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第37話 小悪魔の暗躍と揺さぶり

 休日の午前中。

 少し開けた窓から入り込む穏やかな風が、リビングのレースのカーテンを静かに揺らしていた。

 上田晃次はソファに深く腰掛け、来週の定例役員会議に向けて集めた資料の束に目を通していた。紙が擦れる音だけが響く静寂の中、不意に奇妙な連続音が鼓膜を打った。


『ケケケッ……ケケケケッ』


 声の主は、愛猫のニョッキだ。

 ニョッキは窓ガラスのすぐ手前に2本足で立ち上がり、前足を窓枠にかけて外を凝視していた。その視線の先には、ベランダの手すりに停まってのんびりと羽繕いをしている1羽のスズメがいる。

 普段のぽてっとした愛らしさは完全に消え失せ、瞳孔を縦に細めたアンバーの瞳は、獲物を狙う野生の肉食獣そのものだ。喉の奥から小刻みに震えるような声——いわゆるクラッキングを鳴らしながら、窓ガラス越しに届かない獲物へ向けて必死に威嚇を続けている。


「……あんなに丸っこくて鈍臭いのに、いっちょ前に狩猟本能丸出しじゃない。そのギャップがたまらないわね」


 晃次の隣の空席に座る李理香が、両手で自分の頬を包み込み、身悶えしながらニョッキを見つめていた。


「ああ。ガラスがあるから絶対に捕まえられないのに、あんなに必死になってる。微笑ましいな」


 晃次が小声で返すと、やがてスズメはバサッと羽音を立てて空へと飛び去ってしまった。


『にゃうん……』


 獲物を取り逃がしたニョッキは、あからさまに肩を落とし、短い尻尾をだらんと下げて晃次の足元へと戻ってきた。そして「捕まえられなかったよ」と報告するように、晃次のふくらはぎにスリスリと頭を擦り付けてくる。


「ああっ、もう! 狩りに失敗して甘えてくるとか、計算し尽くされたあざとさよ! 私が物理ボディを持ってたら、今すぐ高級猫缶を開けて慰めてあげるのに!」


 李理香が空中でジタバタと暴れているのを横目に、晃次はニョッキの頭を優しく撫でた。


 ふと、ローテーブルに置かれたスマートフォンの画面が点灯し、時刻を知らせた。

 午前11時30分。

 休日の平穏を断ち切るように、今日はこの後、ある人物との『取引』が控えていた。


「そろそろ行くか。気は進まないが、共犯者との約束をすっぽかすわけにはいかないからな」


 晃次は立ち上がり、クローゼットから外出用のジャケットを取り出した。


 午後1時。

 都内の高級ホテル、最上階のラウンジカフェ。

 一面のガラス窓から東京の摩天楼を見渡せるその空間には、優雅なピアノの生演奏が静かに流れていた。

 案内された見晴らしの良いテーブル席で、すずが、紅茶のカップを優雅に傾けていた。休日の彼女は、オフィスでのタイトな装いとは異なる、柔らかなシフォン素材のブラウスに身を包んでいる。しかし、その首元から漂う洗練された甘い香水と、相手の思考を見透かすようなミステリアスな瞳は相変わらずだった。


「休日にわざわざありがとうございます、上田さん。お呼び立てしてしまって申し訳ありません」


 言葉とは裏腹に、彼女の表情には微塵の罪悪感も浮かんでいない。


「お気になさらず。……それで、今日はどのようなご用件でしょうか。まさか本当に、ただのお茶に誘ったわけではないですよね」


 晃次が向かいの席に座りながら尋ねると、すずはふふっと小さく笑い、テーブルの上に置かれた3段重ねのアフタヌーンティースタンドを指し示した。


「まあ、焦らないで。ここのスコーンとクロテッドクリーム、絶品なんですよ。まずは味わってみてください」


 促されるまま、晃次は温かいスコーンを手に取り、濃厚なクリームと自家製のストロベリージャムを乗せて口に運んだ。

 外側はサクッと香ばしく、中はふんわりと柔らかい。上品なバターの香りが広がり、クリームのコクとジャムの酸味が完璧なバランスで溶け合っていく。香り高いダージリンティーで流し込むと、極上の香りが鼻腔を抜けていった。


「……確かに、素晴らしい味ですね」

「でしょう? 美味しいものを食べている時は、人も少しだけ素直になれるものですから」


 すずはティーカップをソーサーに戻し、スッと真顔になった。


「単刀直入に言います。明日、常務のスケジュールに1時間ほど空白の時間があります。そのタイミングで、私が役員室に入り、彼に直接『カマ』をかけます」


 その言葉に、晃次の隣の空席に座っていた李理香が、スッと目を細めた。


「カマをかける? 具体的にはどうするおつもりで?」

「簡単なことです。日常業務の報告のついでに、『常務、金庫のテンキーのパネル部分が、不自然なほど綺麗に拭き取られていました。誰かが触った指紋の痕跡を消したように見えたのですが……念のため、中身をご確認いただいた方がよろしいかと』と吹き込むんです」


 すずの唇が、意地悪く吊り上がった。


「箱根の夜、あなたが常務室に侵入して、裏帳簿のデータや手帳を抜き取ったことは推測済みです。もし私がその報告をすれば、常務は必ずパニックになり、慌てて金庫を開けるはず。そして中身が空っぽであることに気づき……彼はどう動くでしょうね」


 彼女の狙いは明確だった。

 常務に「決定的な証拠が盗まれた」という事実を突きつけ、疑心暗鬼に陥らせること。冷静な判断力を奪い、ボロを出させるための揺さぶりだ。


「……ずいぶんと危険な橋を渡りますね。もし彼らがパニックになれば、あなた自身も予備カードの管理責任を追及されるリスクが高まるはずですが」


 晃次が鋭く指摘すると、すずの表情から余裕の笑みがスッと消え、冷ややかな、そして生々しい焦燥感が一瞬だけ顔を覗かせた。


「だからこそ、先手を打つんですよ」


 すずはテーブルの下で両手を固く組んだ。


「私が何も言わずに彼らが自ら証拠の消失に気づけば、真っ先に疑われるのは予備カードを管理している私です。でも、私の方から『誰かが触った形跡がある』と報告すれば、私の管理ミスではなく、『外部からの巧妙な侵入者』の存在に彼らの意識を誘導できる。……それに、疑心暗鬼になった彼らがどう動くか、誰に連絡を取るかを間近で監視すれば、あなたたちが彼らにトドメを刺すための有利な情報も手に入るでしょう?」


 彼女は決して、面白半分で動いているわけではない。

 自分のキャリアと人生を守るため、常務の思考を意図的に誘導し、晃次たちに一刻も早く役員たちを失脚させるよう仕向けているのだ。極限の保身と狡猾さが入り混じった、彼女なりの生存戦略だった。


「私はあなたというカードに賭けたんですから。早く彼らを終わらせて、私の安全を保障してくださいね、共犯者さん」


 隣の李理香が腕を組み、冷ややかな視線をすずに向けている。


「……承知しました。明日のその時間、僕も役員室の周辺で待機し、彼の動向を監視します」


 晃次は表情を崩さず、冷静に頷いた。彼女の保身による行動とはいえ、敵の自滅を誘うこの一手は、次回の役員会議で彼らを完全に追い詰めるための布石として、非常に有効なはずだ。


 翌日の午後2時。

 オリオンフーズ本社の最上階は、午後の日差しを受けて静寂に包まれていた。

 晃次は手元の書類の束を抱え、役員室エリアに隣接する資料室に入り、分厚い壁に背中を預けた。


「行ったわ。すずが常務室に入った」


 壁をすり抜けて様子を窺っていた李理香が、小声で報告してくる。


「よし。俺はここから動けない。中の様子は君に頼む」

「任せて。しっかりこの目に焼き付けてくるわ」


 李理香は再び壁の中へと姿を消した。


 資料室の静かな空間で、晃次は息を潜めて待ち続けた。

 数分後。すずが常務室から出てきて、カツカツと規則正しい足音を立てて秘書室へと戻っていく音が聞こえた。

 さらに数分が経過し、壁の中から、李理香が弾かれたように飛び出してきた。その顔は幽霊特有の青白さを超えて強張っているが、同時に、その口元には残酷なまでの笑みがこびりついていた。


「……どうだった」


 晃次が尋ねると、李理香は少し荒い息をつきながら話し始めた。


「見事なものだったわ。すずが出て行った後、常務はしばらく固まっていたけど、いきなり立ち上がって部屋のドアを内側から施錠したの。それから、絵画の裏のテンキーを震える指で叩いて、必死の形相で金庫を開けて……」


 李理香の言葉に熱がこもる。


「中が空っぽなのを見た瞬間、腰から砕けるように床へへたり込んでたわ。肩で息をするくらい呼吸が浅く早くなって、顔面を脂汗でぐっしょりと濡らしてて。まるで陸に打ち上げられた魚みたいだった」


「それで? 誰かに連絡を取ったか?」

「ええ。震える手でスマートフォンを取り出して、どこかに電話をかけてた。相手は間違いなく社長ね。『大変です! 例の手帳とデータが……金庫から消えました! 誰かが持ち出したに違いありません!』って、泣きそうな声で喚いてたわ」


 李理香の報告を聞き、晃次は小さく拳を握りしめた。

 作戦は完璧に的中した。証拠が奪われたと知った彼らは、もはや冷静な判断など下せない。自分たちの罪がいつ暴露されるかという恐怖に怯え、必ずお互いに連絡を取り合い、隠蔽の口裏合わせや責任のなすりつけ合いを始めるはずだ。


「その後、芸能事務所の社長にも連絡を入れてたわ。『どうなってるんだ、お前のところのタレントの処理の話まで全部漏れるぞ!』って。完全にパニック状態ね」

「見事な自滅だ。これで、あいつらは互いに疑心暗鬼になり、綻びはさらに広がる」


 晃次は手元に抱えたダミーの書類を強く握りしめた。


「ねえ、晃次」


 李理香が、スッと真顔になって彼を見つめた。


「あいつらが怯える姿を見て、少しだけ胸がすく思いだった。でも、まだ足りないわ。あいつらが私にやったこと、奪ったものの重さは、こんなものじゃない」

「わかっている。これはあくまで前哨戦だ」


 晃次は資料室の扉に手をかけ、薄暗い空間から光の差し込む廊下へと視線を向けた。

 社長、常務、そして芸能事務所の社長。

 一人の才能ある女優の未来を理不尽に奪い、自社の誇りを汚した者たち。


「次回の定例役員会議。あの場で、俺たちが集めた証拠を突きつけて、完全に逃げ道を塞ぐ。……準備はいいか、李理香ちゃん」

「ええ。最高の舞台を用意してやるわ。あいつらの、人生で一番惨めな終幕のためのね」


 晃次は静かに資料室の扉を開け、再び日常業務の顔へと切り替わった。

 廊下を踏みしめる彼の革靴の音が、静寂に包まれた最上階のフロアに、重く、そして確かな響きを残していった。

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