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第40話 深夜のアーカイブ室と刺客

 冷たい秋雨が、容赦なくアスファルトを打ち据えていた。

 品川の倉庫街に停車した黒塗りの社用車から、上田晃次は背中を小突かれるようにして外へと押し出された。


「歩け」


 すぐ背後には、本社からずっと同乗していた監視役の男が張り付いている。男の分厚い胸板と、丸太のように太い腕が放つ威圧感が、雨の冷たさとは別の悪寒となって晃次の背筋を這い上がってくる。


 薄暗い街灯だけが頼りの無機質な道を進む。雨粒がジャケットの肩を濡らし、肌寒い空気が急速に体温を奪っていく。周囲には遠くの波の音と、雨がトタン屋根を叩く単調な音しか聞こえない。


「晃次……気をしっかり持って。私がついてるから」


 隣の空間に浮かぶ内田李理香の幽霊も、降りしきる雨をすり抜けながら、不安そうに震える声で囁いてくる。


「……ああ」


 晃次はポケットの奥にあるUSBメモリを強く握りしめながら、雨音に紛れるほどの小さな声で応え、深く息を吐いた。


 目の前にそびえ立つ、第2アーカイブ倉庫の巨大な鉄扉。


「開けろ」と背後の男に顎でしゃくられ、晃次は油の切れた重い取っ手に手をかけ、力を込めてゆっくりと押し開けた。


『ギギギギ……ッ』


 錆びついた耳障りな金属音が響き、倉庫の中に足を踏み入れる。

 内部は薄暗く、埃と古い紙の独特のカビ臭い匂いが充満していた。天井の高い空間には、過去数十年にわたる会社の経理書類や稟議書を収めた巨大なスチール製の棚が、まるで迷路のようにいくつも並んでいる。


「……よく来たね、上田くん」

 倉庫の奥、わずかに照明が点灯している広けたスペースから、声が響いた。

 常務だった。彼は仕立ての良いスーツの上にトレンチコートを羽織り、薄ら笑いを浮かべて立っていた。


「……要求通り、1人で来ました。データはこの中にあります」


 晃次は恐怖で震えそうになる膝に必死に力を込め、ポケットから黒いUSBメモリを取り出して常務の視界に入るように掲げた。


「賢明な判断だ。さあ、それをこちらに渡しなさい。そうすれば、君の不法侵入と窃盗未遂の件は社長に掛け合って、穏便に済ませてやろう」


 常務が一歩前に出た。


 だが、晃次はその場で立ち止まり、メモリを持った手を胸元に引き寄せた。

 ここで大人しく渡せば、確実に口封じのために何をされるかわからない。少しでも相手の動揺を誘い、逃げるための隙を作るか、時間を稼がなければならなかった。


「そ、その前に……一つだけ、お聞きしたい」


 強がろうとしても、声の端が震え、わずかに裏返ってしまう。


「このデータを渡せば、本当に見逃してくれるという保証は……どこにあるんですか? 金庫の手帳には……『内田の件、処理完了。警察は事故と断定』と、はっきり書かれていた」


 その言葉を突きつけた瞬間、常務の顔から薄ら笑いがスッと消えた。


「あんな生々しい隠蔽の記録を残しているあなたが……僕の口約束なんか、信じるはずがない」

「……」

「もし……ここで僕に手を出せば、外部のサーバーにセットしてある裏帳簿のデータが……自動で、警察とマスコミに送信されるように……」


 ハッタリだった。そんなシステムを組む時間も技術も、晃次にはない。

 だが、その言葉を聞いても、常務の表情には一切の焦りも生じなかった。

 彼はフッと鼻で笑い、忌々しそうに首を横に振った。


「……外部サーバー? 自動送信? 君のような総務出身の素人が、そんな映画みたいな真似をできるわけがない。ハッタリも大概にしたまえ。……本当に、君のような末端の社員とは話が通じないな。わざわざ穏便に済ませてやろうという私の慈悲を無にするとは」


 常務が右手を軽く上げた、その瞬間だった。


『ガコンッ!』


 晃次のすぐ後ろで、背後に張り付いていた監視役の男が、倉庫の鉄扉を内側から重い音を立てて施錠した。


「なっ……!?」


 驚いて振り返った晃次の視界の端で、スチール棚の陰から、黒い作業着姿の別の男たちがさらに2人、音もなく姿を現した。

 いずれも格闘技の経験者特有の、岩のように強固な肉体を持つ男たちだ。彼らは言葉を一切発さず、無機質な視線を晃次に向けて、じりじりと距離を詰めてきた。


「ちょっ……! 晃次、罠よ! 逃げて!!」


 李理香の絶叫が倉庫に響く。

 だが、退路はすでに塞がれている。


「その男から、持っているものをすべて奪い取れ。……多少骨が折れても構わん。明日の朝、階段から足を踏み外して大怪我をしたという『不幸な事故』の筋書きで十分だからな」


 常務の冷酷な指示が飛んだ瞬間、背後にいた監視役の男が猛烈なスピードで晃次の腕を捻り上げにかかった。


「くっ……!」


 晃次はとっさに身をかわそうとしたが、プロの暴力の前には素人の反応など無意味だった。

 男の巨大な拳が、晃次の腹部にめり込む。


『ドゴォォッ!』


「ガハッ……!?」


 肺の中の空気が一瞬で絞り出され、胃袋が焼け焦げるような激痛が走った。


「あぐっ……げほっ……!」


 晃次はくの字に体を折り曲げ、カビ臭いコンクリートの床に激しく叩きつけられた。口の中に、鉄錆のような血の味が広がる。


「晃次ッ!! やめなさい! やめろォォォォッ!!」


 李理香が空中で狂乱し、男たちに飛びかかろうとするが、彼女の霊体は虚しく男たちの体をすり抜けてしまう。

 別の男が、床に倒れ込んだ晃次の胸ぐらを掴んで強引に引きずり起こした。


「おい、さっきのUSBメモリを出せ。まだ痛い目を見たいのか」


 男の低く脅すような声。晃次は口の端から血を滴らせながらも、ポケットの中のUSBメモリを絶対に渡すまいと、必死に体を丸めて抵抗した。


「……わ、たすか……こんなもの……。あいつらの、汚い……」

「往生際が悪いな。やれ」


 常務の冷たい声とともに、今度は顔面に硬い膝蹴りが飛んできた。


『ゴキッ』という鈍い音とともに、視界が激しく点滅し、脳が揺れる。晃次の体は再び吹き飛ばされ、近くのスチール棚に激突した。


 書類の束がバラバラと頭上から降り注ぐ。

 全身の骨が軋み、呼吸をするだけで胸に刺すような激痛が走る。


「……私の晃次に、これ以上触るなァァァァァッ!!!」


 その時、李理香の奥底から、理屈を超えたドス黒い感情の奔流が爆発的に溢れ出した。


『ビキィィィィッ!!』


 倉庫内の古い水銀灯が一斉に凄まじい音を立ててスパークし、ガラスの破片が雨のように降り注いだ。

 さらに、男たちの周囲を取り囲むように設置されていた高さ3メートルを超えるスチール棚が、目に見えない巨大な力で根元からねじ曲げられ、空間そのものが悲鳴を上げるような金属音を立てて『ガシャァァァァン!!』と将棋倒しに崩れ落ち始めたのだ。


「うおっ!?」

「な、なんだ!? 地震か!?」


 大量のバインダーと分厚い書類の束が男たちの頭上に降り注ぎ、彼らは慌てて頭を抱えて後ずさった。


「……そこよ! 今のうちに立って、晃次!」


 李理香の叫びに呼応し、晃次は全身の激痛に耐えながら、なんとか立ち上がろうと血まみれの手を床についた。


「怯むな! ただの古い棚が倒れただけだ! 早くその男を押さえろ!」


 常務のヒステリックな怒声が飛ぶ。

 暴力のプロである男たちは、一瞬の混乱からすぐに立ち直り、倒れた棚を乗り越えて再び晃次へと距離を詰めてきた。


「どうして……! なんで実体がある人間を止められないのよ……っ!」


 李理香が必死にポルターガイストで空の段ボール箱やパイプ椅子を男たちに投げつけるが、実体を持たない幽霊の力では、決定的な物理ダメージを与えることはできない。男たちは飛んでくる備品を腕で弾き飛ばし、薄気味悪さに舌打ちをしながらも、確実に晃次を追い詰めていく。


 口から血を滴らせ、壁際に追い詰められた晃次の視界は、すでに真っ赤に霞んでいた。

 体はもう動かない。折れた肋骨が肺を圧迫しているのか、息を吸うこともままならない。

 男の巨大な拳が、トドメを刺すために高く振り上げられた。


「……晃次!!」


 李理香の悲痛な絶叫が、倉庫の天井にこだまする。

 彼女の半透明の瞳からこぼれ落ちたのは、自分の無力さを呪う、底知れない絶望の涙だった。

 同時に、その瞳の奥で、決して彼を死なせはしないという強烈な覚悟の炎が燃え上がる。


(もう、これ以上彼を傷つけさせない。……私が、彼を守る)


 男の拳が振り下ろされるコンマ数秒の世界。

 李理香は自らの霊体の輪郭を崩すように強く念じ、血まみれで倒れ伏す晃次の背中へと、一直線に飛び込んでいった。

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