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第27話 アモーレの猛攻と情熱のポルターガイスト

 オリオンフーズ本社内の広大なバンケットルーム。

 イタリアの高級食材メーカー『ロッシ社』の令嬢、イザベラ・ロッシの前に差し出された一皿のパスタは、絶体絶命の危機に瀕していた歓迎レセプションの空気を一変させた。


「ブラヴォー! 私の会社のオイルの真価を、こんな短時間で見抜いたというの!? あなたのその機転と、料理に対する深いアモーレ、すっかり気に入ったわ!」


 イザベラがサファイアのような青い瞳を輝かせ、立ち上がって惜しみない拍手を送る。社長をはじめとする役員たちも、首の皮一枚で繋がった提携話に安堵の息を漏らし、上田晃次に向けて万雷の拍手を送っていた。


(よし。これで役員たちに特大の恩を売ることができた。彼らの懐に入り込むための、これ以上ない強力な足がかりになる)


 晃次が心の中で静かにガッツポーズを握り、深く一礼をして退こうとした、その時だった。


「待って。コウジ、と言ったわね」


 イザベラは美しいブロンドの髪を翻し、ピンヒールを鳴らして晃次の目の前まで歩み寄ってきた。身長175センチを超える彼女の顔は、晃次とほぼ同じ高さにある。


「あ、はい。上田晃次です」


 晃次が答えた瞬間、イザベラは長い両腕を真っ直ぐに伸ばし、迷うことなく晃次の首に勢いよくしがみついてきたのだ。


「えっ!?」

「素晴らしいわ、コウジ! あなたは私の胃袋だけでなく、魂まで震わせた! 私、決めたわ。あなたは今日から私の日本のパートナーよ!」


 日本のビジネスシーンでは絶対にあり得ない、情熱的で猛烈なフルハグ。

 深紅のタイトドレス越しに、彼女の豊満で引き締まった柔らかな身体の感触が、晃次の胸板から腹部にかけて容赦なく押し当てられる。さらに、彼女のブロンドヘアから立ち上る、エキゾチックで甘い高級な香水が、晃次の思考をクラクラと麻痺させようとしていた。

 周囲の役員たちは「おおおっ……」とどよめき、会場の隅で見守っていた原ユキは能面のように冷え切った表情になり、メリッサ・チャンは「情熱の国のお姫様は、行動が早くていらっしゃるわね」と呆れたように肩をすくめている。


 しかし、誰よりも激しい反応を示したのは、言うまでもなく晃次から半径5メートル以内の上空で待機していた、半透明の幽霊だった。


「はァァァァァァァッ!?」


 内田李理香の脳天を直接叩き割るような凄まじい怒声が、晃次の耳の奥で炸裂した。


「な、なになになになに!? ちょっとパスタ作っただけで何で抱きつかれてるの!? どこの国の常識よ! この泥棒猫のスケールがインターナショナルになってんじゃないわよ!!」


 李理香の抗議など当然聞こえないイザベラは、晃次の首に腕を回したまま、さらに顔を近づけてきた。


「あなたのそのクールな表情の奥に、あんな熱い料理を作る情熱が隠されているなんて。ねえ、日本の男性はシャイだって聞いていたけれど、あなたなら……」


 艶やかな赤い唇が、晃次の頬、あるいは口元へと真っ直ぐに狙いを定めて迫ってくる。


「ダメェェェェェェッ!! 絶対に許さない!! 離れろぉぉぉっ!!」


 李理香の怒りのボルテージが、ついに測定不能の限界領域を突破した。

 彼女の霊体から放たれた目に見えない凄まじい感情のうねりが、半径5メートル以内の物理世界へと強烈に牙を剥く。


『ガシャンッ!! パリィィィンッ!!』


 イザベラがキスをしようとしたその瞬間、二人のすぐ背後に控えていた配膳用ワゴンの上で、予備として積まれていたグラスの塔が、風もないのに崩れ落ちて派手な音を立てて床に散乱した。

 さらに、晃次たちのすぐ横に置かれていたテーブルの上のシャンパンボトルがカタカタと暴れ出し、取り皿がまるでフリスビーのようにフワリと宙に浮き上がってから、床に向かって次々と落下していく。


「きゃああっ!?」

「な、なんだ!? 地震か!?」

「グラスが勝手に割れたぞ!!」


 突然のポルターガイスト現象に、レセプション会場は一瞬にして大パニックに陥った。総務のスタッフたちが慌てふためき、役員たちが頭を抱えてしゃがみ込む。


「(や、やばい……! 李理香ちゃんが完全にキレて、力が暴走してる!)」


 晃次は顔面を蒼白にしながら、なんとかイザベラの腕から逃れようと身をよじった。


「あ、危ないですから、イザベラ様! ワゴンから離れて……!」


 しかし、イザベラは逃げるどころか、宙を舞う皿や揺れるボトルを見渡して、サファイアの瞳を驚きと歓喜に見開いた。


「オー・ミオ・ディオ……! 信じられないわ!」


 彼女は両手で頬を包み込み、まるでロマンチックな奇跡を目の当たりにした少女のように頬を染めた。


「あなたの内に秘めた私へのアモーレが、この空間そのものを揺るがしているのね! 日本の男性が、よもやこれほどまでに熱く、激しい想いを抱いているなんて……私、感動したわ!」


「……は?」


 パニックになっていた晃次の思考が、一瞬だけ停止した。

 空中で皿をぶん投げていた李理香も、あまりにも予想外すぎる斜め上の解釈にポカンと口を開け、動きを止めてしまった。


「な……に今の超次元変換。私のドロドロの怨念を、自分への愛のパワーだと思い込んでるの? このイタリア女、思考回路がラテンの太陽フレアか何かで出来てんの!?」


 怒りの矛先を鮮やかにすり抜けられた李理香は、幽霊のくせに深いため息をつき、どっと疲れたように空中でへたり込んでしまった。元凶が戦意を喪失したため、ワゴンの揺れとグラスの落下もピタリと収まった。


「いや! 違います! 違いますから!」


 晃次は我に返り、大声で否定しながら必死に周囲を取り繕った。


「建物の老朽化です! 地下を走る地下鉄の振動が、ちょうどこの部屋の固有振動数と一致して共振現象を起こしたんです! 皆様、お怪我はありませんか!」


 我ながら無茶苦茶な物理法則の言い訳だったが、何とかその場を収束させることには成功した。

 しかし、イザベラの青い瞳の奥に宿った情熱の炎は、全く鎮火する気配がなかった。彼女は熱っぽい視線で晃次を見つめ、「また後でね、私のシェフ」と甘いウインクを残して、ようやく社長たちとの商談へと戻っていったのである。


 その日の夜。

 心身ともにボロ雑巾のように疲弊しきった晃次は、重い足取りで自室のマンションに帰り着いた。


「ただいま……」


 革靴を脱ぎ捨ててリビングに入り、そのままスーツ姿でソファにうつ伏せに倒れ込む。

 一日中、仕事のプレッシャーと心霊現象の隠蔽、そして多国籍なヒロインたちの猛攻に晒され続けた体は、指一本動かすのも億劫だった。


「ちょっと! なに帰ってきてすぐ倒れてんのよ! まだ説教は終わってないんだからね!」


 天井付近から、李理香の容赦ない声が降ってくる。


「あんな大勢の前で抱きつかれて、あまつさえキスまでされそうになって! 完全にあの女のペースに巻き込まれてたじゃない! もしあのまま唇でも奪われてたら、私あんたのこと一生呪って、毎晩枕元で『アモーレ』って囁き続けてたわよ!」

「……悪かったよ。でも、あれは不可抗力だろ。それに、君のポルターガイストのおかげで最悪の事態は防げたじゃないか」


 ソファに顔を埋めたまま、晃次はくぐもった声で応えた。


 その時だった。


『とととと……』という軽い足音が近づいてきたかと思うと、晃次の背中の上に、ポンッと軽くて柔らかなものが乗っかった。


「にゃう」


 愛猫のニョッキだ。

 ニョッキは晃次の肩甲骨のあたりから首元へと移動してくると、短い前足を交互に動かし、晃次の背中をリズミカルに踏み始めた。いわゆる、猫特有の『フミフミ』である。


「……おっ。ニョッキ、マッサージしてくれてるのか」

『にゃるるる……』


 ニョッキは喉の奥でエンジンのような心地よいゴロゴロ音を鳴らしながら、柔らかい肉球で一生懸命にフミフミを繰り返している。さらに、小さな頭を晃次の後頭部から耳元にかけてスリスリと擦り付け、全身から「甘えたい」というオーラを放出してきた。


「はぁ……。お前は本当に天才だな。すべての疲れが浄化されていくよ」


 晃次が顔を横に向け、ニョッキの柔らかいお腹にそっと触れると、ニョッキは目を細めてさらに強く頭を擦り付けてくる。完璧に計算し尽くされたかのような、見事な甘えのテクニックだった。


「……ッ!!」


 頭上から、息を呑むような音が聞こえた。

 見上げると、李理香が両手で口元を覆い、信じられないものを見るような目でニョッキを見つめていた。


「な、なにあの計算し尽くされた甘えの黄金比! フミフミからの、喉ゴロゴロ、そしてスリスリの三段活用!? 私が物理ボディを持ってたら、息が止まるくらい抱きしめ倒して、最高級のマグロ缶を段ボールごと貢いでるのに……!」


 彼女は悔しそうに顔を歪めながらも、その目尻はすっかり下がりきっている。イザベラに対する激しい嫉妬の炎は、あっという間に子猫の愛らしさによって鎮火させられてしまったらしい。


「ふふっ。いくらイタリアのお姫様でも、この癒やしには勝てないわね。……まあ、今日のとこはニョッキに免じて許してあげる」


 晃次はゆっくりと体を起こし、ニョッキを膝の上に乗せて優しく撫でながら、改めて小さく息を吐いた。


「でも、寿命が縮むかと思ったのは事実だ。あのイタリア女の行動力は規格外すぎる」

「そうね。でも、結果的に二重ロックを突破するための最強のカードを手に入れたじゃない」


 李理香が空中で表情を引き締め、プロデューサーの顔に戻る。


「……二重ロックを突破するカード?」


 晃次が聞き返すと、李理香はニヤリと笑って宙を舞った。


「そうよ。私たちの当面の課題は、特権IDカードの複製と静脈認証のバイパスよ。でも、これまでは役員室の前をうろつくのが精一杯で、内部の情報にはアクセスできなかったでしょ?」

「ああ。だが、イザベラが俺を気に入ったことと、それがどう結びつくんだ?」

「鈍いわね。あの社長や役員たちにとって、今のあんたは『数億円規模の提携話を救った命の恩人』であり、先方の令嬢との『唯一のパイプ役』なのよ。これなら、イザベラを案内するという名目で、役員室の扉の内側まで堂々と招き入れられる口実ができるじゃない!」


 李理香の指摘に、晃次の視界がパッと開けた。


「……なるほど。外からこそこそと鍵を破る方法を探るんじゃなく、表門から堂々と入り込んで、特権IDの予備の保管場所や、静脈認証システムの盲点を内側から直接探り出すってわけか」

「その通り! 虎穴に入らずんば虎子を得ず、よ。あの女の熱烈なアモーレを最大限に利用して、あいつらの懐に深く潜り込むのよ」


 晃次の目にも、鋭い光が戻ってきた。

 常務がシンガポールへ出張し、長期間部屋を空ける『Xデー』は、明後日の水曜日からに迫っている。あの分厚い扉に守られた役員室。その奥にある裏帳簿のデータが入った隠し金庫に、ようやく手が届きそうな道筋が見え始めたのだ。


「明日からのオフィスは、あのイタリア女が押し掛けてきて修羅場になる可能性が高いわ。でも、その騒ぎすらも隠れ蓑にして、絶対に突破口を見つけ出すのよ」

「わかっている。役員たちの懐深くに潜り込むための、最後のピースを必ず見つける」


 膝の上でスヤスヤと眠り始めたニョッキの温もりを感じながら、晃次は決意を固めた。

 嵐のようなレセプションを乗り越え、多国籍なヒロインたちの思惑が交錯する中。

 会社の中枢に潜む黒幕の息の根を止めるための、極秘の侵入作戦が、いよいよ現実のカウントダウンを始めようとしていた。

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