第33話 湯煙の脱出作戦
男湯の脱衣所で浴衣から急いで私服の薄手のアウターとスラックスに着替え、上田晃次は足音を殺して自室へと戻った。
時刻は午後11時40分。深夜0時までに、この旅館を完全に抜け出さなければならない。
薄暗い部屋の中で、晃次は押し入れから予備の掛け布団を引っ張り出し、ベッドのシーツの下に丸めて押し込んだ。枕元には丸めたバスタオルを置き、薄暗がりから見れば誰かが寝返りを打って丸まっているように見えるダミーを素早く作り上げる。
ボストンバッグの底を探り、指先で硬いプラスチックと冷たい金属の感触を確かめた。常務室の二重ロックを破るための鍵は、確かにそこにある。
「……準備はできたな」
「ええ」
声の主は、部屋の隅の空中に浮かぶ内田李理香だった。女湯での出来事で負った深い喪失感の名残か、彼女の瞳は少しだけ赤く見えたが、その表情にはすでに、プロデューサーとしての冷徹な鋭さが戻っていた。
「さっきは、取り乱してごめん」
李理香がポツリとこぼす。
「気にしてない。それより、時間がない。一気にエネルギーを入れるぞ」
晃次はそう言いながら、部屋の座卓の上に置かれた小さな重箱の蓋を開けた。
夜の大宴会では、同僚たちの波状攻撃に遭ってほとんど箸をつける余裕がなかった晃次を見かねて、仲居が気を利かせて部屋に運んでおいてくれた夜食だ。
中に入っていたのは、なんとも奇妙な和洋折衷の取り合わせだった。
イザベラへの配慮として特別に用意されたイタリアンの余りである、粗挽きのイタリアンソーセージがゴロゴロと入ったトマトソースのショートパスタと、新鮮なルッコラやオリーブが散らされたグリーンサラダ。
そしてもう一つの段には、旅館の板長が丹精込めて仕込んだという三種類の『飯鮨』——鰺、秋刀魚、鮭の切り身が、発酵した米と麹とともに美しく並べられていた。
「すごい組み合わせね。でも、これから東京を往復する体力をつけるにはちょうどいいかも」
李理香が空中で身を乗り出してくるのを確認し、晃次は時計を横目に割り箸を割った。ゆっくりと味わっている余裕はないが、極限状態の中で味覚は異様なほど冴え渡っていた。
まずはイタリアンソーセージのパスタを口に放り込む。
ハーブが強く香る豚肉の粗挽き肉から、スパイシーな脂が染み出し、濃厚なトマトソースの酸味と絡み合う。硬めに茹でられたリガトーニの噛み応えとともに、疲労した脳が強制的に叩き起こされる感覚があった。すかさずグリーンサラダを口に運び、ルッコラの苦味とオリーブオイルの香りで口の中をリセットする。
「パスタのハーブとスパイスが、戦闘モードのスイッチを入れてくれるな」
晃次は休む間もなく、鰺の飯鮨を一切れ摘んで口に運んだ。
乳酸発酵による独特の強烈な酸味と、麹の甘みが、鰺の青魚特有の風味を見事に抑え込み、深い旨味だけを凝縮させている。続けて秋刀魚、鮭と次々に放り込む。秋刀魚は脂の乗りが酸味と調和し、鮭は身の甘さが際立っていた。
イタリアンの強烈なスパイスの後に、この飯鮨の複雑で深い酸味。口の中で全く異なる食文化の味が激しくぶつかり合うが、その強烈なコントラストが、逆にミッション前の神経を極限まで研ぎ澄ませてくれた。
「……猛スピードだけど、目がバキバキに冴えるわね」
慌ただしい代理摂食を終え、李理香も小さく息を吐いて表情を引き締めた。
食事を終え、ミネラルウォーターで喉を潤した晃次は、壁掛け時計を見上げた。
午後11時50分。
「行くぞ。酒井さんが露天風呂に向かう時間とバッティングするのは避けたい。裏口までのルートは、君のナビゲートに懸かっている」
「任せなさい。私の目はごまかせないわ」
晃次はボストンバッグを肩にかけ、音を立てずに障子を開け、廊下へと滑り出た。
旅館の廊下は、深夜の静寂に包まれていた。足元を照らす間接照明の光だけが頼りだ。
防音絨毯の上を、爪先から慎重に足を下ろして歩く。
エレベーターは音が響くため、非常階段を使って一階の裏口を目指す計画だった。
角を曲がり、長い直線の廊下に出ようとした、その時。
「ストップ」
晃次の少し前方を漂っていた李理香が、サッと右手を上げて制止の合図を出した。
「……どうした」
「右の奥から、こっちに向かって歩いてくる人がいる。……イザベラよ」
「なんだと?」
晃次が壁の陰からそっと覗き込むと、長い廊下の向こう側から、薄いシルクのガウンを羽織っただけのイザベラが、真っ直ぐに晃次の部屋の方向へ歩いてくるのが見えた。
「完全に夜這いね。あの女、自分が狙った獲物は絶対に逃がさないつもりよ」
李理香が忌々しそうに吐き捨てる。
このまま進めば確実に鉢合わせる。かといって部屋に戻れば、彼女がドアをノックしてくるのは目に見えている。
「やり過ごすしかない。李理香ちゃん、俺から離れない限界の距離で、彼女の背後で音を立ててくれ」
「了解」
李理香は音もなく空中を滑り、晃次から半径5メートルギリギリの位置にある消火器ボックスのそばで待機した。
イザベラがその横を通り過ぎ、晃次との距離が縮まったその瞬間。彼女はイザベラに対する明確な「拒絶」の感情を瞬時に高め、空間の磁場に干渉させた。
『ガコンッ! カラカラカラッ!』
静かな廊下に、金属製の消火器ボックスが揺れ、中の部品が床に落ちる鋭い音が響き渡った。
「……?」
イザベラが驚いて足を止め、バッと背後を振り返る。
「今だ」
晃次はその一瞬の隙を突き、音を殺して廊下を横切り、反対側の非常階段の扉へと滑り込んだ。
扉が閉まる直前、イザベラが不審そうに背後を確認しに行く足音が聞こえ、晃次は小さく息を吐き出した。
非常階段を足早に下り、一階のロビー裏へと通じる通路に出た。
「あと少しよ。この先の従業員用通路を抜ければ、通用口に出られるわ」
壁をすり抜けて先行していた李理香が戻ってきて囁く。
しかし、彼女の顔には焦りの色が浮かんでいた。
「……待って。ロビーの自販機コーナーに、原ユキがいる」
「なんだって?」
「浴衣姿でミネラルウォーターを飲んでるわ。酔い覚ましみたい。……最悪なことに、従業員用通路の入り口が、彼女の視界に完全に入ってる」
晃次は舌打ちを堪えた。
ユキは極めて鋭い観察眼を持っている。こんな深夜に、私服でボストンバッグを持った晃次が裏口へ向かう姿を見られれば、いかに言い繕っても「逃亡」あるいは「密会」と疑われ、明日以降のプロジェクトの立場が崩壊しかねない。
「……俺が通る一瞬だけ、彼女の目を逸らせるか」
「やってみる」
李理香は再び壁を抜け、自販機コーナーへと向かった。
晃次は通路の角で身を潜め、スマートフォンの時計を見る。
午後11時58分。
もう時間がない。酒井すずが指定した深夜0時が迫っている。彼女が露天風呂で待ちぼうけを食らえば、すぐに晃次の部屋に確認に来るだろう。
『チャリン……ジャラジャラジャラッ!』
突然、ロビーの自販機から、釣り銭が大量に吐き出されるような異音が鳴り響いた。
「えっ?」
ユキが驚き、手に持っていたペットボトルを下ろして自販機の返却口を覗き込む。
「行け!」
李理香の鋭い念話が脳裏に響く。
晃次は姿勢を低くし、ユキが自販機に気を取られているその数秒の間に、音を立てずに従業員用通路のドアを押し開け、滑り込んだ。
「……はぁ、はぁ……」
薄暗い裏口の鉄扉を押し開け、冷たい夜風が頬を打った瞬間、晃次はようやく大きく息を吸い込んだ。
「お疲れ様。見事なステルスだったわ」
夜空を背に、李理香がフワリと降りてくる。
「君のサポートのおかげだ。さあ、急ごう。ここからは時間との勝負だ」
裏口の駐車場を抜け、旅館の敷地から少し離れた暗がりの県道に出る。
そこには、晃次が事前に手配していた黒い配車タクシーが、エンジンを切って静かに待機していた。
晃次が後部座席に乗り込むと、運転手がミラー越しに確認する。
「上田様ですね。小田原駅まででよろしいでしょうか」
「ええ。できるだけ急いでください」
タクシーが静かに発進し、深夜の箱根の山道を下り始める。
窓の外には、暗闇に沈む木々と、遠くに見える街の灯りが流れていく。
「今頃、あの小悪魔秘書は露天風呂で一人待ちぼうけね。少しは反省すればいいのよ」
隣の空席で、李理香が窓の外を見ながら少しだけ意地悪く笑った。
「彼女の狙いが何であれ、明日には俺の不在に気づくかもしれない。だが、朝の6時までにあの布団に戻れれば、言い訳の余地は作れる。……すべては、今夜の東京でのミッションに懸かっている」
晃次はボストンバッグのファスナー越しに、手に入れた鍵の確かな重みを確かめた。
「あの分厚い扉を開ければ、その奥の金庫に、私の死をただの『処理』と呼んだあいつらの、汚い欲望の証拠が眠っている」
李理香の横顔から、先ほどまでのふざけた気配は完全に消え去っていた。そこにあるのは、自らの命を奪った者たちに対する、静かで冷徹な怒りだけだ。
タクシーは小田原駅に到着した。
時刻は午前0時45分。
ここからは、事前に調べておいた深夜運行の臨時急行列車に飛び乗り、一気に東京の本社へと向かう。
「行くぞ、李理香ちゃん」
「ええ。私たちの手で、あいつらの息の根を止めてやるわ」
霊感ゼロのサラリーマンと、未来を奪われた幽霊の女優。
二人の乗った列車は、深夜の闇を切り裂くように東京へと走り出した。
常務がシンガポールから帰国するまでの、わずかなタイムリミット。会社の中枢に隠された裏帳簿を奪い出す、長く危険な夜のレールを、今、一直線に駆け抜けていく。




