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第35話 暁の帰還と小悪魔の共犯

 深夜の東名高速道路を、タクシーは一定の速度で滑るように西へと走り続けていた。

 窓の外を流れるオレンジ色の街灯が、車内に等間隔の影を落としては消えていく。


 時刻は午前5時を回ったところだった。

 上田晃次は後部座席で深く息を吐き、右手の指先でスラックスのポケットを探った。そこには、常務室の隠し金庫から奪い出した『裏帳簿のデータが入ったUSBメモリ』の硬い感触がある。そして膝の上で抱え込むボストンバッグの底には、李理香の殺害を指示した『黒い手帳』が重い質量を持って沈んでいた。

 会社の中枢の闇を暴くための決定的な武器。これを手にした以上、もう後戻りはできない。


 極限まで張り詰めた神経を少しでも落ち着かせるため、晃次は無意識にスマートフォンを開き、自宅に設置したペットカメラのアプリをタップした。

 画面に映し出されたのは、薄暗いリビングの光景。

 部屋の隅に置かれた自動給餌器の前に、小さな丸いシルエットが座り込んでいた。ニョッキだ。

 設定しておいた早朝の少量のドライフードが皿に落ちる音で目を覚ましたらしい。カリカリと小気味良い音を立てて食事を終えた小さな毛玉は、短い足で器用にキャットタワーを登り、最上段のハンモックへと移動した。

 そこで、短い前足を丁寧に舐めて顔を洗い始めたのだが、その動きは数回繰り返しただけで徐々に緩慢になっていく。

 やがて、カクンと首が下に落ちたかと思うと、再びハッと顔を上げる。だが、もはや抗いがたい睡魔には勝てなかったらしい。ハンモックのくぼみに丸く収まり、前足で顔を半分隠すようにして、再びスヤスヤと穏やかな二度寝の世界へと落ちていった。

 マイク越しに、微かな『すぅ……すぅ……』という平和な寝息が聞こえてくる。


「……可愛すぎる。あんなに一生懸命早起きして朝ごはん食べたのに、結局すぐ寝ちゃうのね。無防備すぎて、見ているこっちの胸が苦しくなるわ」


 晃次のすぐ隣の空席から身を乗り出してきた李理香が、画面を食い入るように見つめながら声を殺して身悶えしていた。


「……ああ。この静かな日常を、これからもずっと守り続けなきゃならないな」


 晃次が呟き、スマートフォンの画面を暗くする。


 午前5時40分。

 タクシーは箱根の温泉旅館から少し離れた県道沿いで停車した。


「ありがとうございました」


 運転手に料金を支払い、車を降りる。山の朝は、東京とは比べ物にならないほど空気が冷たく、澄み切っていた。

 朝靄が周囲の木々を白く覆い、微かに硫黄の匂いと湿った土の香りが鼻腔をくすぐる。


「行くぞ。ここからが本当のタイムアタックだ」

「ええ。誰の目にも触れずに、部屋の布団に戻るまでがミッションよ」


 晃次は足音を殺し、旅館の裏手に回った。

 厨房の勝手口周辺からは、すでに朝食の仕込みを始めている板前たちの活気ある声と、出汁の香りが漂ってきている。

 彼らの死角となる非常階段の入り口へと滑り込み、慎重に金属の階段を上っていく。


「待って。2階の廊下の角、仲居さんが一人歩いてる」


 晃次の数メートル先を壁越しに進んでいた李理香が、パッと手を上げて制止のサインを出した。


「そのまま通り過ぎたわ。今なら行ける!」


 彼女の的確なナビゲートに従い、晃次は客室の並ぶ廊下へと出た。

 心臓の鼓動が、自分でも驚くほどうるさく耳の奥で鳴っている。もしここで誰かに見咎められれば、「早朝の散歩」という言い訳で切り抜けるしかないが、この張り詰めた空気と荷物を見られれば疑念は免れない。


 自室の前に到着し、周囲に誰もいないことを確認する。

 震える指でカードキーをセンサーにかざし、緑色のランプが点灯した瞬間に素早くドアを開けて中に滑り込んだ。


『カチャッ』


 オートロックのドアが閉まり、密室の静寂が晃次を包み込んだ。


「……間に合った」


 晃次は玄関の土間にへたり込み、深く、本当に深く息を吐き出した。


「お疲れ様! 完璧なステルスだったわよ! まだ朝の6時前。これで最初からこの部屋で寝ていたことにできるわね!」


 李理香も空中で大きく胸を撫で下ろし、こわばっていた顔をようやくほころばせた。


 晃次は立ち上がり、靴を脱いで部屋の奥へと進んだ。

 ベッドの上には、昨夜彼自身が仕込んだ、毛布とバスタオルを丸めて作ったダミーの膨らみがそのまま残っている。

 ボストンバッグから証拠の手帳を取り出し、クローゼットの奥深く、自分の荷物のさらに下へと隠した。ポケットのUSBメモリも、スーツの内ポケットへと厳重に仕舞い込む。

 そして、着ていた私服を脱ぎ捨て、旅館の浴衣に急いで腕を通した。


「よし。これで……」


 晃次がベッドの上のダミーを崩そうと手を伸ばした、まさにその瞬間だった。


『スーッ……』


 背後で、寝室と窓際の広縁を仕切る障子が、音もなく横にスライドした。


「……随分と早いお目覚めですね、上田さん。それとも、まだ『おやすみ前』かしら?」


 甘く、それでいて背筋に悪寒が走るほど冷淡な声。

 晃次の全身の血液が、一瞬にして凍りついた。


 ゆっくりと振り返る。

 そこに立っていたのは、紺色の浴衣を淀みなく着こなしたすずだった。

 彼女は、マスターキーで部屋に侵入した後、広縁の暗がりに置かれた椅子に座り、ずっと晃次が帰ってくるのを待ち構えていたのだ。

 完璧に整えられたメイク。そして、その大きな瞳には、逃げ場のない獲物を追い詰めたような、底知れない感情が宿っていた。


「な、なんでこの女が部屋の中にいるのよ!?」


 李理香が空中で息を呑み、咄嗟にすずの前に立ちはだかる。


「酒井さん……。こんな朝早くに、人の部屋で何をしているんですか」


 晃次は極限の恐怖を奥歯で噛み殺し、低い声で問い返した。


 すずは悪びれる様子もなく、広縁から寝室の中へと一歩踏み込んできた。


「深夜0時。一番大きな露天風呂で待っていたのに、あなた、一向にいらっしゃらないから。お部屋の様子を外から窺わせてもらったんです」

「……」

「布団の中にいるはずのあなたの寝息が、全く聞こえない。オートロックのドアは閉まっていましたけど……私、女将さんに『上田さんが急病かもしれない』と嘘をついて、マスターキーで中を確認させてもらったんです。……そしたら、毛布とバスタオルで作られた、お粗末なお人形さんが寝ていました」


 すずの視線が、晃次の背後にある崩れかけのダミーを捉える。


「そしてもう一つ。昨日の夕方、私が管理している秘書室の金庫のダイヤルが、ほんの数ミリだけずれていることに気がつきました。私が最後に閉めた位置とは違っていたんです」


 彼女の言葉に、晃次の心臓が嫌な音を立てた。


「常務は出張中、社長も箱根にいる。あのフロアで特権IDの予備を持ち出せる人間なんて限られている。……そして、この深夜に完璧なアリバイ工作をしてまで姿を消したあなた。点と点は、簡単につながりましたよ」


 すずは赤い唇を鋭く吊り上げ、刃物のように鋭く冷酷な光を瞳に宿して晃次を射抜いた。


「東京の本社まで、ご苦労様でした。……常務の部屋には、何か面白いものはありましたか?」


 言い逃れの余地は、完全に塞がれていた。


「この女……! どこまで嗅ぎ回ってんのよ!」


 李理香の激しい感情の波が、部屋の空気を急激に冷やし始めた。風もないのに床の間の掛け軸が不気味に揺れ、足元からゾクッとするような冷気が這い上がってくる。

 だが、晃次は視線だけでそれを鋭く制止した。

 ここでポルターガイストを起こして彼女を脅したところで、事態は何一つ解決しない。


「……僕が東京に戻ったという証拠はどこにもありませんよ。寝付けなくて、外を散歩していただけです」

「しらばっくれるのもいいですけど。私が今、このまま社長のお部屋に行って、『上田さんが深夜に旅館を抜け出し、今戻ってきました』と報告したら、どうなるでしょうね」


 すずは一歩、晃次の目の前まで歩み寄ってきた。

 その顔には、いつもの余裕ぶった態度の裏に隠された、生々しい焦燥感が張り付いていた。


「常務から、出張中の予備カードの管理は徹底するよう厳命されていました。もし本当にカードが持ち出されたことが常務にバレたら、私の管理責任が問われる。最悪、首が飛ぶだけじゃ済まないかもしれないわ」


 彼女の指先が、微かに震えているのを晃次は見逃さなかった。彼女は決して、ただのゲーム感覚でここに来たわけではない。自分のキャリアと人生が危うくなる恐怖に駆られ、それを逆転させるための一手を探しに来たのだ。


「あなたの告発で、僕も終わるかもしれませんが、あなた自身も責任を問われる。共倒れですね」


 晃次が冷たく言い放つと、すずは深く息を吸い込み、決意を固めたように晃次の浴衣の胸元を強く掴んだ。


「……だから、取引しましょう」

「取引?」

「ええ。あなたが常務の部屋に侵入して、あの人たちの『致命的な弱み』を握ってくれたのなら。あなたがそのカードを使って社長たちを失脚させれば、私の管理ミスなんて誰にも追及できなくなるわ」


 それは、自分の保身のために、上層部を道連れにしてでも生き残ろうとする、野心と執念に満ちた提案だった。


「あなたが代わりに泥を被って、あの人たちを終わらせてくれるなら。私は今日のあなたの不在を完全に揉み消してあげる。完璧な『沈黙』を提供します」


「俺の目的は、会社に蔓延る悪意を正すことです。あなたの保身に付き合う義理はない」


 晃次が冷たく突き放そうとすると、すずは掴んだ胸元の力をさらに強め、切実な光を宿した瞳で睨み上げてきた。


「いいえ、付き合ってもらいます。私の沈黙がなければ、あなたは明日にも終わる。……いつかあなたがそのカードを切る時、私にも生き残る道を用意してください。それまでは、私はあなたの完璧な『共犯者』になってあげますから」


 ギリギリの交渉。

 だが、晃次にとっても、ここで彼女に騒がれることはミッションの完全な破綻を意味する。今は彼女の保身を利用し、一時の休戦を結ぶしかなかった。


「……わかりました。今のあなたの沈黙は、買いましょう」


 晃次の言葉に、すずはホッとしたように胸元の手を離し、強張っていた表情を緩めて小さくウインクをした。


「交渉成立ですね。それじゃあ、後ほど朝食の会場で。……寝坊しないように気をつけてくださいね、共犯者さん」


 彼女は足音も立てず、襖を開けて廊下へと消えていった。


 静寂が戻った部屋の中で、晃次は大きく息を吐き出し、ベッドの端に腰を下ろした。


「……あんな女と共犯関係を結ぶなんて。いつ背中を刺されるかわからないわよ」


 李理香が空中で腕を組み、呆れたように呟いた。


「ああ。だが、これで俺たちの不在を証明する人間はいなくなった。綱渡りだが、最大の危機は切り抜けたんだ」


 窓の外を見ると、箱根の山々の稜線が白々と明るくなり始めていた。

 冷たい朝の光が、部屋の畳を少しずつ照らしていく。


「……とりあえず、朝食の会場に行こうか。この寝不足の顔を、冷たい水でごまかさないとな」


 晃次は立ち上がり、クローゼットのボストンバッグのファスナーをそっと撫でた。そして、内ポケットにあるUSBメモリの硬い感触を指先で確かめる。

 すべてをひっくり返すための証拠は、確かに彼の手の中にある。


「ええ。最高の演技で、何食わぬ顔をしてやりなさい」


 李理香の言葉に頷き、晃次は乱れた浴衣の襟を正して、洗面所へと向かった。

 蛇口をひねり、両手ですくった冷たい水を顔に勢いよく叩きつける。

 鏡に映る自分の顔を見据え、小さく、しかし深く息を吸い込んだ。

 今日から始まるのは、手に入れた武器を使って真犯人を社会的に抹殺するための、一歩も引けない戦いだ。

 晃次はタオルで顔を拭い、決意の滲む足取りで静かに部屋の扉を開けた。

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