第36話 反撃の狼煙と女性陣の結集
箱根の山奥で経験した極限の緊張感から解放された週末の朝。
上田晃次の自宅マンションのリビングには、穏やかな秋の陽光がたっぷりと差し込んでいた。
「ほら、ニョッキ。こっちだ」
晃次が手首のスナップを利かせて猫じゃらしを振ると、小さな毛玉のような子猫は目をまん丸にして、短い足でフローリングを勢いよく蹴った。
右へ左へ、アクロバティックなジャンプを見せながら羽根の軌道を追いかける。その動きは俊敏だが、どこか不器用で、着地に失敗してはコロンと転がっている。
ひとしきり暴れ回った後、ニョッキは獲物から興味を移し、リビングの窓際に四角く切り取られた日差しの真ん中へと飛び込んだ。
『にゃっ!』と前足を伸ばした瞬間、背中にぽかぽかとした温かい陽気を浴びた子猫の動きが、ピタリと止まった。
少し戸惑ったように周囲を見渡し、そのままその場にペタンと座り込む。すると、さっきまでの狩猟本能はどこへやら、ふぁぁっと大きなあくびを一つして、日だまりの中にゴロンと横たわってしまったのだ。
四肢を投げ出し、完全に弛緩しきった小さな体からは、すぐに規則正しい微かな呼吸音が漏れ始めた。
「……信じられない。遊びの途中で太陽の誘惑に完全敗北してる。この無防備さ、犯罪級よ」
天井付近を漂っていた内田李理香が、両手で口元を覆いながら震える声で囁いた。
「ああ。この日だまりの時間は、何があっても守り抜かないとな」
晃次は猫じゃらしをそっと置き、傍らのローテーブルに視線を移した。
そこには、箱根の長い夜を経てボストンバッグで持ち帰ってきた『黒い革張りの手帳の原本』と、自宅のノートパソコンに接続された『黒いUSBメモリ』が置かれている。
画面に表示されたエクセルファイルには、過去数年にわたるオリオンフーズの広告宣伝費の推移と、李理香が所属していた芸能事務所、さらに架空のダミー会社を経由して特定の口座へと還流していく資金の動きが、生々しい数字の羅列として記録されていた。
「……年間で数億円。これがすべて、社長や常務たちの裏金としてプールされていたわけだ」
晃次がマウスのスクロールを止めると、李理香の顔に暗い影が落ちた。
「そして、その金の流れに私が気付いたかもしれないというだけで、あいつらはセットの崩落を仕組んだ。……ただの『処理』として」
手帳の原本に記された無機質なインクの文字が、冷酷な事実を容赦なく突きつけている。
「これを警察に持っていけば、一発で終わるんじゃないの?」
李理香の問いに、晃次は重く首を横に振った。
「平社員の俺が突然こんなものを持ち込んでも、巨大企業と芸能事務所の顧問弁護士が総出で揉み消しにかかる。データの信憑性を疑われ、最悪の場合、俺が窃盗と情報漏洩で逆に逮捕されて終わる。確実にあいつらの逃げ道を塞ぐには、警察よりも先に『会社の内側と外側』から同時に外堀を埋めて、言い逃れできない状況を作る必要がある」
「外堀を埋めるって……どうやって?」
「俺一人じゃ無理だ。だが、今の俺たちには、会社を動かせる力を持った協力者がいる」
晃次の脳裏に、経営企画部のフロアで彼を囲む、圧倒的な能力と影響力を持った女性陣の顔が浮かんだ。
彼女たちに真実のすべてを打ち明けるわけにはいかない。幽霊の存在など証明しようがないからだ。しかし、この巨大な不正を正すための『共犯者』として、彼女たちの誇りと正義感を信じるしかなかった。
週明けの月曜日。業務終了後の午後8時。
オリオンフーズ本社内にある、セキュリティの厳重な特別会議室。役員クラスでなければ予約できないその部屋を、晃次は直属の上司である原ユキの権限を借りて押さえていた。
室内には、息を呑むような緊張感と、それぞれ異なる香水の香りが入り混じっていた。
円卓の上座には、ユキが腕を組んで目を閉じている。その隣にはメリッサがタブレット端末を開き、静かに画面を見つめていた。
さらに向かい側には、イザベラが優雅に脚を組み、その隣で千春が少し不安そうにスケッチブックを抱えている。
「……上田くん。私たちをわざわざこんな密室に集めた理由、聞かせてもらえるかしら」
ユキがゆっくりと目を開け、鋭い視線で晃次を射抜いた。
「はい。皆様の貴重なお時間をいただき、申し訳ありません」
晃次は立ち上がり、4人の顔を順番に見回した。半径5メートル以内の壁際には、李理香が息を潜めて見守っている。
「単刀直入に申し上げます。我が社の社長、および常務をはじめとする一部の役員が、広告代理店と結託して巨額の横領を行っています。そして……かつてのCMキャラクターであった内田李理香さんの死は、その不正の隠蔽のために仕組まれた殺害事件です」
その言葉が落ちた直後、会議室を満たしていた微かな空調の音すら消え去ったような、重く息苦しい沈黙が場を支配した。
「……なんですって?」
ユキの声が、微かに震える。
晃次は手元のビジネスバッグから、USBメモリのデータの一部を印刷した紙の束と、手帳の該当ページをコピーした資料を取り出し、全員の前に配った。
「これは、私が独自の調査ルートで入手した証拠の一部です。資金の還流ルートと、内田さんの『処理』に関する指示が明確に記されています」
酒井すずとの取引により不在を揉み消した箱根の夜については伏せ、あくまで外部から辿り着いた情報として説明した。
資料に目を通したメリッサの切れ長な瞳が、薄氷のように冷たく細められた。
「……架空の宣伝費。そしてペーパーカンパニーを通した資金洗浄。数字の辻褄が合いすぎていますわね。これが事実なら、単なる横領では済みませんわ」
「オー・ミオ・ディオ……。人間の命を奪っておいて、のうのうと私たちの前に顔を出していたというの?」
イザベラがサファイアの瞳に激しい怒りを滲ませ、テーブルを強く叩いた。
「許せないわ。私のロッシ社の名前が、そんな血に塗れた企業と結びつくなんて、誇りが許さない!」
「晃次くん……これ、本当なの? 会社のお偉いさんたちが、そんな悪いことしてたの?」
千春が震える声で尋ねると、晃次は静かに頷いた。
「間違いありません。ですが、一介の平社員である私がこれを告発しても、確実に握り潰されます。ですから、皆様のお力をお借りしたいのです」
晃次は深く頭を下げた。
「我が社のブランドと誇りを守り抜くために。そして、理不尽に奪われた一人の命の無念を晴らすために」
長い沈黙が流れた。
誰も口を開かない中、最初に静寂を破ったのは原ユキだった。
「……頭を上げなさい、上田くん」
その声音は静かだったが、抑えきれない怒りが刃のように研ぎ澄まされていた。
「私が心血を注いで育ててきたこの会社のブランドを、私利私欲のために汚し、あまつさえ人の命を奪うなんて。……絶対に、許しはしないわ」
ユキは手元の資料をまとめ、鋭い決断の光を瞳に宿した。
「社内の監査委員会と法務部に、私個人の強力なパイプがあるわ。この証拠を使って、社長派ではない中立の役員たちを味方につけ、内部から完全に逃げ道を塞ぐ」
「外部からの圧力は、私にお任せください」
メリッサがタブレットの画面を閉じ、毅然と微笑んだ。その笑顔の奥には、冷徹な戦略家の顔が覗いている。
「アジア市場開拓の責任者として、私には大株主や社外取締役への直接のパイプがありますわ。彼らにこの事実をリークし、役員会でのクーデターの準備を整えましょう」
「ロッシ社からのプレッシャーも必要ね」
イザベラが立ち上がり、豊かなブロンドヘアを揺らした。
「提携先として、コンプライアンス違反への重大な懸念を表明するわ。もし彼らが事実を隠蔽しようとするなら、即座に契約を破棄し、国際的なニュースにしてやる。彼らに隠れる場所なんて残さないわよ」
「私……人が死んでるなんて、怖くて、信じられない」
最後に、千春がスケッチブックを強く胸に抱きしめながら、真っ直ぐに晃次を見た。その大きな瞳には、恐怖を越えた純粋な怒りが滲んでいた。
「でも……晃次くんが作ってくれたあのお弁当みたいに、誠実に作られたものを汚す人たちは、絶対に許しちゃいけないと思う。私にできること、手伝わせて」
それぞれの武器と覚悟を手にした4人の女性たちが、晃次の前に並び立った。
「……みんな」
壁際でその光景を見守っていた李理香が、両手で口元を覆い、声を震わせた。
「私のために、これだけの人が動いてくれるなんて……。晃次、本当に……ありがとう」
(ああ。彼女たちの誇りと、君の無念。そのすべてを背負って、必ず決着をつける)
晃次は資料をクリアファイルにしまい、女性たちに向かって力強く頷いた。
「皆様、ありがとうございます。各自で外堀を埋めつつ、次回の定例役員会議の場で、一気に彼らを糾弾します。それまで、決して悟られないように動いてください」
それぞれが静かに立ち上がり、靴音を響かせて会議室を後にしていく。
晃次は手元のスマートフォンを握りしめ、冷たいガラス窓の向こうに広がる東京の夜景を睨みつけた。
眼下に広がる無数の光の粒を見下ろしながら、彼は静かに、その光を奪った者たちが座るであろう役員室の扉へと、重く鋭い視線を向けた。




