第34話 深夜の本社潜入と『0825』
深夜の臨時急行列車は、黒く塗りつぶされたような車窓の景色を切り裂きながら、一直線に東京へと向かっていた。
車内には数人の乗客しかおらず、等間隔に響くレールのジョイント音だけが、単調に時間を刻んでいる。
上田晃次は、深くシートに身を沈め、目を閉じていた。
箱根から東京への深夜の移動。そして、この後に控えているのは、巨大企業の役員室に不法侵入し、隠し金庫を破るという綱渡りのミッションだ。
膝の上に置いたボストンバッグの重みが、この計画の異常さを嫌でも実感させる。
胃の中には箱根の旅館を出る前に無理やり詰め込んだパスタと飯鮨が残っているはずだが、極限まで張り詰めた神経のせいで、味も満腹感もすっかり抜け落ちていた。
ただ、乾いた口内が、ふと別の記憶を呼び起こす。
それは数日前の休日、まだこの過酷な潜入計画が本格化する前の、穏やかな昼下がりのことだった。
(……あの蕎麦、美味かったな)
月に1度、長野県の製麺所から定期購入して取り寄せている、打ち立ての生蕎麦。クール便で届いたその箱を開け、和紙の包装を解いた瞬間の、青々とした蕎麦粉の香りを、晃次の脳は鮮明に覚えていた。
『またそんなマニアックなものお取り寄せして! でも、お蕎麦屋さんの生蕎麦ってテンション上がるわね!』
李理香がキッチンの上空で身を乗り出してはしゃぐ中、晃次はいそいそと一番大きな鍋を取り出し、たっぷりの湯を沸かした。
「美味い蕎麦を食うためには、たっぷりのお湯で一気に泳がせるのが鉄則だ」
グラグラと激しく煮え立つ湯の中に、打ち粉を軽く落とした生蕎麦をパラリと散らす。菜箸で優しく、湯の対流に乗せるように泳がせると、湯が白く濁り始め、蕎麦の香ばしくも甘い香りがキッチンいっぱいに立ち上った。
「茹で時間はわずか1分半。1秒の遅れも許されない」
晃次はスマートフォンのタイマーを睨みつけながら、全神経を鍋に集中させる。
アラームが鳴る直前、すかさずザルにあけ、流水で一気に粗熱とぬめりを取り除く。そして仕上げに、あらかじめボウルに用意しておいた氷水の中に蕎麦を投入し、両手でギュッと揉むようにしてキリッと締めるのだ。指先が痛くなるほどの冷たさが、蕎麦のコシを生み出す。
竹ざるに美しく盛られた蕎麦の表面は、冷水で締められたことで艶やかに輝いていた。
つゆは、鰹節の香りがガツンと効いた、少し辛口の江戸前風。薬味には、鮫皮のおろし器で円を描くように丁寧におろした本ワサビと、極細に刻んで水にさらした白ネギだけを用意した。
『ズズズッ……!』
蕎麦の端を3分の1だけつゆにつけ、一気に空気を巻き込みながらすする。
その瞬間、氷水で締められた強烈なコシのある食感とともに、新蕎麦の野性味あふれる香りが鼻腔を一直線に駆け抜けた。噛むほどに蕎麦の甘みが滲み出し、辛口のつゆと本ワサビの爽やかな刺激が、それを完璧に引き締める。
さらに、つゆの奥深い旨味が口の中に広がり、ただの冷たい麺料理であることを忘れさせるほどの鮮烈な余韻を残す。
『あああっ! ズルい! その喉越し! 鼻を抜けるお蕎麦の香り、こっちにもダイレクトに伝わってきてるわよ! 早く次の一口いって!』
横で空中で手足をばたつかせて狂喜する李理香の声をBGMに、足元で丸くなるニョッキの寝顔を眺めながら、夢中で蕎麦を手繰った。
冷たく、香り高く、そして何より「平和」な味がした。
「……晃次? どうしたの、眉間にしわ寄せて」
隣の空席に浮かんでいた李理香の声に、晃次はハッとして目を開けた。車内の空調の冷たさが、彼を現実に引き戻す。
「いや……少し、この数日間のことを思い出していただけだ。あの穏やかな日常を、絶対に守り抜かなきゃならないってな」
「そうね」
李理香は短く応え、窓の外の遠くに見え始めた都会のネオンを見つめた。
「あと少しで、決着のステージよ」
午前2時。
列車は静かに東京駅のホームに滑り込んだ。
タクシー乗り場で客待ちをしていた車に飛び乗り、人気のないオフィス街へと向かう。窓の外を流れる深夜の東京の街並みは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、無機質な街灯の光だけがアスファルトを照らしていた。運転手との会話もなく、車内に響くタイヤの摩擦音だけが、これから挑むミッションの緊張感を煽ってくる。
オリオンフーズ本社ビルの数ブロック手前でタクシーを降り、夜の冷たい空気を肺の奥深くまで吸い込んだ。
晃次は社員証を使い、警備員の目が届きにくい夜間用の通用口からビル内へと侵入した。総務部時代にビルの構造や巡回ルートを把握していたことが、ここで活きた。
「李理香ちゃん、頼む」
「任せて。私の目は誤魔化せないわ」
ここから先は、幽霊である彼女の独壇場だ。
李理香は晃次から半径5メートル以内の距離を保ちながら、壁やドアをすり抜けて先行し、警備員の動向を探る。
「……ストップ。角の先に一人いるわ。こちらに向かって歩いてくる」
暗闇の廊下で、李理香の静かな声が響く。
晃次は即座に身を翻し、近くの給湯室の陰に身を隠した。息を殺し、壁に背中を押し付ける。
『カツ……カツ……』
重い革靴の足音が近づき、やがて通り過ぎていく。警備員の持つ懐中電灯の光が、廊下の床を無機質に舐めていった。
「よし、行ったわ。今のうちに非常階段へ」
必要最小限の言葉のラリー。二人の間に、これまでの潜入捜査で培われた完璧な連携が成立していた。
息を潜めながら非常階段を上り詰め、ついに最上階の役員エリアへと到達した。
防音の厚いカーペットが敷かれた廊下は、墓場のように静まり返っている。
晃次は、廊下の最奥にある重厚なマホガニー製のドア——常務室の前に立った。
「……ここからが本番だ」
晃次はボストンバッグの中から、昼間に奪取して以来、肌身離さず隠し持っていた特権IDカードの予備と、静脈認証を強制バイパスするためのUSBドングルを取り出した。
まずは、ドアノブの横にあるリーダーに、カードを静かにかざす。
『ピッ』という短い電子音が鳴り、パネルのランプが赤からオレンジへと変わった。第一段階のクリアだ。
「次は静脈認証よ。パネルの下のカバーを開けて」
李理香の指示に従い、晃次はパネルの下部を指で探り、小さなプラスチックのカバーを爪で外した。そこには、メンテナンス用の極小のUSBポートが隠されていた。
ドングルを差し込む。数秒の沈黙。晃次の額から冷たい汗が流れ落ち、目に入りそうになるのを瞬きでやり過ごす。
『カチャッ』
内部のシリンダーが外れる、重く鈍い音がした。ランプが緑色に変わる。
「……開いた」
晃次はドアノブを回し、音を立てずに常務室の中へと滑り込んだ。
広大な室内は、窓の外のビル群の明かりだけが頼りだった。
革張りのソファー、巨大なマホガニーのデスク。そして、壁に掛けられた抽象画。
「その絵の裏よ」
李理香が指差す先へ向かい、絵画を静かに横へスライドさせる。
そこには、壁に埋め込まれた最新型のテンキー式金庫が鎮座していた。
「暗証番号は……」
「0825。私の誕生日」
李理香の声は、ひどく冷たく、そして乾いていた。自分を殺した人間が、その日付を金庫のパスワードに設定しているという悪趣味さは、何度考えても吐き気を催す。
晃次は震える指を抑え込み、冷たい金属のテンキーに指を這わせた。1文字1文字、正確に押し込むたびに、小さな電子音が部屋の静寂を破る。
『ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……ガチャン』
分厚い鋼鉄の扉の奥で、重いロックが外れる音がした。ゆっくりと手前に引くと、金庫の中の淀んだ空気が、かすかに外へ流れ出る。
中には、いくつかのファイルと、一つの黒いUSBメモリ、そして……使い込まれた、黒い革張りの手帳が置かれていた。
晃次はUSBメモリをポケットにしまい、手帳を手に取った。
スマートフォンのライトを極限まで絞り、ページをめくる。
そこには、数年にわたる広告代理店との不可解な金のやり取り、すなわち巨額のキックバックの記録が、詳細な数字とともに生々しく書き込まれていた。
「……これだ。これさえあれば、警察も動かざるを得ない」
だが、晃次の手が止まったのは、さらに数ページをめくった先だった。
数ヶ月前の、あの日付のページ。
『代理店との金の流れを、内田に気付かれた可能性あり。早急な対応が必要。』
『〇日、スタジオのセットに細工を手配。業者は息のかかった者を使用。』
『内田の件、処理完了。警察は事故と断定。これで足はつかない。』
無機質なインクの文字が、一人の人間の命と未来を奪った事実を、ただの事務作業のように記録していた。
「……っ」
隣で手帳を覗き込んでいた李理香の喉から、声にならない嗚咽が漏れた。
彼女の霊体が激しく明滅し、その輪郭が蜃気楼のように揺らいだ。
「……やっぱり。あいつらにとっては、私の命なんて、ただの事務的な『処理』でしかなかったのよ」
彼女は以前、常務が独り言で「処理」と口にしていたのを聞いていた。だが、こうして文字として、冷酷な計画の一部として自分の死が記録されているのを目の当たりにするのは、決定的に次元の違う絶望だった。
「違う」
晃次は手帳を閉じ、低く、しかし地の底から響くような声で言った。
「君の命は、そんな軽いものじゃない。何万人ものファンに夢を与え、そして……俺の人生を救ってくれた、何よりも大切なものだ」
晃次は手帳をボストンバッグの底に深く押し込み、立ち上がった。
「これで証拠はすべて揃った。あいつらを、確実に地獄へ引きずり落とす」
李理香は顔を上げ、涙のない瞳でしっかりと頷いた。
「ええ。私たちの完全勝利よ」
二人は静かに、しかし確かな怒りを噛み締めた。
だが、その余韻に浸っている暇は、今の彼らには1秒たりとも残されていなかった。
晃次がスマートフォンの時計を見る。
時刻は、午前2時45分。
「長居は無用だ。箱根の旅館で偽装工作が露見する朝の6時まで、残り3時間を切っている」
「行くわよ、晃次。急いで」
晃次は証拠の詰まったボストンバッグのファスナーを固く閉め、常務室の重厚な扉を静かに、そして確実に閉ざした。
振り返ることはしない。二人は無言のまま頷き合い、深夜の非常階段を一段飛ばしで駆け下りていく。
靴音が響かないよう細心の注意を払いながら暗闇の中を非常口へと向かい、冷たい夜気が吹き込む鉄扉を重い音とともに押し開けた。
外はまだ、底知れないほど深い闇に沈んでいる。
晃次は冷たい空気を肺の奥深くまで吸い込み、待機させてあるタクシーの元へと、全速力でアスファルトを蹴り出した。




