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第30話 Xデーの誤算と強制イベント

 水曜日の早朝。

 まだ薄暗い寝室で、上田晃次は深い眠りの底に沈んでいた。連日の過酷な業務と、裏帳簿奪取に向けた極秘ミッションの準備による疲労が、泥のように身体にへばりついている。


 ふと、顔のすぐ横で、微かな羽毛のような感触が動いた。


『……すぅ、すぅ……』


 規則正しく、そしてとても小さな呼吸音が耳元をくすぐる。かすかにミルクと陽だまりのようないい匂いが鼻をかすめた。

 晃次が鉛のように重いまぶたをわずかに開けると、視界のすぐ端、彼自身の首筋に添い寝するように丸まっている、温かく柔らかな毛玉の姿があった。愛猫のニョッキだ。


 夜中に一匹で眠るのが寂しくなったのか、あるいは主人の疲れを感じ取って癒やしに来てくれたのか。ニョッキは晃次の布団に潜り込み、彼の顎の下という「特等席」にすっぽりと収まっていた。

 ひんやりとした小さな鼻先が、晃次の頬にペタッと触れる。そして、ざらりとした小さな舌が、晃次の顎のラインを毛繕いするように数回舐めた。


「……ん……ニョッキ、か」


 晃次が寝ぼけ眼のまま、首元に巻きついた天然のファーマフラーのような背中を指先でそっと撫でると、ニョッキは目を閉じたまま『にゃるるる……』と、心地よいエンジンのような喉の音を鳴らし始めた。その微細な振動が、晃次の皮膚から骨へと伝わってくる。

 その無防備で純粋な温もりが、冷え切っていた晃次の精神の奥底までじんわりと染み渡っていく。


「くっ……なんて愛らしい寝起きドッキリなの……!」


 ベッドの足元の空間に浮かびながら、半透明の内田李理香がハンカチを噛むような仕草をして身悶えしていた。


「主人の一番無防備な時間に、首元にジャストフィットして添い寝するなんて! しかもあの安心しきった喉の音! ズルいわ……私だって、その特等席で一緒に……っ!」


 限界まで愛おしさを募らせた李理香の抗議も、今の晃次には心地よいBGMにしか聞こえなかった。


(あと5分だけ……この温かさを堪能させてくれ)


 晃次はニョッキの柔らかい毛並みに頬を寄せ、アラームが鳴るまでのわずかな時間、再び極上の二度寝の海へと落ちていった。


 しかし、その数時間後。

 出社して経営企画部のデスクについた晃次を待っていたのは、極上の癒やしをすべて吹き飛ばすほどの、最悪の『誤算』だった。


「……役員フロアの立ち入り制限、だと?」


 午前10時。コーヒーを淹れるふりをして席を立ち、最上階の奥にある役員室エリアへと様子を探りに向かった晃次は、廊下の入り口に立てられた物々しいバリケードと看板を見て絶句した。


『総合セキュリティシステムの点検および、フロアの特別ディープクリーニング実施につき、本日から明日の終日まで、関係者以外の立ち入りを固く禁じます』


 バリケードの奥では、見慣れない作業着姿の清掃業者や、ノートパソコンを手にしたシステムエンジニアたちが慌ただしく行き交っている。専用の清掃マシンのモーター音がフロアに響き、廊下の隅々まで強烈な洗剤の匂いが漂っていた。常務がシンガポールへ旅立ったばかりのこのタイミングを狙って、社長が大規模なフロアメンテナンスを指示したらしい。


「嘘でしょ……! タイミング最悪じゃない!」


 晃次の背後、半径5メートル以内の空間で、李理香が顔面を蒼白にして叫んだ。


「あのフロアに常に業者の目がある状態じゃ、秘書室の金庫から特権IDを盗むのも、静脈認証のパネルに細工をするのも、物理的に不可能よ! まさか、私たちの動きが勘付かれてるんじゃ……!」

「いや、それはないはずだ」


 晃次は額に冷や汗をにじませ、冷静さを保とうと努めながら小声で応えた。


「単なる定期メンテナンスのスケジュールが、常務の不在と偶然重なっただけだろう。もし勘付かれているなら、俺はすでに総務かどこかへ左遷されている。だが……これで、今日と明日の侵入計画は完全に白紙になった」


 常務がシンガポールから帰国するのは、金曜日の深夜だ。

 つまり、業者たちが撤収し、かつ常務がまだ戻っていない『金曜日の夜から深夜にかけての数時間』。

 これが、隠し金庫に侵入できる唯一無二のラストチャンスとなってしまったのである。


「金曜の夜、一発勝負か。……やるしかない。昼間に鍵を調達して、夜に一気に仕掛ける」


 晃次は鋭い視線でバリケードの奥を睨みつけ、静かに踵を返した。


 だが、運命の悪戯はそれだけでは終わらなかった。

 昼休み前、自席に戻った晃次のデスクに、直属の上司である原ユキがカツカツとヒールを鳴らして近づいてきたのだ。彼女の表情はいつも以上に晴れやかで、自信に満ちていた。


「上田くん。今週の金曜日と土曜日、予定を完全に空けておいてちょうだい」


 ユキの口から発せられたその言葉に、晃次は心臓を冷たい手で掴まれたような感覚に陥った。


「金曜と土曜……ですか? 何か、プロジェクトの緊急の仕事が?」


 晃次が平静を装って問い返すと、ユキは赤いルージュを引いた唇の端を少しだけ吊り上げた。


「半分正解で、半分は違うわ。先日の歓迎レセプションで、あなたがロッシ社の令嬢の心を完璧に掴んだおかげで、提携の話が信じられないほどのスピードでまとまったの。そこで社長が、イザベラ様へのさらなるおもてなしと提携記念を兼ねて、急遽『週末の箱根温泉慰安旅行』を企画したのよ」


「……は、箱根、温泉……?」

「ええ。金曜日の午後から、専用の送迎バスで箱根の高級旅館へ向かうわ。参加者は社長と一部の役員、そして私たち経営企画部の主要メンバーよ」


 ユキはそこで言葉を区切り、まるで勝利を確信したかのような視線を晃次に向けた。


「もちろん、あなたも強制参加よ。なにせイザベラ様ご本人が、『私の素晴らしいシェフも一緒でなければ行かない』とご指名なのだから」


 晃次の視界が、一瞬だけ真っ暗になった。


(金曜の午後から、箱根の温泉旅館に宿泊……!?)


 それはつまり、彼が東京の本社に潜入して金庫を破るための唯一のチャンスである『金曜の夜』に、物理的に東京から遠く離れた場所に隔離されることを意味していた。車で片道数時間もかかる山奥の温泉宿。そこから抜け出して戻るなど、常識的に考えて不可能だ。


「ちょっと待ちなさいよォォォォッ!!」


 李理香の悲鳴のような怒声が、晃次の脳髄を直接揺さぶった。


「冗談じゃないわよ! 金曜の夜は、私たちが常務室の金庫をこじ開ける運命の決戦日なのよ!? なんでそんな日に、イタリアのお姫様と温泉旅行なんて行かなきゃならないのよ!!」


 李理香の激しい動揺が周囲の空間に干渉し、晃次のデスクの上にあったクリップボードがガタッと不自然に音を立てる。パソコンのモニターの画面も一瞬チカッと瞬いた。


「(落ち着け李理香ちゃん! ここで暴れたらすべてが台無しだ!)」


 晃次が必死に精神を集中させて宥めると、李理香は空中でギリィッと悔しそうに拳を握りしめ、なんとか現象を抑え込んだ。


「……どうしたの? 嬉しくないの? それとも、金曜の夜に何か外せない個人的な用事でもあったかしら」


 ユキが、探るような、それでいてどこか冷ややかな視線を晃次に向けてくる。彼女の目は「プロジェクトのキーマンとしての自覚があるなら、当然参加するわよね?」と無言の圧力をかけていた。

 ここで参加を断れば、これまでの努力で築き上げたユキからの信頼も、イザベラという強力な後ろ盾も、すべて失うことになる。それはひいては、役員室へ近づく大義名分を永遠に失うことと同義だった。何より、不自然に断れば、何か企んでいると勘繰られかねない。


「……いえ。大変光栄なご指名です。金曜日からの箱根出張、喜んで同行させていただきます」


 晃次は顔の筋肉を総動員して完璧な営業スマイルを作り上げ、深く一礼した。心の中で血の涙を流しながら。


 その日の夜。

 人気のない非常階段の薄暗い踊り場に、絶望的な重苦しい空気が漂っていた。コンクリートの冷気が足元から這い上がってくる。


「……終わったわ。完全に詰みよ」


 李理香がコンクリートの床に体育座りをして、頭を抱えている。


「業者に道を塞がれた挙句、唯一のチャンスである金曜の夜に箱根に拉致されるなんて。これじゃ物理的に金庫に近づくことすらできないじゃない……。やっぱり神様なんていないんだわ。私の無念は、永遠に晴らされないのね……」


「いや。まだ終わっていない」


 階段の手すりに寄りかかっていた晃次が、低く、しかし決して折れることのない強靭な響きを帯びた声で言った。

 彼は手元に広げたスマートフォンで、ある経路の検索結果を表示していた。その目はギラギラと獲物を狙う狩人のように光っている。


「……俺は箱根に行く。だが、金曜の夜、宴会が終わって全員が寝静まった深夜のタイミングで、旅館をこっそりと抜け出す」


「は……?」


 李理香が顔を上げ、信じられないものを見るような目で晃次を見つめた。


「深夜に箱根を抜け出して、どうするのよ?」

「決まっているだろう。金曜の午後、温泉に出発する前の日中に、当初の予定通り総務部と秘書室から『二つの鍵』を奪取しておく。そして夜、全員が寝静まった深夜のタイミングで、旅館をこっそりと抜け出す。あらかじめ配車タクシーを手配しておき、小田原か箱根湯本まで下るんだ。そこから深夜バスか、最悪レンタカーを飛ばして東京の本社に戻る。深夜2時から3時の間に本社に潜入して、手に入れた鍵で二重ロックを破り、裏帳簿のデータを抜き出して朝の6時までに再び箱根の旅館の自分の布団に戻る」


 晃次が口にしたのは、あまりにも無謀で、狂気じみた強行突破プランだった。


「正気の沙汰じゃないわね……!」


 李理香が空中に立ち上がり、声を荒げた。


「箱根から東京の往復だけで、深夜の道でも何時間かかると思ってるのよ! 出発前に二つの鍵を無事に盗み出せたとしても、深夜の本社で金庫破りを成功させて、朝までに何食わぬ顔で戻るなんて! もし少しでも計算が狂ったり、旅館の誰かに部屋を抜け出したのがバレたりしたら、あんたのサラリーマン人生は即終了よ!」


「わかっている。体力も精神力も限界を超える、綱渡りのミッションだ」


 晃次はスマートフォンの画面を消し、李理香の目を真っ直ぐに見返した。


「だが、やるしかないんだ。社長の鶴の一声で、いつあの裏帳簿が別の場所に移されるか分からない。金曜の夜が、実質的なタイムリミットだ。これが、君の無念を晴らすための、正真正銘のラストチャンスなんだから」


 その揺るぎない覚悟を秘めた晃次の瞳を見て、李理香は言葉を飲み込んだ。

 彼は、ただのアイドルオタクだった男だ。それが今、自分のために、文字通り人生のすべてを懸けて、巨大な組織の闇に単身で飛び込もうとしている。失敗すればすべてを失うリスクを承知の上で、限界を超えるスケジュールに挑もうとしているのだ。


「……あんたって男は、本当にバカね」


 李理香はふっと息を吐き出し、そして、生前のトップ女優だった頃の、美しくも不敵な笑みを浮かべた。


「上等じゃない。やってやろうじゃないの。社長や役員、それに私服のヒロインたちがうごめく温泉旅館からの、深夜の脱走劇。そして東京本社でのスリリングな金庫破り。……私がプロデューサーとして、最高にスリル満点なスパイ映画のシナリオに仕立て上げてあげるわ」

「ああ。頼りにしてるよ、プロデューサー」


 誰にも見つからずに箱根と東京を深夜に往復し、金庫の闇を暴く。

 上田晃次のサラリーマン人生において、最も過酷で、最も無謀な週末の脱走劇へ、今まさに身を投じようとしていた。

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