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第29話 Xデー前夜の決起集会

「……はぁ。やっと解放された」


 午後9時過ぎ。自室のマンションの玄関ドアを閉めた瞬間、上田晃次は革靴を脱ぎ捨てるようにして上がり框に崩れ落ちた。

 連日の激務に加え、今日は午後からイタリアン・ヴィーナスことイザベラ・ロッシが再びオフィスにアポなしで来襲してきたのだ。彼女の猛烈なスキンシップと、それを冷ややかに牽制する原ユキ、面白がる横山千春、そして何より背後で般若のような顔をして嫉妬のオーラを放ち続ける内田李理香。

 多国籍なヒロインたちが織りなす社内ハーレムの修羅場をなんとか躱し、無傷で帰宅できたこと自体が奇跡のように思えた。


「本当にお疲れ様。あのイタリア女、私が物理干渉できないのをいいことに、やりたい放題だったわね。でも、明日からの決戦を前に余計な体力を使わずに済んだのは不幸中の幸いよ」


 晃次の頭上で、半透明の白いワンピース姿の李理香がふわりと漂いながら労いの言葉をかけた。


「にゃあぁん! にゃあぁぁん!」


 疲労困憊の晃次を現実に引き戻したのは、足元から響く切羽詰まったような高く愛らしい鳴き声だった。

 見下ろすと、スコティッシュフォールドの子猫、ニョッキが短い尻尾をピンと立て、晃次のスラックスの裾に必死にすり寄っていた。琥珀色の丸い瞳が、「遅い! お腹ペコペコだよ!」と強烈に訴えかけている。


「ごめんごめん、ニョッキ。すぐにご飯にするからな」


 晃次が立ち上がってキッチンに向かうと、ニョッキは足元にまとわりつくようにとてとてとついてくる。

 いつものキャットフードに、少しだけ温めた子猫用のミルクを混ぜて香りを立たせ、浅いお皿に入れて床に置いた。


『にゃっ!』


 ニョッキは歓喜の声を上げ、お皿に顔を突っ込むような勢いで無我夢中に食べ始めた。くちゃくちゃという小さな咀嚼音と、ミルクを舐め取るチャプチャプというリズミカルな音がリビングに響く。

 ものの数分でお皿を綺麗に舐め尽くしたニョッキは、満足そうに顔を上げ、口の周りを短い前足で丁寧にクシクシと洗い始めた。

 そのお腹は、先ほどまでのスリムな体型が嘘のように、まるで小さな水風船を飲み込んだかのようにぽっこりと丸く膨らんでいた。


「ふぅ……」とでも言いそうな満足げな表情で、ニョッキはお気に入りのフワフワのクッションへと移動する。そして、ぽっこり膨らんだお腹を見せるようにコロンと横向きに転がり、数秒後には『すぅ……すぅ……』と穏やかで平和な寝息を立て始めた。


「……なんて幸せそうな寝顔なの」


 空中でその様子を見つめていた李理香の瞳が、ふっと優しく細められた。


「ぽっこり膨らんだあのお腹に、この世の平和と幸福が全部詰まってるみたいね。見ているだけで、私の荒んだゴーストハートまで綺麗に浄化されていくわ……」


 彼女は両手で胸元を押さえ、心底愛おしそうに微笑んでいる。いつもなら限界オタクのように絶叫するところだが、満腹になって無防備に眠る子猫の姿は、そんな騒がしい感情すらも穏やかに凪がせてしまう絶対的な癒やしの力を持っていた。


「ああ。本当に、ずっと見ていられるな」


 晃次もソファに腰を下ろし、ニョッキの小さな寝息のリズムに合わせて静かに息を吐いた。

 しかし、その平穏な時間も長くは続かない。彼らには、明日絶対に成し遂げなければならない重大なミッションが控えているのだ。


「さて……ニョッキのお腹は満たされたが、俺たちはこれからだ」


 晃次は立ち上がり、ネクタイを外してシャツの袖を腕まくりした。


「明日はついに、常務がシンガポールへ海外出張に旅立つ『Xデー』。その前夜祭の決起集会として、極上の飯を作ろう」

「賛成! 今日はあのイタリア女に振り回された記念ってことで、とびきり重厚なイタリアンが食べたい気分よ!」


 李理香のプロデューサーとしての瞳に、食欲という名のパッションが灯る。


「任せろ。今日は本格的な『タリアテッレ・アル・ラグー』、ボローニャ風のミートソースパスタだ」


 晃次は冷蔵庫から牛ひき肉と豚バラ肉のブロックを取り出し、豚肉を包丁で粗いみじん切りにしていく。


「ラグーソースの命は、香味野菜のソフリットと肉の焼き色だ」


 玉ねぎ、セロリ、にんじんを極細かくみじん切りにし、たっぷりのオリーブオイルを引いた鍋で、焦がさないように弱火でじっくりと炒め始める。野菜の水分が飛び、飴色になって甘みが極限まで凝縮されるまでに数十分をかける。


「うわぁ……もうこれだけで、甘くて香ばしい匂いがキッチンいっぱいに広がってるわね」


 換気扇の下で、李理香が目を閉じて香りを堪能している。


 次に、別の鉄のフライパンを煙が出るほど熱し、牛ひき肉と刻んだ豚バラ肉を広げて押し付けるように焼く。すぐに混ぜず、肉の表面にしっかりとした焼き目をつけてメイラード反応を起こさせるのが、プロの旨味の出し方だ。

 煙が立つほど熱したフライパンに肉が張り付いた瞬間、食欲をダイレクトに刺激する香ばしい焦げた匂いが、キッチン全体に立ち昇っていった。

「しっかり焼き色がついたら、ソフリットの鍋に肉を移す。そして空いたフライパンに赤ワインを注いで、鍋底にこびりついた肉の旨味をこそげ落としてソースに合流させるんだ」


『ジュワァァァッ……』とアルコールが飛び、ワインの芳醇な香りが肉の脂と混ざり合う。


 そこに少量のトマトペースト、熱いブイヨンスープ、そしてローリエの葉を加え、ごく弱火でコトコトと煮込んでいく。

 ソースを煮込んでいる間に、大きめの鍋にたっぷりの水を張り、強火にかけて時間をかけてしっかりと沸騰させる。塩を加え、きしめんのように平たいパスタ『タリアテッレ』をパラリと投入した。


「ラグーのような重厚なソースには、ソースがしっかり絡む平打ち麺がベストだ」


 茹で上がったタリアテッレをソースの鍋に加え、パスタの表面のデンプン質とソースの油分をしっかりと乳化させる。

 深めの皿に美しく高く盛り付け、仕上げに本場のパルミジャーノ・レッジャーノを雪のようにたっぷりと削りかけた。


「完成だ。そして今日のペアリングはこれだ」


 晃次が用意したのは、イタリアワインの王様と称されるフルボディの赤ワイン『バローロ』だった。

 重厚なグラスに注ぐと、黒みを帯びたガーネット色が美しく輝き、ドライローズやスパイスのような複雑で妖艶な香りが立ち上る。


「いただきます」


 ダイニングテーブルの向かいの空席に李理香がスタンバイしたのを確認し、晃次はフォークでタリアテッレを巻き取り、大きく口に運んだ。


「んんっ……!」

「どう!? お肉のゴロゴロ感! ソースの絡み具合は!?」


 李理香が身を乗り出して急かしてくる。


「……これは、圧倒されるな。粗く刻んだ豚バラ肉の食感が、ステーキのように力強い存在感を主張してくる。そこに牛肉の深い旨味と、時間をかけて炒めた香味野菜の優しい甘みが、寸分の隙もなく溶け合っているんだ。モチモチの平打ち麺に重厚なソースがねっとりと絡みつき、噛み締めるたびに至福の味わいが広がる」


 晃次はゆっくりと息を吐き、傍らに置かれたバローロのグラスを手に取って静かに口に含んだ。


「……深いな。このワインの強いタンニンと熟成された果実味が、ラグーの濃厚な脂を綺麗に洗い流して、口の中を次のひと口へと完璧にリセットしてくれる。まさに大人のマリアージュだ」


「あああっ! 濃厚なお肉の旨味が押し寄せてくるわ! パルミジャーノチーズの塩気とコクがさらに味を深くしてる! そして芳醇な葡萄の香りが鼻を抜けていくのが、代理摂食でビリビリ伝わってくるわ!」


 李理香は両手を胸の前で組み、感動のあまり言葉を失ったように天を仰いでいる。幽霊の身でありながら、その瞳からは歓喜の涙がこぼれ落ちそうだった。


「本当に、決戦前の最高のご褒美ね。生前じゃ絶対にこんな遅い時間に赤ワインとパスタなんて許されなかったんだから」


 幽霊となって得た、深夜の背徳的なグルメの共有。二人の間には、言葉以上の深い連帯感が静かに満ちていた。


「……はぁ。食った。エネルギーは完全にフルチャージされたぞ」


 最後の一口を名残惜しそうに飲み込み、晃次がワイングラスを置いて真剣な表情へと切り替わった。


「さて。明日のXデーに向けた、最終確認をしておこう」

「ええ」


 李理香も空中で姿勢を正し、プロデューサーの冷徹な顔つきに戻る。


「明日の日中、常務がシンガポールへ向けて出発する。俺たちのターゲットは、誰もいなくなった深夜の常務室内にある隠し金庫だ。暗証番号は、君の誕生日である『0825』」


 晃次はテーブルの上に仮想のフロアマップを描くように指を動かした。


「だが、常務室の扉には特権IDカードと静脈認証の二重ロックがかかっている。これを突破するための『物理的な鍵』を、明日の日中に確保しなければならない」

「まずは静脈認証のシステムをバイパスするための緊急用ドングルね。これは総務部の金庫に保管されているんだったわね」

「ああ。俺は元総務部だから、金庫の暗証番号も知っているし、備品の確認という名目でフロアに入っても怪しまれない。昼休みの人が少ない時間帯を狙ってドングルを持ち出す」


 晃次の言葉に、李理香が静かに頷く。


「そしてもう一つ。問題は特権IDカードの予備よ。社長秘書である酒井すずが管理する『秘書室の金庫』の中にあるわ。でも、秘書室の金庫の暗証番号なんて分からないでしょ? どうやって開けるのよ」

「総務部にいた頃の経験から言うと、秘書は日中の業務中、頻繁に重要書類を出し入れするため、一時的に金庫のダイヤルを解錠状態にしたまま、あるいは扉を半開きにしていることが多い。彼女が席を外すタイミングを見計らい、俺が経営企画部の仕事のふりをして秘書室に近づき、そのわずかな隙を突いてカードをくすねる」

「なるほど。私が壁をすり抜けて秘書室の状況を監視するわ。彼女が完全に離れた隙を突いて、あんたに合図を送るから」


 幽霊のスパイ能力と、サラリーマンの内部知識。

 二つの力が完璧に噛み合わなければ、この鉄壁のセキュリティは突破できない。

 もし見つかれば、不法侵入と窃盗未遂で懲戒解雇は免れず、最悪の場合は警察沙汰だ。しかし、彼らが暴こうとしているのは、自社のトップが企てた巨額の裏金工作と、一人の女優の命を奪った卑劣な隠蔽工作である。ここで引き返す選択肢など、初めから存在しなかった。


「……怖いか? 晃次」


 不意に、李理香が少しだけトーンを落として尋ねてきた。


「怖くないと言えば嘘になる。だが、それ以上に……許せないんだ」


 晃次はグラスの底に残った赤いワインを見つめながら、静かに、しかし確かな熱を込めて言った。


「君の夢と未来を理不尽に奪い去り、それをただの『処理』だと笑い捨てるような連中が、この会社の上層部にのうのうと座っていることが。……必ず、君の無念を晴らす」


 その真っ直ぐな言葉に、李理香の瞳がわずかに揺れ、そして美しく、誇り高い女優の笑みへと変わった。


「頼もしいわね、私の優秀なプロデューサー補佐。……ええ、やってやりましょう。私たちの手で、あいつらの罪を白日の下に引きずり出してやるのよ」


 深夜の静寂の中、傍らのクッションではニョッキが安心しきった様子で平和な寝息を立て続けている。

 その守るべき温かな日常の裏側で、すべての準備を整えた二人に、後戻りできない決戦の朝がすぐそこまで迫っていた。

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