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第38話 役員会議の告発と予期せぬ反撃

 休日の午前中。

 晃次は、自宅近くの動物病院の待合室で、プラスチック製のキャリーケースを膝の上に抱えながら静かに順番を待っていた。

 周囲には、小型犬の甲高い鳴き声や、不安そうに飼い主の腕にすがりつく猫たちの姿がある。晃次の膝の上のケース内でも、スコティッシュフォールドの子猫であるニョッキが、見知らぬ場所の気配とツンとした消毒液の匂いに完全に萎縮し、一番奥の隅っこで小さく丸まっていた。


「はい、それじゃあ体重測りますね。うん、順調に増えてますよ」


 診察室に呼ばれ、白衣を着た優しそうな獣医師が、キャリーケースの中からおずおずと出てきた小さな毛玉を両手で持ち上げた。

 ひんやりとした硬いステンレス製の診察台に乗せられたニョッキは、普段リビングの絨毯の上で猫じゃらしを追いかけて見せるアクロバティックな姿とはまるで別人だった。小さな耳を頭にぴったりと貼り付け、短い尻尾を後ろ足の間に丸め込み、少しでも自分の存在を小さく見せようとするかのように、限界まで平べったく伏せている。


「……かわいそうに。怖くてガタガタ震えてるじゃない。早く終わらせてあげてよ」


 晃次のすぐ横の空間で、李理香が心配そうに身を乗り出している。

 今日は、ニョッキの初めてのワクチン接種の日だ。


「健康に長生きしてもらうためには避けて通れない道だ。俺もなるべく早く終わってほしいとは思ってる」


 晃次が小声で返しつつ、ニョッキの背中を指先でそっと撫でて安心させようとした、まさにその瞬間だった。


「よし、じゃあちょっとチクッとしますよー」


 獣医師が慣れた手つきでニョッキの首の後ろのたるんだ皮膚をつまみ上げ、細い注射針を素早く刺し込んだ。


『にゃぎゃああぁぁぁぁぁぁーーっ!!!』


 これまで聞いたこともないような、この世のすべての理不尽に対する抗議と悲しみが混ざり合った、裏返った絶叫が診察室の白い壁に反響した。


「おっ、元気元気。はい、終わりましたよー」


 獣医師が針を抜いた瞬間、ニョッキは弾かれたように診察台の上を滑り、晃次の胸元へと猛スピードで飛び込んできた。そして、晃次のシャツの生地に爪を立ててガッチリとしがみつき、ブルブルと全身を激しく震わせながら『にゃぅぅ……にゃぅぅ……』と、痛みを訴えるような悲痛な声で鳴き続けている。


「あああああっ! 痛かったねぇ、怖かったねぇ! よく頑張ったわね!」


 天井付近にまで飛び上がっていた李理香が、両手で頭を抱えながら急降下してきた。


「なによあの白衣の男! うちの天使になんてことするのよ! その注射器、私が奪い取ってあんたの腕に100回連続で刺してやるわ!」


 物理的な干渉ができない彼女は、空中で獣医師に向かって見えない猫パンチを凄まじいスピードで連続で繰り出している。


「八つ当たりするな。……よしよし、もう終わったぞ。帰って美味しいご飯にしようか」


 晃次がシャツにしがみつく小さな命の温もりと、驚くほど早く脈打つ心臓の鼓動を両手で優しく包み込むと、ニョッキは少しだけ落ち着きを取り戻し、晃次の腕の隙間に顔を深く埋めた。

 その無防備で純粋な温もりに触れ、晃次の胸の内に、改めて確かな感情が込み上げてくる。


(この小さな命の温もりと、隣で怒り狂っている騒がしい推しの尊厳。……俺が守り抜かなければならない、何より大切なものだ)


 週明けに控えた、会社の中枢に潜む巨大な闇との最終決戦。晃次はシャツの上の小さな毛玉を撫でながら、鋼のように硬い決意を静かに研ぎ澄ませていた。


 月曜日の午後1時。

 オリオンフーズ本社の最上階、重厚なマホガニーの扉の奥にある第1会議室。

 巨大な円卓を囲むように、社長をはじめとする全役員、そして各部署の責任者たちが重苦しい面持ちで着席していた。経営企画部からはユキとメリッサ、そしてプロジェクトの進行サポート役として晃次も同席している。


 定例の予算報告や各部署からの議題がいくつか消化され、会議が中盤に差し掛かった頃だった。


「……社長。次の議題に移る前に、皆様に共有させていただきたい重大な事項がございます」


 静寂を切り裂いたのは、社内の監査委員長を務める初老の役員だった。彼はユキの持つ強力な社内パイプによって、事前に証拠の一部を共有され、今日のこの場での「告発役」を引き受けてくれた人物だ。


「なんだね、突然」


 社長が不機嫌そうに太い眉をひそめる。


「実は今朝、監査委員会宛に、ある匿名の告発状とデータが届きました。内容が内容だけに、この場で皆様の目と耳で直接ご確認いただきたい」


 監査委員長が手元のタブレットを操作すると、会議室の前方に設置された巨大なモニターに、エクセルのスプレッドシートが映し出された。


 それは、晃次と李理香が常務室の金庫から命懸けで奪い出した『裏帳簿』のデータの一部だった。

 架空のイベント設営費やデザイン料といった名目で計上された、巨額の広告宣伝費。そして、その資金が芸能事務所といくつものダミー会社を経由し、最終的に社長と常務の個人資産と見られる関連口座へと還流していく複雑な動きが、誰の目にも明らかな形で可視化されていた。


「こ、これは……!」

「数億円規模の不正な資金移動……? 一体どういうことだ!」


 何も知らなかった他の役員たちが、次々と身を乗り出して驚愕の声を上げる。

 モニターの青白い光に照らされた社長の顔は、一瞬にして能面のように強張った。その隣に座る常務も、手元のボールペンを握りしめたまま微かに肩を震わせている。


(よし。食いついた)


 会議室の隅で進行用のタブレットを持つ晃次と、その斜め上空を漂う李理香が、息を呑んで戦況を見守る。


「このデータが事実であれば、我が社の屋台骨を揺るがす前代未聞の横領事件です。社長、および常務。この不自然な資金の還流について、明確なご説明をいただけますか」


 監査委員長の鋭く、容赦のない追及が円卓の中心へと突き刺さる。


 ユキは腕を組み、冷徹な視線で社長たちを射抜いている。メリッサもまた、手元の資料に目を落としながら、一切の感情を排した顔で次の展開を待っていた。

 逃げ場のない完璧な包囲網。

 誰の目にも、社長と常務がこの場で完全に失脚し、罪を認めるしかないように思えた。


 しかし。

 数秒の重く息苦しい沈黙の後、社長の強張っていた顔に、信じられないことに『余裕の笑み』が浮かんだのだ。


「……なるほど。監査委員長、ご苦労様です。ですが、あまりにもお粗末な話ですね」


 社長はゆっくりと革張りの椅子から立ち上がり、スーツのボタンを留め直した。


「このデータは、極めて悪質で、かつ巧妙に作られた『完全な捏造』です」

「捏造、だと……? これだけ具体的な数字と口座番号が記載されているのにか?」

「ええ。我々経営陣を失脚させるため、あるいは我が社の株価を不当に操作するために、外部の悪意ある人間が作り上げた架空のストーリーです」


 社長の隣で、先ほどまで肩を震わせていた常務も、ニヤリと口角を上げて立ち上がった。


「社長の仰る通りです。実はここ数日、私の執務室周辺で、不審な痕跡がいくつか見つかっていましてね。金庫のテンキーのパネルが不自然に拭き取られていたり、夜間に誰かがフロアをうろついていたような形跡があったのです」


 その言葉を聞き、晃次の喉の奥がカラカラに乾き、背筋をじっとりとした冷や汗が滑り落ちた。


(……すずの仕掛けた『カマ』だ)


 彼女が自身の保身のために常務へ吹き込んだ「金庫が触られた痕跡」。それが常務を疑心暗鬼に陥らせ、敵の自滅を誘うはずの楔だった。

 しかし、巨大企業の役員である彼らは、ただ怯えてパニックになっただけではなかった。その恐怖をバネにして、強大な権力と潤沢な資金源を使い、徹底的な反撃の準備を整えていたのだ。


「不審な侵入者の痕跡に気づいた私は、即座に探偵と専門業者を動かし、過去数日間のビルの周辺環境や、役員たちに近づいた人間の動向を徹底的に洗い直しました。……すると、驚くべき事実が浮かび上がってきたのです」


 常務はスーツの内ポケットから数枚のカラー写真を取り出し、見せつけるようにテーブルの中央へ放り投げた。


「この捏造データを作り上げ、我々を陥れようとしている『企業スパイ』。……それは、今この部屋の中にいます」


 会議室を満たしていたどよめきが、まるで潮を引くように一瞬にして静まり返った。

 常務のねっとりとした、蛇のような視線が、円卓の端から一気に最後尾に立つ1人の男へと向けられた。


「経営企画部、上田晃次くん」


 名指しされた瞬間、ユキの表情がわずかに険しくなり、メリッサの細い眉がピクリと動いた。


「……私、ですか」


 晃次は李理香の教え通り、表情の筋肉を1ミリも動かさず、低い声で応じた。


「しらばっくれても無駄だよ、上田くん」


 常務は薄ら笑いを浮かべながら、テーブルの上の写真を指差した。


「先週の金曜日。君は社長主催の慰安旅行で、箱根の旅館に宿泊していたはずだ。君は部屋の布団に細工をして朝まで寝ているように偽装していたが……近隣のタクシー会社の配車記録を洗ったところ、午前0時過ぎに旅館の裏口から小田原駅へ向かった客がいた。そして、午前2時過ぎの東京駅の防犯カメラに、深夜の急行列車から降りてきた君によく似た男が映っている」


(……タクシーの記録と、深夜の急行列車の防犯カメラ映像まで調べ上げたのか)


 晃次が完璧に消し去ったはずの物理的な足跡。だが、常務は疑念の対象となった彼個人に狙いを絞り、執念深い絨毯爆撃の調査で『不在の客観的事実』を力技で掘り起こしてきたのだ。


「そして、ここからが本題だ」


 常務の声が、会議室全体に響き渡るように一段と大きくなった。


「同じ金曜日の、深夜2時半。……我が社の役員エリアの防犯センサーが、わずか数秒間だけ不自然にバイパスされた痕跡が、システムの奥深くのログに残っていた。物理的なドングルを用いた、極めて専門的な手口でね」


 その強固な状況証拠の提示に、会議室が再び騒然となった。


「深夜の2時半に、箱根にいるはずの社員が東京の本社に……!?」

「まさか、彼が本当に外部のスパイを……」


 役員たちの疑念の目が、監査委員長から一転して晃次へと突き刺さる。


「箱根の旅館を抜け出し、深夜の本社に潜入して機密情報を探り回る。……君の行動は、企業スパイそのものだ」


 社長が、冷酷な目で晃次を見下ろす。


「君が外部の競合他社、あるいは反社会的な組織と結託し、この捏造データを作り上げて我々を脅迫しようとしている。……そう考えるのが、最も自然な論理ではないかね?」


 常務が強引に繋ぎ合わせた状況証拠によって、晃次はたった数分の間に「会社を陥れる犯罪者」として糾弾されている。


「嘘よ……! なんでこんなことに!」


 頭上の李理香が、両手で頭を抱えながら空中で激しく身をよじっている。


「何か、反論はあるかね? 上田くん」


 常務の威圧的な問いかけが、重く圧し掛かってくる。

 ここで「裏帳簿は本物だ」と主張しても、不法侵入とシステムへのクラッキングの事実を盾に「スパイの捏造」として完全に握り潰されてしまう。


 社長の冷酷な視線が、晃次の逃げ場を完全に塞ごうと会議室を睨み据える。

 晃次は手元のタブレットの縁が食い込むほど強く握りしめ、眼前の巨大な悪意を、一切の瞬きをせずに真っ直ぐに睨み返した。

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