第39話 四面楚歌と偽りの取引
月曜日の午後。オリオンフーズ本社の第1会議室。
上田晃次は、重苦しい沈黙の中で、目の前に座る社長と常務の冷酷な視線を真っ直ぐに睨み返していた。
数分前の形勢は完全に逆転し、今や彼自身が「会社を陥れる企業スパイ」としてのレッテルを貼られている。
「さて、上田くん。君も決して愚かな人間ではないはずだ。今の自分の立場がどういうものか、正確に理解しているね?」
常務の威圧的で、底意地の悪い声が円卓の中心から響いた。
晃次は表情の筋肉を硬直させ、沈黙を保つ。隣の空間で、内田李理香がギリッと歯を食いしばっているのが気配でわかった。
「……警察に不法侵入と窃盗未遂で通報すれば、君の人生は終わる。だが、我々としても、我が社の社員からそのような不祥事が出るのは、ブランドイメージの観点からも極力避けたいのだよ」
常務は椅子の背もたれに深く寄りかかり、余裕の笑みを浮かべた。
「そこで、社長とも相談した結果、寛大な措置をとることにした。……君が今持っている、その捏造された裏帳簿のデータ。そして、君が持ち出したであろう私の『個人的なメモ帳』の原本。それらすべてを我々に引き渡すなら、今回の件は一切不問に付そう」
「不問……ですか」
晃次が低く応じると、社長が鷹揚に頷いた。
「ああ。警察への通報は見送り、君には『一身上の都合』による自主退職という形で穏便に身を引いてもらう。退職金も規定通り支払おうじゃないか。君にとっても、悪い話ではないはずだ」
それは、あまりにも虫のいい偽りの取引だった。
証拠をすべて隠滅し、厄介な告発者を会社から安全に追い出す。それが完了した暁には、彼らが約束を守る保証などどこにもない。自主退職させた後で、別の口実を作って社会的制裁を加えることなど、この権力者たちには容易いことだ。
「お待ちください、社長!」
スッと立ち上がったのは、原ユキだった。その声には、彼女らしからぬ焦燥と、確かな怒りが滲んでいる。
「上田くんの不法侵入の事実があったとしても、あのデータに記載された資金の還流ルートは極めて具体的です! 万が一にも社内で横領が行われているのだとすれば、彼をスパイとして切り捨てる前に、監査委員会による徹底的な内部調査を行うべきです。私たちは別室で待機を命じられるようですが……決して、大人しく黙っているつもりはありません。法務部および監査委員会への正式な異議申し立ての準備に直ちに入らせていただきます」
「ええ。私も原課長に完全に同意しますわ」
メリッサ・チャンも立ち上がり、涼やかながらも決して引かない意志を込めた瞳で役員たちを見据えた。
「もしこのまま臭いものに蓋をして彼を解雇するおつもりなら、海外の提携先や大株主、社外取締役に対しても、私の権限で即座に現状を報告させていただきます。我が社のガバナンスが機能していないと、自ら証明するような真似は看過できませんわ」
二人の女性が放つ鋭い追及と強烈な牽制に、会議室の空気がビリッと震えた。
彼女たちは自らの地位やキャリアを懸けて、巨大な権力に真っ向から牙を剥いているのだ。
だが、巨大組織のトップの論理は、その程度の正論と抵抗を物理的な力で容易く踏み躙る。
「原課長、メリッサ室長。君たちは少し、このスパイに肩入れしすぎているようだな」
社長が低い声で威圧すると、常務がすかさず言葉を継いだ。
「君たちが何を準備しようと勝手だが、彼が不法侵入を行ったという強固な状況証拠がある以上、調査が完了するまでは君たちも『重要参考人』だ。……社内外への通信および接触は、全面的に制限させてもらう。これは業務命令だ」
社長の言葉と同時に、会議室の後方の扉が開き、あらかじめ手配されていたであろう数名の屈強な警備員が中へ入ってきた。
ユキとメリッサの顔に、明確な無念と焦りの色が浮かぶ。彼女たちがどれほど優秀で強大なコネクションを持っていようとも、明確な状況証拠を逆手に取られ、通信手段を絶たれたこの隔離状況下では、物理的な壁を突破することはできなかった。
「上田くん……!」
ユキが唇を噛み締め、警備員に促されながら晃次を振り返る。
「心配いりません、原課長、メリッサさん。……ご迷惑をおかけしました」
晃次は短く一礼し、自ら警備員たちに挟まれるようにして会議室を出て行く彼女たちを見送った。
これで、社内での味方は完全に分断された。
会議室に残されたのは、社長、常務、そして晃次の3人だけとなった。
「さて。邪魔者はいなくなった。取引の条件は提示した通りだ」
常務が身を乗り出し、冷酷な眼差しで晃次を捉える。
「今日の午後8時。品川にある我が社の第2アーカイブ倉庫だ。あそこなら人目につかず、ゆっくりと『引き継ぎ』ができる。原本と、コピーしたすべてのデータが入ったメディアを1人で持ってこい。……逃げたり、警察やマスコミに駆け込もうとする素振りを見せれば、君はその瞬間に犯罪者として逮捕されることになる。社用の端末はここに置いていきたまえ」
品川の古いアーカイブ倉庫。紙の資料が山積みになっているだけの、夜間は誰も寄り付かない場所だ。
そこで証拠を渡せば、間違いなく口封じのために何をされるかわからない。
(だが、ここで拒否すれば、すぐに警備員を呼ばれて力尽くで所持品を調べられる。証拠を奪われれば、完全に詰みだ)
晃次は一瞬の沈黙の後、小さく息を吐き、無表情を作って頷いた。
「……承知いたしました。午後8時、品川の倉庫ですね」
「賢明な判断だよ、上田くん。念のため、移動はこちらで手配した車を使ってもらおうか。道中、君が『迷子』にならないようにな。……では、夜に会おう」
常務の口元が、醜悪に歪んだ。
午後7時15分。
品川方面へと向かう、黒塗りの社用車の後部座席。
夕方から降り始めた冷たい秋雨が、街のネオンを滲ませながら窓ガラスを伝い落ちている。規則正しく動くワイパーの音が、車内に重く響いていた。
晃次はシートに深く腰掛け、無言のまま窓の外を見つめていた。
彼のすぐ隣には、常務が手配したであろう筋骨隆々とした無表情の男が、監視役としてぴったりと張り付いている。男の分厚い肩幅と、ピリピリとした威圧感が、車内の空気を息苦しいものにしていた。少しでも妙な動きを見せれば、即座に力でねじ伏せられるだろう。
監視の目の前で声を出すわけにはいかず、晃次はただジッと前を向いていた。
(……息が詰まるな。まるで、巨大な獣の檻に放り込まれた小動物の気分だ)
ふと、晃次の脳裏に、先週末の動物病院の待合室での出来事が蘇ってきた。
ワクチン接種を終え、キャリーケースの中に収まっていた愛猫のニョッキ。
初めての外出と注射のストレスで不機嫌そうに丸まっていた時、隣の席から『ハッ、ハッ、ハッ』という荒い息遣いと、床を擦るような重い爪の音が聞こえてきたのだ。
視線を向けると、そこには飼い主に連れられた大型のゴールデンレトリバーが座っていた。その犬は、足元に置かれた晃次のキャリーケースに興味を持ったのか、黒く湿った大きな鼻先を、プラスチック製の網目にぐいっと押し付けてきた。
『フンフンッ!』という犬の力強い鼻息がケース内に吹き込んだ瞬間。
ニョッキは背中の柔らかい毛を逆立てて1回り大きく膨らみ、網目に向かって小さな口を限界まで開けた。
『シャァァァァッ!!』
それは、己の数倍はあろうかという巨大な獣に対する、勇敢で立派な威嚇だった。
しかし、ゴールデンレトリバーは全く意に介さず、嬉しそうに『ワンッ!』と短く、野太い声で吠え返した。
その一鳴きを聞いた途端、ニョッキの勇敢な虚勢は一瞬にして崩れ去った。
逆立っていた毛はペタンと元に戻り、瞬時にケースの最奥へと後ずさる。そして、底に敷いてあったお気に入りのタオルケットの下に猛スピードで頭から突っ込み、頭隠して尻隠さずの「ヤドカリ状態」になってブルブルと小刻みに震え始めたのだ。
『……っ! なによその強がりからの即落ち! 天才的な可愛さなんですけど!』
横の空間に浮かんでいた李理香が、両手で口を覆って必死に叫び声を殺し、『震えるお尻が愛おしすぎて、今すぐあの犬をどかして私がケースごと抱きしめたい!』と悶絶していたっけな。
(今の俺も、あいつらという巨大な獣の前に引きずり出された、震える小動物と同じだ。……だが、タオルケットの下に隠れてやり過ごすわけにはいかないんだ)
「晃次、あんた正気!? あんなの罠に決まってるじゃない!」
助手席の背もたれをすり抜けるようにして、半透明の李理香が晃次の顔のすぐ近くに浮かび上がり、声を震わせていた。隣の監視役の男には、彼女の姿は見えていない。
「自主退職で済ませるわけないわ! あの倉庫で証拠を取り上げられたら、あんた絶対に無事じゃ済まない! 警察に通報するか、あの女たちに連絡を取るべきよ!」
晃次は男に気付かれないよう、極小の囁き声で、口をほとんど動かさずに返した。
「ダメだ……。社用のスマホは没収されたし、個人の端末も、今は……通信履歴を監視されてるかもしれない。それに、警察に行っても……常務が揃えた不法侵入の証拠を出されれば、俺が先に捕まる。そうなれば……裏帳簿のデータは、ただの『窃盗犯の捏造』として闇に葬られる……ッ」
言い淀み、かすかに震える声に、晃次の生々しい焦りと恐怖が滲み出ている。
ポケットの中にある冷たい金属の塊――裏帳簿のデータが入ったUSBメモリを、スラックスの上から強く握りしめた。手帳の原本はすでに安全な場所に隠しているが、このデータだけでも彼らを追い詰めるには十分なはずだ。
「でも、1人でこんな男たちの中に放り込まれるなんて……!」
「証拠が……俺の手元にあるうちは、奴らも迂闊には動けない。倉庫という密室で、奴らが証拠を受け取る瞬間に生じる、わずかな隙。……そこを突いて、交渉の主導権を奪い返す。1か八かの勝負だ」
晃次の声に、恐怖を押し殺した必死の覚悟が宿っていた。
もしここで逃げれば、李理香の命を奪った者たちは永遠に裁かれることなく、ぬくぬくと権力の座に居座り続ける。それだけは、絶対に許すわけにはいかないのだ。
「……あんたがそこまで言うなら、私も覚悟を決めるわ」
李理香の半透明の瞳から、不安の揺らぎが消えた。
「でも、絶対に無理はしないで。危なくなったら、私がポルターガイストで目くらましを起こすから、その隙に全力で逃げるのよ」
「ああ……頼りにしてる」
やがて車は、人気のない品川の倉庫街へと入っていった。薄暗い街灯が、巨大なシャッターやコンクリートの壁をまばらに照らし出している。
黒塗りの車が目的地の古い第2アーカイブ倉庫の前に停まった。
隣の監視役の男がドアを開け、無言で降りるように顎でしゃくる。
晃次は車を降り、冷たい雨粒を顔に受けながら、大きく、そして長く息を吐き出した。
見上げるほど高いトタンの壁と、錆びついた巨大な鉄扉。周囲には人っ子1人おらず、雨音だけが不気味に響いている。
ポケットの中のUSBメモリを強く握りしめ、晃次は逃げ場のない鉄扉に向かって、静かに足を踏み出した。




