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第31話 乱の温泉宿と混浴の危機

 金曜日の朝。

 東京は薄曇りで、少しだけ湿度を含んだ風が吹いていた。

 上田晃次は、ボストンバッグのファスナーを閉め、一泊二日の箱根温泉旅行へ向けた荷造りを終えた。しかし、彼にとってこの旅行は慰安でも何でもない。今夜、箱根から東京へ深夜にとんぼ返りをして常務室の金庫を破るという、文字通り人生を懸けた決死の強行作戦のスタートラインなのだ。


「ニョッキ。今日と明日はお留守番だぞ。ご飯と水はたっぷり用意したし、自動給餌器もセットしたからな」


 晃次が声をかけた先には、昨日リビングとキッチンの間に新しく設置したばかりのペットゲートがある。キッチンでの思わぬ事故を防ぎ、安全に留守番してもらうための対策だ。

 スコティッシュフォールドの子猫、ニョッキは、その真新しい柵の前にちょこんと座り、琥珀色の丸い瞳で柵の上部を見上げていた。


「にゃっ」


 短い鳴き声を一つ上げたかと思うと、ニョッキは短い後ろ足で床を力強く蹴った。

 そして、メッシュの網目に前足の爪を器用に引っ掛け、まるで熟練のロッククライマーのような見事な腕力でよじ登り始めたのだ。


「おっ……おい、マジか」


 晃次が息を呑んで見守る中、ニョッキはあっという間に柵の最上部に到達し、コロンと体をひねって柵の向こう側へと見事に転がり落ちてきた。

 着地と同時にブルブルッと体を震わせると、何事もなかったかのようにとてとてと歩み寄り、晃次の足元にスリスリと甘えるように身を寄せてきたのだ。


「信じられない! うちの子の運動神経どうなってるの!? 完璧な天才クライマーじゃない!」


 頭上から、興奮を抑えきれない声が降り注いできた。同行の準備を終えた半透明の幽霊、内田李理香である。


「あんな短い足で見事なクライミング! からの、怪我一つない完璧な受け身! 物理的な障害なんてこの子には無意味なのね! ああっ、私もそのモフモフを抱きしめて『よくできました』って褒めちぎりたいのにぃぃっ!」


 物理法則の壁を越えられない己を呪って空中でジタバタする推しを横目に、晃次はニョッキをそっと抱き上げた。


「賢いな、ニョッキ。でも、留守番中は大人しくしててくれよ。……必ず、明日の朝には帰ってくるからな」


 喉をゴロゴロと鳴らす温かい毛玉の感触を胸に深く刻み込み、晃次は決意の表情で自宅を出発した。


 金曜日の午後3時。

 オリオンフーズの一行を乗せた豪華な貸切バスは、箱根の山奥に佇む歴史ある高級温泉旅館へと到着した。

 手入れの行き届いた広大な日本庭園と、エントランスから漂うヒノキの心地よい香り。日常の喧騒から完全に切り離された極上の空間だが、晃次の内心は全く休まっていなかった。


 チェックインの手続きを待つ間、晃次は自身のボストンバッグの奥底にそっと手を伸ばした。

 指先に触れたのは、硬いプラスチックのカードと、小さな金属製のUSBドングルの冷たい感触。


(……よし。無事だ)


 今日の午前中。晃次は血を吐くような緊張感の中、李理香の壁抜けによる監視と連携し、誰もいない一瞬の隙を突いて総務部と秘書室の金庫からこの『二つの鍵』を盗み出すことに成功していた。

 常務室の二重ロックを破るための、特権IDカードの予備と、静脈認証バイパス用の物理キー。

 これで準備はすべて整った。あとは、今夜の宴会が終わり、全員が寝静まった深夜0時過ぎにこの旅館を抜け出し、手配してある配車タクシーとレンタカーで東京の本社を往復するだけだ。

 東京までの道のりと金庫破りの作業を考えれば、体力と精神力のすべてを今夜の数時間に温存しなければならない。


 しかし、晃次のそんな切実な願いは、旅館の畳を踏んだ瞬間に脆くも崩れ去ることになる。


「コージ! アメージングね! これが日本の『リョカン』! さあ、荷物を置いたらさっそく行きましょう!」


 深紅のリゾートドレスを着こなしたイザベラ・ロッシが、周囲の目など一切気にせず、背後から晃次の首に両腕を絡ませてきたのだ。

 背中に押し当てられる情熱的な体温と、エキゾチックな香りに思考が持っていかれそうになる。


「イ、イザベラ様……行くって、どこへですか?」

「決まってるじゃない! 日本の温泉といえば『タッキュウ』でしょ! 浴衣に着替えて、私とアモーレの勝負よ!」

「わぁっ! 卓球! わたしもやるやる!」


 横から元気よく飛び出してきたのは、海外事業部のソフィアだった。原色の黄色いトップスがよく似合う彼女も、目を輝かせて晃次の腕を引っ張る。


「えへへ、私も混ぜてー! 晃次くん、卓球強そう!」


 商品開発部の千春も、ふんわりとしたワンピース姿で無邪気に便乗してきた。


「ちょっと! なんで着いて早々この泥棒猫どもが群がってんのよ! 離れなさいよ! 晃次は今夜、東京とのデス・ドライブが控えてるんだから体力使わせないで!」


 晃次から半径5メートル以内の上空で、李理香が般若のような顔をして絶叫している。


「上田くん。ふふっ、相変わらず大人気ね」


 そこへ、完璧なシルエットのセットアップを着こなした原ユキが、キャリーケースを引きながら優雅に歩み寄ってきた。


「体力を持て余している若手は遊ばせておけばいいわ。……私は後で、ゆっくりとお酒でも付き合ってもらおうかしら。夜は長いですものね」


 大人の色香をたっぷりと含んだ流し目で牽制され、晃次は背筋に冷たい汗を流した。


「原課長まで……。お気遣いありがとうございます、ですが……」


 逃げ道を完全に塞がれ、晃次はそのままプレイルームへと連行される羽目になった。


 プレイルームには、真緑の卓球台が数台並んでいた。

 イザベラ、ソフィア、千春の三人に囲まれ、晃次は休む暇もなくラケットを振らされた。彼女たちの無邪気で容赦のないスマッシュを打ち返し、手加減しつつもラリーを続けるのは、肉体的にも精神的にも想像以上の重労働だ。白熱するラリーの応酬に、晃次の額からは滝のように汗が流れ落ちる。


「ハァ……ハァ……」


 小一時間が経過し、部屋の隅のベンチで汗を拭っていた晃次に、ひんやりとしたおしぼりがスッと差し出された。


「お疲れ様です、上田さん。モテる男は大変ですね」


 見上げると、社長秘書の酒井すずが立っていた。彼女はタイトなニットの胸元を強調するように屈み込み、妖艶な笑みを浮かべている。


「酒井さん……。見てたなら助けてくださいよ」

「ふふっ。邪魔したら悪いかと思って」


 すずは晃次の隣に腰を下ろすと、周囲の喧騒に紛れるように、スッと顔を寄せてきた。


「ねえ、上田さん。知ってました?」


 すずの甘い吐息が、晃次の耳元にかかる。


「この旅館の奥にある一番大きな露天風呂。……深夜0時を過ぎると、男湯と女湯の仕切りが開いて、『混浴』になるらしいですよ」

「えっ……?」

「星空がすごく綺麗に見えるんですって。……偶然、お会いできるかもしれませんね。待ってますから」


 意味ありげに舌先で唇を舐め、すずは蠱惑的なウインクを残して立ち去っていった。


『……ブチッ』


 晃次の耳の奥で、何かが決定的に千切れる音がした。


「こ・の・ハ・レ・ン・チ・女ァァァァァッ!!!」


 限界を突破した李理香の嫉妬と怒りが、プレイルームの磁場を完全に狂わせた。


『パコーンッ! パパパーンッ!!』


 卓球台の横に置かれていたカゴの中のピンポン玉が、まるで意志を持ったかのように一斉に空中に弾け飛んだ。数十個の白い玉が、部屋中をピンボールのように跳ね回る。


「きゃあっ!?」

「なに!? どうしたの!?」


 イザベラたちが驚いて悲鳴を上げる。

 さらに、晃次とすずが座っていたベンチのすぐ横に置かれていた、スペアのラケット数本とタオルが、まるで鳥の群れのようにフワリと宙に浮き上がり、次々と床に叩きつけられ始めた。


『バタンッ! バフッ!』


「ちょっと待って、李理香ちゃん! 落ち着け!」

「落ち着けるわけないでしょ! このドサクサに紛れて混浴でイチャつこうだなんて、100年早いわよ!! あんたの貞操は私が死守してやるんだから!!」


 李理香が空中で両手を振り乱し、大ポルターガイスト現象が炸裂している。


「やばい、やばいやばい……!」


 晃次は顔面を蒼白にしながら立ち上がり、必死にピンポン玉を拾い集めるふりをした。


「みなさん、大丈夫ですか! 温泉地特有の、強力な磁場の乱れです! それに山の隙間風が強いみたいですね! よくあることです!」


 我ながら無茶苦茶すぎる言い訳だが、ラテンのノリのソフィアや、アモーレ第一主義のイザベラは「オー! 日本の温泉はエキサイティングね!」と逆にテンションを上げてしまっているのが救いだった。


 しかし、李理香の怒りは貞操の危機だけではなかった。ハッとしたように表情を硬くし、晃次の耳元で鋭く囁く。


「……待って。深夜0時って言ったわよね? それって、あんたが旅館を抜け出して東京の本社に向かう、まさにその時間じゃない!」

「……っ!」


 晃次の背筋に、氷を当てられたような悪寒が走った。

 そうだ。すずの誘いをただの質の悪い冗談やからかいだと受け流すわけにはいかない。深夜0時に彼女が露天風呂で待ち構えているということは、その時間に晃次が風呂に現れず、部屋にもいないことが発覚すれば、「上田晃次が深夜の旅館から消えた」という致命的な事実がすずに露見してしまう。


「まずい……。もしすずが本気で俺を待っていたら、俺の不在が確実にバレる。彼女は社長秘書だ。何か怪しまれれば、すぐに役員たちに報告される危険があるぞ」

「最悪のタイミングね……。ただでさえ東京との往復で時間との勝負なのに、あの小悪魔秘書をどうにかして出し抜かないと、ミッション自体が破綻するわ!」


 色恋沙汰のトラブル以上に、金庫侵入計画が根底から覆りかねない絶体絶命のタイムラインの衝突。


 夕食までのわずかな休憩時間。

 晃次は割り当てられた自分の部屋の畳の上に、大の字になって倒れ込んでいた。


「……死ぬ。まだ夕方なのに、もう体力がゼロに近い。それに、あのすずの爆弾発言……」

「お疲れ様。でも、あの子たちからあんたを守るためには、あれくらい強硬手段に出るしかなかったのよ。……それにしても、混浴の待ち合わせなんて。あの女、本当に油断ならないわね。脱出の時間を少しずらすか、何か偽装工作を考えないと」


 天井付近を漂う李理香も、さすがに少し疲れたように腕を組んで思考を巡らせている。


 障子の向こう側は、夕日に染まる箱根の山々だ。

 静寂な景色とは裏腹に、晃次の心臓は重く、そして早く脈打っている。

 まだ夜の大宴会も残っている。個性豊かな女性陣の波状攻撃による疲労と、すずという最大の監視の目を潜り抜け、深夜0時過ぎにこの旅館を誰にも気づかれずに脱出するという、最も困難なミッションが控えているのだ。

 晃次は鞄の奥に手を入れ、冷たい二つの金属とプラスチックの鍵の感触をもう一度確かめた。


 会社の中枢に潜む闇を暴き、彼女の無念を完全に晴らすため。

 霊感ゼロのサラリーマンと幽霊の推しによる、一世一代の無謀で危険な夜へ、二人は静かに足を踏み入れようとしていた。

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