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第28話 波乱のオフィスと予期せぬヒント

 火曜日の朝。

 上田晃次のマンションのリビングには、真新しい木の香りと、微かな接着剤の匂いが漂っていた。

 休日のうちにネット通販で注文し、昨夜遅くに組み立てを終えたばかりの『3段式・据え置き型キャットタワー』が、窓際の特等席に鎮座している。


「ほらニョッキ、新しいおうちだぞ」


 晃次が声をかけると、スコティッシュフォールドの子猫であるニョッキは、好奇心と警戒心が入り混じった丸い琥珀色の瞳で、その真新しいタワーを見上げた。

 恐る恐る短い前足を伸ばし、一番下のステップの匂いをフンフンと嗅ぐ。安全だと認識した瞬間、ニョッキの瞳にキラッと好奇心のスイッチが入った。


『にゃうっ!』


 短い足で器用にステップをよじ登り、途中に設置された麻縄のポールを両手で力強く『ガリガリガリッ!』と引っ掻いて爪の研ぎ心地を確かめる。

 さらにとてとてと上へ向かい、最上段に備え付けられたボウル型のハンモックへと到達した。

 ニョッキはその丸い布のくぼみに、まるで液体が器に注がれるかのようにスッポリと自分の体を収めきった。そして、ハンモックの縁から短い前足をだらんと垂らし、下界を見下ろしながら『どう? ぼくのお城』と言わんばかりの誇らしげなドヤ顔を向けてきたのだ。


「……お気に召したようだな。一国一城の主の風格だ」


 晃次が満足げにコーヒーをすすると、頭上から感極まったような震える声が降ってきた。


「な、なにあの誇り高きお顔! ボウル型のハンモックに1ミリの隙間もなくジャストフィットしてる! 最高! 最高すぎるわ!」


 半透明の白いワンピース姿の幽霊、内田李理香が、空中で両手で頬を包み込み、身をよじらせている。


「ああっ、もう! 私のゴーストハートが限界突破して弾け飛びそう! あの縁からだらんと垂れた短いおててを、今すぐぷにぷにってしたいぃぃっ! なんで私は物理干渉できないのよぉぉっ!」


 連日のように限界オタクぶりを発揮する推しを横目に、晃次は静かにネクタイを締め直した。


「さて。極上の癒やしでエネルギーは満タンだ。行くぞ、李理香ちゃん」


 晃次の声のトーンが、一段低く引き締まる。


「ええ。常務がシンガポールへ高飛びする『Xデー』は、いよいよ明日からよ。今日中に、あの役員室の二重ロックを突破する具体的な手立てを見つけないとね」


 李理香も空中で表情を鋭くし、プロデューサーの顔へと切り替わった。

 昨夜の打ち合わせ通り、今日はこちらから積極的に仕掛け、役員室の内部構造を探り出さなければならない。二人は静かな闘志を胸に、オリオンフーズ本社へと向かった。


 午前11時。

 最上階の経営企画部のフロアは、いつものように静寂と猛烈なタイピング音に包まれていた。

 晃次がデスクでアジア市場向けの資料作成に没頭していると、突然、その静寂を物理的に切り裂くような華やかな声がフロアに響き渡った。


「チャオ、コージ! 会いに来たわよ!」


 フロアの入り口の自動ドアが開き、深紅のタイトワンピースに身を包んだイタリアン・ヴィーナス、イザベラ・ロッシが、堂々たる足取りで入ってきたのだ。

 彼女の背後で、受付のスタッフが「あ、あの! アポイントのない方は……!」と慌てて制止しようとしているが、ロッシ社の令嬢でありVIPである彼女を本気で止められる者などいない。

 イザベラは一直線に晃次のデスクへと向かってくると、周囲の社員たちが唖然として見守る中、歓喜の声を上げて長い腕を晃次の首に絡ませてきたのだ。


「コージ! あなたの作ったプッタネスカの味が忘れられなくて、うっかり日本のオフィスまで来ちゃったわ!」

「ぶふぉっ!? イ、イザベラ様!?」


 むせ返るような甘い高級香水の香りと、グラマラスな身体の柔らかな感触が、晃次を容赦なく包み込む。

 日本のオフィス、それも会社の中枢であるエリート部署のど真ん中で、息が詰まるほどの熱烈な抱擁を受ける平社員。あまりにも非日常的な光景に、フロア中の視線が晃次に突き刺さった。


「出たわねイタリア女! 職場で何くっついてんのよ!」


 晃次の耳元で、李理香の怒声が炸裂した。

 彼女の霊体から強烈な嫉妬のエネルギーが放出されかけ、デスクの上のペン立てが微かにカタカタと震え始める。


「(こ、堪えろ李理香ちゃん! この騒ぎを隠れ蓑にして役員室に近づく作戦だろ!)」


 晃次が腹話術で必死に宥めると、李理香は「うぅぅっ……わかってるわよ!」と歯軋りをしながら、ギリギリのところでポルターガイストの暴走を抑え込んだ。


 しかし、黙っていなかったのは幽霊だけではなかった。


「……イザベラ様。我が社へようこそ。ですが、ここは執務室です」


 スッと立ち上がったのは、直属の上司である原ユキだった。彼女は冷ややかな、しかし決して失礼には当たらない完璧なビジネスマイルを浮かべてイザベラを牽制した。


「彼も今、私の下で重要なプロジェクトを進めている最中ですので。あまり過激なスキンシップは、業務の妨げになります」


 すると、さらに斜め前のデスクから、アジア戦略室長のメリッサ・チャンが優雅に立ち上がり、加勢するように口を開いた。


「ええ、原課長の仰る通りですわ。イタリアの情熱は素晴らしいですが、コウジは私の優秀なパートナーでもありますから。あなた一人に独占されてしまっては、少々困ってしまいますの」


 洗練された大人の女同士の、見えない火花がフロアの中央でバチバチと散り始める。


「わぁっ、外国のお姫様だ! 晃次くん、すごーい! なんだかドラマのワンシーンみたい!」


 商品開発部の天才デザイナー、横山千春だけが、空気を全く読まずに目をキラキラと輝かせて面白がっている。

 さらにフロアの奥、給湯室の入り口からは、社長秘書の酒井すずが腕を組み、この多国籍な修羅場を「面白くなってきたわね」と言わんばかりの妖艶な笑みを浮かべて遠巻きに観察していた。


 冷徹な上司、完璧な才女、天真爛漫なデザイナー、そして小悪魔秘書。

 彼女たちの視線が四方八方から交錯し、経営企画部のフロアはかつてないほどの大パニック状態に陥っていた。

 しかし、晃次はこの危機的状況を、千載一遇のチャンスと捉えていた。


「原課長、メリッサ室長。お気遣いありがとうございます」


 晃次は李理香の教え通り、背筋を伸ばして涼やかな「デキる男」の表情を作り、イザベラをそっと体から離した。


「ですが、せっかく提携先のイザベラ様が足を運んでくださったのです。私が社内を、特に役員エリアをご案内して、ご挨拶に回りましょう。それが、我が社のホスピタリティを示す絶好の機会かと存じます」


 晃次の完璧な大義名分に、ユキもメリッサも反論の余地を失い、「……ええ、それなら仕方ないわね」と引き下がるしかなかった。


「チャオ! エスコート、よろしくね私のシェフ!」


 イザベラは嬉しそうに晃次の腕に自分の腕を絡め、上機嫌で歩き出した。


(よし。これなら、誰も咎めない)


 VIPであるイザベラが同伴しているという絶対的なパスポート。これを利用し、晃次は堂々と、フロアの最奥にある重厚な木目調の扉——役員室エリアへと足を踏み入れた。


 静まり返った役員室の廊下。防音性の高い分厚い絨毯が、二人の足音を吸収していく。

 晃次が常務室の前を通りかかろうとした、まさにその時だった。


『カチャッ』


 常務室の扉が開き、中から恰幅の良い男が姿を現した。李理香の死と裏金隠蔽に関わる張本人、常務だ。


「おお、これはイザベラ様。わざわざ当フロアまでお越しいただき、光栄の至りでございます」


 常務が顔中を皺くちゃにして愛想笑いを浮かべ、深く頭を下げる。

 その隙を見逃す幽霊ではなかった。


「私、奥を見てくる!」


 李理香がスッと壁を抜け、常務が開けたままにしている扉の隙間から、常務室の内部へと滑り込んでいった。


 常務はイザベラに挨拶を終えると、後ろから歩いてきた社長秘書のすずに向かって、声を潜めて指示を出した。


「すずくん。明日の出張中、例の予備カードの管理は徹底してくれよ。万が一にも持ち出されるようなことがあってはならない」

「ご安心ください、常務。秘書室の金庫にて、私が厳重に保管しております」


(例の予備カード……特権IDカードの予備は、秘書室の金庫に保管されている……!)


 晃次はイザベラに笑顔を向けながらも、そのやり取りを脳内に深く、克明に刻み込んだ。二重ロックの第一関門を突破するための、決定的なヒントだ。


 さらに、常務室の中からスーッと戻ってきた李理香が、興奮した様子で晃次の耳元に顔を寄せた。


「晃次! 凄いことがわかったわ!」

「なんだ?」


 晃次が極小の声で囁き返すと、李理香は早口で捲し立てた。


「常務の机の上に、分厚いマニュアルが出しっぱなしになってたわ! 表紙に『オメガセキュリティ社製・静脈認証システム管理手順書』って書いてあった!」


 その報告を聞いた瞬間、晃次の脳内で稲妻のような閃きが走った。

 総務部で長年、社内のあらゆる設備やシステムの導入管理に関わってきた彼だからこそ、その文字情報が一本の線に繋がったのだ。


(オメガ社製のシステムか……! 俺が総務部にいた頃に導入の手配をしたやつだ。あのシステムはネットワークから完全に独立しているが、緊急時のエラーに備えて、総務部の金庫に保管されている『緊急用バイパス・ドングル』をパネル下部の隠しポートに挿せば、一度だけ認証をスキップできるバックドアの仕組みがあるんだ……!)


 全ての謎が解けた。

 鉄壁と思われていた二重ロックの盲点。

 それは、最新のセキュリティシステムの裏側に残された、アナログな緊急回避用の物理デバイスだったのだ。


 イザベラを無事にエントランスまで送り届けた後。

 夕暮れ時の誰もいない非常階段の踊り場で、晃次と李理香は密かに作戦の全貌を確認し合っていた。


「特権IDカードの予備は、明日の日中、秘書室に人がいない隙を突いて俺がくすねる。そして静脈認証をバイパスするドングルは、俺が総務部の金庫から持ち出す。元総務部の俺なら、金庫の暗証番号も知っているし、怪しまれずに近づける」


 晃次が計画を口にすると、李理香は悪の幹部のような不敵な笑みを浮かべた。


「完璧ね。総務部時代のあんたの経験と人脈、そして私の幽霊スパイ能力。これが組み合わされば、どんな鉄壁のセキュリティだろうと紙切れ同然よ」


 多国籍なヒロインたちが巻き起こした、嵐のようなハーレムのドタバタ劇。

 それが皮肉にも最大の隠れ蓑となり、難攻不落と思われた役員室の二重ロックを突破するための『予期せぬヒント』を、完全に手繰り寄せる結果となったのだ。


「これで、全てのピースが揃った」


 晃次が夕日に染まる窓の外を見つめながら呟く。


「ええ。明日からのXデー。ついにあいつらの隠し金庫を暴き、その悪逆非道な罪を白日の下に晒すわよ」


 李理香の瞳にも、強い復讐の炎が燃え上がっている。


 会社の中枢に隠された裏帳簿。そして、国民的女優の死の真相。

 すべてを終わらせるための、いよいよ、戻れないXデーの幕が上がろうとしていた。

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