らしげに『にゃっ』と鳴いて尻尾をピンと立てた。
「んんっ……! なにあの真剣な眼差しからの、ドヤ顔! 可愛すぎて胸が苦しい!」
頭上から、限界まで感情を爆発させた歓喜の声が降り注いできた。半透明の白いワンピース姿の幽霊、内田李理香である。
「砂かけの所作に一切の迷いがないわ! さすが私が見込んだ子猫ね! 今すぐ抱きしめて褒めちぎってあげたいのに……っ!」
李理香は物理的に触れられない悔しさから、空中でギリィッと歯軋りをしつつ、歓喜の涙を流さんばかりに悶えている。
「猫は元々綺麗好きだから、教えなくても砂で隠す習性があるんだよ。でも、確かにうちのニョッキは特別賢いかもしれないな」
親バカぶりを発揮しながら、晃次はご褒美の猫用おやつを一粒だけ与えた。
「さて、癒やしの時間はここまでだ。今週は水曜日から金曜日が、常務が海外出張に出る『Xデー』だ。あの役員室の二重ロックをどう突破するか、今日明日のうちに具体的な手立てを見つけないといけない」
「ええ。私たちの復讐を遂げるための、正念場よ。気合入れていきなさい」
李理香も空中で表情を引き締め、二人は静かな闘志を胸にオリオンフーズ本社へと向かった。
出社した晃次を待ち受けていたのは、経営企画部フロアの異様なほどのピリピリとした空気だった。
今日は、オリオンフーズが新たに業務提携を結ぶことになったイタリアの高級食材メーカー『ロッシ社』からの賓客を招き、本社内の広大なバンケットルームで歓迎レセプションが開かれる日なのだ。
社長をはじめとする全役員が顔を揃え、経営企画部のメンバーである晃次も、プロジェクトの末席として会場のセッティングや進行のサポートに駆り出されていた。
午後1時。
レセプション会場の重厚な扉が開き、社長たち重役に囲まれるようにして、一人の女性が足を踏み入れた。
その瞬間、会場内の空気が一変した。
「……うわぁ、凄いオーラね。まるで映画のスクリーンから飛び出してきたみたい」
晃次の背後、半径5メートル以内の上空を漂う李理香が、思わず感嘆の声を漏らした。
彼女の名前はイザベラ・ロッシ。提携先であるロッシ社の令嬢であり、ブランドのアンバサダーを務める若きエグゼクティブだ。
サファイアのように青く澄んだ瞳と、流れるようなブロンドヘア。身長は175センチを優に超え、体のラインを美しく見せる深紅のタイトドレスを堂々と着こなしている。歩くだけで周囲の視線を釘付けにする、圧倒的な「華」と「陽」のオーラを纏ったイタリアン・ヴィーナスだった。
「本日は遠路はるばるお越しいただき、誠にありがとうございます。我が社の誇るホスピタリティで、存分におもてなしさせていただきますよ」
社長が顔中を皺くちゃにして媚びへつらうように笑いかけると、イザベラは自信に満ちた笑みで応えた。
「ええ、期待しているわ。日本の市場に私たちのオリーブオイルを届けるための、最高のパートナーかどうか、今日ここで見極めさせてもらうわね」
しかし、その和やかで華やかな空気は、わずか数十分後に最悪の形で崩れ去ることになる。
「……なんだと!? ケータリング業者が来ない!?」
会場の隅で、担当の役員と総務部のスタッフが血相を変えて小声で怒鳴り合っていた。
「も、申し訳ありません! 業者の手配ミスで、日付を明日と勘違いしていたようで……! 今から急いで料理を作って運ぶと言っていますが、どう急いでもあと2時間はかかると……!」
晃次が耳をそばだてて状況を察知したのと同時刻、会場の中央に用意されたテーブルを見たイザベラの表情が、スッと冷たいものに変わっていた。
テーブルの上に並べられているのは、乾杯用のシャンパンと、急場しのぎで出された乾き物や出来合いのチーズの盛り合わせだけだった。
「……これは、どういうことかしら?」
イザベラの青い瞳が、社長と役員たちを冷徹に射抜く。
「まさか、イタリアから足を運んだ私たちに対する歓迎の食事が、これだけだと言うの? このチープなクラッカーと、乾いたチーズが?」
「い、いえ! イザベラ様、これはほんの行き違いでして、今すぐに最高の料理が……!」
「言い訳は聞きたくないわ。食に対するリスペクトがない企業は、ビジネスのパートナーとしても信用できない。私たちの時間を無駄にするつもりなら、この提携の話は考え直させてもらうわよ」
イザベラの厳しい言葉に、社長をはじめとする役員たちの顔から一気に血の気が引いた。莫大な利益を生むはずの業務提携が、ただのケータリングの手配ミス一つで水泡に帰そうとしているのだ。
会場が凍りつくような沈黙に包まれた、その時だった。
「ねえ、晃次! 大ピンチじゃない! でもこれ、とんでもない大逆転のチャンスよ!」
晃次の耳元で、李理香の鋭い囁き声が響いた。
「チャンス?」
「あんたの得意料理はなんだっけ? イタリアンでしょ!? ここで即席の絶品パスタでも作ってあの令嬢の胃袋を掴めば、あの社長や役員たちに特大の恩を売れるわ! そうすれば、役員室のセキュリティの突破口が開けるかもしれないじゃない!」
李理香の言葉に、晃次の脳内でバラバラだった思考のピースがガチッと組み合わさった。
(そうだ。ここで会社を、いや、役員たちを救う「救世主」になれれば、見返りとして役員エリアへの接近が容易になるかもしれない)
晃次はネクタイを緩め、スッと一歩前に出た。
「イザベラ様。誠に申し訳ございません。当方の不手際で、お食事の到着が遅れております」
突然前に出た見知らぬ平社員に、役員たちが「上田くん、君は何を……!」と制止しようとするが、晃次はそれを手で制し、堂々とした態度でイザベラの目を見つめた。
「ですが、イタリアの素晴らしい食文化を愛する者として、このまま貴女様を空腹でお待たせするわけにはいきません。……もしよろしければ、私がほんの少しの間、厨房をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「……あなたが? 料理を作るというの?」
イザベラが訝しげに眉をひそめる。
「はい。あり合わせの食材にはなりますが、必ずご満足いただける一皿をお出しします」
晃次が深く一礼すると、イザベラは腕を組み、面白そうにフッと笑った。
「いいわ。そこまで言うなら、あなたの『アモーレ』を見せてもらいましょう。ただし、私の舌は厳しいわよ?」
許可を得るなり、晃次は会場の裏手にある、社員食堂の試作用厨房へと駆け込んだ。
後ろには李理香がフワフワと楽しそうについてきている。
厨房の巨大な冷蔵庫とパントリーを急いで漁る。ケータリングがメインだったため、豪華な肉や魚は一切ない。
見つけ出したのは、業務用のホールトマト缶、青森県産の大粒ニンニク、鷹の爪、瓶詰めのアンチョビフィレ、ブラックオリーブ、ケッパー。そして、乾麺のスパゲッティだ。
「……これだけあれば、十分に戦える」
晃次はエプロンを締め、即座に調理を開始した。
まずはコンロの火を最大にして、パスタを茹でるための大量の湯を沸かし始める。
その間に、大きなアルミパンに、会場に展示用として置かれていたロッシ社の最高級エクストラバージンオリーブオイルを引き、包丁の腹で潰したニンニクと鷹の爪を入れ、弱火でじっくりと香りを引き出していく。
オイルの中で細かな泡が立ち、ニンニクの香ばしい匂いが立ち上ってきたところに、アンチョビフィレを数枚投入する。
木べらでアンチョビを潰しながらオイルに完全に溶かし込む。
『ジュワァァァッ!』
アンチョビの強烈な塩気と魚介の熟成された旨味が、ニンニクの香りと混ざり合い、厨房内に爆発的な匂いを放った。
「……ッ! オイルに溶けたアンチョビとニンニクの香ばしさが、鼻の奥を直接ぶん殴ってくるわね! 食欲のスイッチが強制的に入れられた気分よ!」
李理香が換気扇のすぐ下で、その芳醇な香りを胸いっぱいに吸い込もうと深呼吸を繰り返している。
そこに、半分にちぎったブラックオリーブと、ケッパーを加えて軽く炒め合わせ、トマト缶を一気に流し込む。
トマトの酸味を飛ばしながら煮詰め、ソースに深いコクととろみを出していく。
湯が沸騰したのを見計らい、塩を加えてスパゲッティを投入する。
「茹で時間は規定より1分短く。ソースの中でパスタに旨味を吸わせるんだ」
茹で上がったスパゲッティをパンに投入し、パスタの茹で汁を少し加えて、フライパンをリズミカルに煽る。最後に、さらにロッシ社のオリーブオイルを回しかけて香りを立たせる。オイルと水分が完璧に乳化し、ソースがツヤツヤと輝きながら麺に絡みついた。
「完成だ。スパゲッティ・アッラ・プッタネスカ」
最後にフレッシュなイタリアンパセリを散らし、真っ白な平皿に高く、美しく盛り付ける。
熱気と共に立ち上る、トマトとアンチョビの野性味あふれる香りが、食欲を暴力的に刺激する。
晃次はトレイに皿を乗せ、足早にレセプション会場へと戻った。
静まり返った会場で、イザベラの目の前にその皿を恭しく置く。
「お待たせいたしました。取り急ぎ、厨房のあり合わせの食材で作ったものですが、よろしければ」
イザベラは、目の前に置かれた色鮮やかなパスタを見つめ、青い瞳をわずかに見開いた。
「……これを本当に、あり合わせで?」
彼女はフォークを手に取り、パスタをくるくると巻きつけて口に運んだ。
その瞬間。
イザベラの動きがピタリと止まり、目を見開いたままゆっくりと咀嚼を繰り返した。
「……ボーノ」
感嘆の吐息とともに、彼女の口から零れ落ちた賞賛の言葉。
「アンチョビの強烈な旨味と、ケッパーの酸味、オリーブの香りが完璧に調和しているわ。トマトの甘みをニンニクと唐辛子がピリッと引き締めていて……まるでナポリのマンマが作ってくれたような、力強くて情熱的な味! 素晴らしいわ!」
イザベラは次々とパスタを口に運び、あっという間に皿を空にしてしまった。
「スパゲッティ・アッラ・プッタネスカです。……本来は少し粗野な名前を持つ庶民のパスタですが、本日は主役を変えさせていただきました」
晃次が流麗に説明すると、イザベラはナプキンで口元を拭い、不思議そうに小首を傾げた。
「主役?」
「ええ。このパスタの本当の主役は、仕上げに回しかけたロッシ社の最高級エクストラバージンオリーブオイルです。アンチョビやケッパーの強い個性を、貴社のオリーブオイルのフルーティーな香りと青々しい辛味が完璧にまとめ上げています。日本のどんな食材と合わせても、貴社のオイルは輝く。そのポテンシャルを証明したかったのです」
その言葉を聞いた瞬間、イザベラの青い瞳が驚きと感動に見開かれた。
「ブラヴォー! 私の会社のオイルの真価を、こんな短時間で見抜いたというの!? あなたのその機転と、料理に対する深いアモーレ、すっかり気に入ったわ!」
イザベラが立ち上がって拍手を送ると、固唾を飲んで見守っていた役員たちも、一斉にホッと胸を撫で下ろし、割れんばかりの拍手を晃次に向けて送った。
「いやぁ、上田くん! 素晴らしい! 君のおかげで我が社の面目が保てたよ!」
社長までもが、満面の笑みで晃次の肩を叩く。彼らを見る晃次の瞳の奥には、決して見せることのない冷たい復讐の炎が宿っているというのに。
「やったわね晃次! これで役員たちの信頼は完全にあんたのものよ!」
歓声に包まれる会場の隅で、李理香が空中で見事なガッツポーズを決めている。
絶体絶命のピンチを、得意の料理スキルと完璧なプレゼンテーションで見事に救ってみせた晃次。
イタリアからの黒船の胃袋を掴んだこの一件が、難攻不落の役員室に近づくための強力なパスポートとなることは間違いない。
しかし、情熱の国からやってきた美しき令嬢が、このパスタ一杯で大人しく引き下がるはずがないということを、晃次はこの時まだ知る由もなかった。




