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第32話 女湯の密談と幽霊の敗北

 箱根の夜は、東京のそれよりも深く、そして重い静寂に包まれていた。

 社長主催の大宴会は、高級な地酒と豪華な懐石料理の力もあって、大盛況のうちに幕を閉じた。上田晃次は、酔った役員たちの相手をしつつ、隙を見て自分のボストンバッグに隠した「二つの鍵」——特権IDカードとUSBドングルが、まだそこにあることを何度も指先で確認していた。


 時刻は午後10時30分。深夜0時の脱出まで、あと1時間30分しかない。


「……晃次、大丈夫? 顔色が紙みたいに真っ白よ」


 空中で腕を組み、心配そうに覗き込んできたのは内田李理香だった。


「……緊張してるだけだ。ここからの1時間が、俺の人生で最も長い時間になるだろうからな」


 晃次が極小の声で応えると、李理香は少しだけ目を伏せた。


「そうね。……でも、その前にもう一つの試練が来たみたいよ」


 李理香の視線の先には、宴会場の出口で待ち構えていた原ユキの姿があった。

 彼女は酔いのせいか、普段の冷徹な表情が少しだけ緩み、頬に淡い朱が差している。


「上田くん。少し、外を歩かない? 飲みすぎて頭を冷やしたいの」

「……喜んで」


 断る理由はなかった。ここで不自然に部屋に閉じこもる方が、後に深夜の不在がバレた際の疑念を強めてしまう。晃次は李理香の「監視してやるんだから!」という鼻息を背中に感じながら、ユキと共に夜の温泉街へと足を踏み入れた。


 ガス灯のオレンジ色の光が、石畳の道を柔らかく照らしている。カラン、コロンと、ユキの履く下駄の音が静かな夜の空気に溶けていく。

 タイトなスーツではなく、色香の漂う艶やかな浴衣姿のユキと、夜の温泉街を二人きりで歩く。それは誰がどう見ても、完全に「大人のデート」の光景だった。


「……こうして二人で歩いていると、東京の喧騒や仕事のことを忘れそうになるわね」


 ユキは晃次の隣をゆっくりと歩きながら、ふと足を止めて夜空を見上げた。ほのかに漂う硫黄の匂いと、彼女から立ち上る甘い香水の匂いが混ざり合う。


「上田くん。あなたは、このプロジェクトの先……自分がどうなりたいか、考えたことはある?」

「……どうなりたい、ですか」

「ええ。私はね、今回のプロジェクトを成功させて、最短で部長の座を狙うつもりよ。そして、その隣には……信頼できる右腕として、あなたにいてほしいと思っているわ」


 ユキは一歩、晃次との距離を詰めた。夜風に揺れる浴衣の袖から、白く滑らかな腕が覗く。


「これは、上司としての命令ではないわ。一人の女性としての、お願いよ。……私と一緒に、この会社の頂点を目指さない?」


 それは、ただの出世の誘いではなかった。彼女の瞳に宿る熱い光は、人生を共に歩もうという、暗黙のプロポーズに近い重みを持っていた。


「……原課長。私は——」

「答えは今すぐでなくていいわ。でも、私は本気よ。あなたが総務部で見せていたあの死んだような目ではなく、今の、何かに向かって燃えている目が大好きなの」


 ユキは晃次の腕をそっと掴むと、大人の色香を漂わせながら、背伸びをして顔を近づけてきた。


「——ッ!! 離れなさいよこの野心家キャリアウーマン!! 私の晃次を自分の出世の道具にしようだなんて、10万年早いわよ!!」


 李理香の怒声が空中で弾け、二人のすぐ横にあった温泉街の街灯が、不気味な音を立ててちかちかと明滅を始めた。


「あ、あの! 原課長、少し風が冷たくなってきましたね! 湯冷めするといけませんから、戻りましょう!」


 晃次は冷や汗を流しながら、なんとか穏便にユキを旅館へと送り届けた。


「……もう、信じられない! なにがあの女の『右腕』よ! 完全に人生設計の中に晃次を組み込んでるじゃない! しかもあの雰囲気、完全にデートの空気出してきたわね!」


 部屋に戻る廊下で、李理香は空中で髪を振り乱して抗議し、地団駄を踏むように身をよじらせていた。


「落ち着けよ。彼女は彼女なりの誠実さで話してくれたんだ」

「誠実さが一番怖いのよ! ……決めたわ。私、あの女たちが今何を考えてるのか、もっと深く探ってくる!」

「探るって、どうやって」

「女湯よ! 裸の付き合いなら、本音もぽろりとこぼれるはずでしょ。あんたから5メートル以上離れられないけど、幸いなことに今、男湯と女湯は壁一枚で仕切られてる大露天風呂の時間帯よ。あんたが男湯の壁際に張り付いていれば、私は壁をすり抜けて女湯を覗けるわ!」


「それに、あの酒井すずの『深夜0時の混浴の誘い』に対する偽装工作も仕上げなきゃいけないだろ」

「ええ。0時前に風呂に入ったというアリバイを作って、あいつが来る前にこっそり抜け出すのよ!」


 李理香の提案を受け、晃次は大露天風呂の男湯へと向かい、ごつごつとした岩風呂の壁際で身を潜めた。


「行ってくるわ!」


 李理香は分厚い岩の仕切りをすり抜け、女湯へとダイブして姿を消した。


 一方、旅館の1階にある広大な露天風呂付きの女湯。

 そこには、オリオンフーズが誇る「個性豊かな女性陣」が、湯煙の中に勢揃いしていた。

 李理香は天井付近の太い木の梁に張り付くようにして、その光景を覗き込んだ。


「……う、嘘でしょ」


 最初に彼女を襲ったのは、圧倒的な「敗北感」だった。


 湯船の縁に腰掛け、長い脚を伸ばしているのはイザベラ・ロッシだ。

 サファイアのような瞳を細め、濡れたブロンドヘアを無造作に掻き上げる姿は、そのまま高級ファッション誌の表紙になれるほどの神々しさだった。その豊満で引き締まった、1ミリの無駄もないプロポーションは、同じ女性から見てもため息が出るほどだ。

 その隣には、原ユキが優雅に肩まで湯に浸かっていた。スーツの下に隠されていた彼女の身体は、成熟した大人の女性特有のしなやかさと、吸い込まれるような美しい曲線を描いていた。


 さらには、健康的な魅力を放ち、弾けるような肌を持つソフィア。小動物のような愛らしさと意外なほど豊かなラインを持つ千春。そして、魔性という言葉がこれほど似合う体つきはないと思わせる酒井すず。


「……なによ、あいつら。加工アプリでも使ってるの? 物理法則が仕事しすぎでしょ……」


 李理香は自分の半透明で、どこか頼りない霊体を見下ろした。生前はモデルとしても活躍し、スタイルには自信があったはずなのに、今の自分には実体がない。

 どんなに美貌を誇っても、温かい湯に浸かることも、肌のぬくもりを感じることも、自分以外の誰かと触れ合うことすら叶わない。その残酷な事実を、目の前の輝くような女性たちの肢体が、容赦なく突きつけてくる。


 しかし、李理香の心をさらに深くえぐったのは、彼女たちが交わし始めた会話だった。


「……ねえ、イザベラ様。あなた、本当に上田くんをイタリアに連れて帰るおつもりなの?」


 ユキが湯船に浸かったまま、静かに問いかけた。


「当たり前よ、ユキ。コウジは私の胃袋を掴んだ、運命の男だもの。ロッシ家の専属シェフとして、そして私の愛するパートナーとして、ナポリの太陽を浴びて暮らすのが彼の幸せよ」


 イザベラは一点の迷いもなく断言した。


「えー、そんなのダメだよ! 晃次くんは私のデザインのミューズなんだもん!」


 千春がぱしゃぱしゃとお湯を跳ねさせながら口を挟んだ。


「私、決めたんだ。晃次くんと一緒に、世界中を旅して、いろんな色を見つけて、それで最高のパッケージを二人で作るの。それって、すごくロマンチックだと思わない?」


「アハハ、みんな早いね!」


 ソフィアがカラリとした声で笑った。


「わたしは、コージにメキシコの家族を会わせたいな。パパもママも、コージの料理を食べたら絶対に『家族になろう』って言うよ。大家族で毎日パーティーして、賑やかな家庭を作るのがわたしの夢なんだ!」


「皆様、夢想的すぎて羨ましいわ」


 静かに聞いていたメリッサが、長い黒髪をまとめながら微笑んだ。


「私は、彼が日本でその才能を最大限に発揮できるよう、国際的なステージを用意してあげたいの。共にビジネスの荒波を乗り越え、老後はマレーシアの静かな海辺でゆっくり過ごす……。そんな、穏やかな未来も悪くないと思いませんか?」


「ふふっ。皆さん、まだそんな先のこと考えてるんですか?」


 すずが蠱惑的な笑みを浮かべ、ユキの隣に移動した。


「私はもっとシンプル。……今夜、あの露天風呂で彼とどんな夜を過ごすか、それだけが楽しみ。彼、すごく口が堅いから、一度心を開かせたら、私だけのものになってくれそうじゃない?」


 彼女たちが語る未来。

 そこには、明確な「上田晃次と共に歩む人生」のビジョンがあった。

 結婚、家族、老後、共に過ごす夜。

 それらはすべて、生身の体を持つ女性だからこそ夢見ることのできる、当たり前で、そして今の李理香には逆立ちしても手に入らない「未来」だった。


(……あ、そうか)


 李理香は、ふと気づいてしまった。

 自分は幽霊だ。晃次を一流の男にするために、プロデューサーとして厳しく指導してきた。彼と一緒に料理を食べ、彼と一緒に巨悪を裁こうとしている。

 でも。

 事件を解決し、彼が真実を暴いた後……自分の未練が晴れれば、自分は成仏して消えてしまう存在なのだ。

 晃次の人生は、その後も何十年と続いていく。

 自分が消えた後の彼の隣に座るのは、きっと今ここにいる、温かくて、柔らかくて、未来の話ができる誰かなのだ。


(……なにこれ。胸が、苦しい)


 霊体には心臓も神経もないはずなのに。

 視界が急激に歪んだ。涙は出ないはずなのに、目の前が真っ白になっていく。

 彼女たちが語る、希望に満ちた「晃次との未来」を聞いているのが、耐えられなかった。

 今の自分ができる精一杯のことは、5メートル以内で彼を見守り、彼が食べるご飯の匂いを嗅ぐことだけ。


 しかし、その切ない感傷は、すずの言葉によって急激に現実に引き戻された。


『今夜、あの露天風呂で彼とどんな夜を過ごすか……』


(……って、感傷に浸ってる場合じゃないわ! あの小悪魔秘書、マジで0時に仕切りが開くのを待ってる! もし晃次がいないとバレたら、深夜の脱走計画が完全に破綻する!)


 李理香は逃げるように女湯の天井をすり抜け、猛スピードで男湯へと戻った。

 男湯の、静かな岩陰。

 そこには、湯に浸かりながら、深夜のミッションに向けて時計を気にしている晃次の姿があった。


「——晃次ぃっ!!」

「うわっ!? 李理香ちゃん、急にどこから……!」


 李理香は晃次の目の前の空中に姿を現すと、焦りと切なさが入り混じった声で叫んだ。


「どうしたんだよ、そんなに慌てて。何か重要な情報でも掴んだのか?」

「……うるさい! バカ晃次! あんた、あんなに肉食獣たちに未来を語られて、幸せ者ね! 絶滅しちゃえ!」

「……え、ええっ?」


 晃次は困惑した。ついさっきまで「弱点を探る」と意気込んでいた李理香が、なぜか半泣きで怒り狂っているのだ。


「……李理香ちゃん?」

「何でもないわよ! ……ただ、思い知らされただけ。私には、あんたの未来を守ることしかできないんだって」


 李理香は晃次の肩をすり抜ける位置に顔を埋め、震える声で呟いた。


「だから、絶対に失敗しないでよ。あいつらの罪を暴いて、あんたは……自分の幸せな未来を掴みなさいよ。……それと、急いで! あの酒井すず、本気で0時ジャストにここを狙ってるわ! グズグズしてたら脱出がバレる!」


 その声の震えと、切実な警告に、晃次は彼女が女湯で何を見てきたのか、おぼろげに察した。


「……わかってる。部屋の布団の中に、毛布を丸めたダミーは仕込んできた。あとは0時前にここを抜け出して、裏口から手配したタクシーに乗り込むだけだ」


 晃次は湯船から手を伸ばし、彼女がいるであろう空間を、包み込むように動かした。

 温もりは伝わらない。指先は空を切るだけだ。

 それでも、晃次は真っ直ぐに彼女の半透明の瞳を見据えて言った。


「俺の幸せは、誰かに決められるものじゃない。……俺が今、こうして君と一緒に戦っていること。それが俺にとって、何よりの真実なんだ」


「……バカ。本当、大バカね。早く上がりなさいよ、時間が迫ってるわ」


 李理香はふっと、いつもの生意気な笑みを浮かべた。しかし、その瞳の奥には、消えることのない微かな切なさが沈んでいた。


 時刻は午後11時30分。

 深夜0時のタイムリミットが、すぐそこまで迫っていた。

 旅館の静寂を破るように、晃次が脱走のために用意していたスマートフォンのバイブレーションが、防水ポーチの中で静かに、しかし激しく振動した。


 霊感ゼロのサラリーマンと、未来を持たない幽霊の推し。

 二人の、そしてオリオンフーズの運命を左右する「最も長い夜」のゴングが、いよいよ湯煙の向こう側で静かに打ち鳴らされた。

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