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第41話 絶体絶命の危機と決死のダイブ

 数日前の休日の昼下がり。

 都内にある完全予約制の高級マレーシア料理店。複数のスパイスとココナッツミルクの甘い香りが漂う静かな個室で、上田晃次はアジア戦略室長のメリッサ・チャンと向かい合って座っていた。


「休日にわざわざ付き合っていただいて、ありがとう。ここのバクテーとラクサは、日本で一番クアラルンプールの味に近いのよ」


 メリッサは豊かな黒髪を緩くまとめ、上質なシルクのブラウス姿で優雅に微笑んだ。


「いえ。俺の方こそ、本場の味を勉強する絶好の機会をいただき感謝しています」


 晃次が目の前の土鍋でグツグツと煮え立つバクテーのスープを口に運ぶ。八角やシナモン、クローブといった複雑な漢方スパイスの香りが鼻腔を抜け、じっくりと煮込まれた豚肉の濃厚なエキスが五臓六腑に深く染み渡っていく。

 隣の空席では、同行している内田李理香の幽霊が、エアでスープを啜る真似をしながら「この八角の香り、強烈だけど癖になるわね!」と騒いでいる。


 メリッサはグラスの温かいジャスミンティーを傾け、ふと、真剣な眼差しを晃次へ向けた。


「上田さん。あなたがあのコンペで見せてくれた情熱、私は本当に感謝しているの。私たちの仕事は、単なる商品の輸出じゃない。現地の食文化と向き合い、文化の架け橋を作るための誠実なものづくりよ。……私は、あなたというパートナーとなら、それができると信じているわ」


 彼女の涼しげな瞳の奥に宿る、プロジェクトに対する確かな矜持と、晃次への強い信頼。その言葉は、事勿れ主義だったかつての自分には決して向けられることのなかった、プロフェッショナルとしての重みがあった。


「……必ず、成功させましょう。メリッサさんの期待は裏切りません」


 晃次が真っ直ぐに見返して答えると、メリッサはふわりと花が咲くように笑い、テーブル越しに彼の手をそっと握った。


「ええ。私たちの未来のために、ね」


 その瞬間、横で李理香が「ちょっと! 隙あらば手ェ握るんじゃないわよ!」と激しく抗議してテーブルの上の取り皿が微かにカタカタと揺れたが、晃次はメリッサから目を逸らさなかった。


 あの時、彼女が語った仕事への誇り。それを利用して私腹を肥やす役員たちの悪行を、絶対に許すわけにはいかない。

 その決意は今、品川の暗く冷たい第2アーカイブ倉庫のコンクリートの床の上で、容赦ない物理的な暴力によって踏み躙られようとしていた。


「がはっ……!」


 みぞおちに深々とめり込んだ暴漢の蹴りに、晃次から悲鳴にも似た呻き声が漏れた。

 口の中に溜まった鉄錆の味を床に吐き出す。視界は赤く霞み、呼吸をするたびに焼け焦げるような激痛が胸の奥で暴れ回り、意識が白く遠のきそうになる。


「まだそのポケットから手を離さないのか。馬鹿な男だ」


 頭上から、常務の無機質で冷酷な声が降ってくる。


「君のつまらない意地のおかげで、これ以上痛い思いをすることはない。さっさとそのUSBメモリを出しなさい」

「……誰が……渡すか……」


 晃次は血にまみれた手で、スラックスのポケットを外から強く、握りしめた。


「あいつらの……真剣な仕事や誇りを……あんたみたいなクズに、これ以上汚されてたまるか……っ」


 この小さな金属の塊の中には、不当に命を奪われた李理香の無念を晴らすための、唯一の決定的な証拠が入っているのだ。ここで手放せば、彼女の尊厳は永遠に深い闇の中へ葬り去られてしまう。


 同じ頃、オリオンフーズ本社の第1会議室。

 外部との通信を絶たれた名目で軟禁状態に置かれていたユキとメリッサは、ただ黙って事態を見過ごしてはいなかった。


「……通信は制限されていると言いましたが、私たちの外部へのアクセスを完全に遮断することなど不可能ですわ」


 メリッサが自身の腕時計型ウェアラブル端末を操作し、マレーシア本国の親会社ルートを経由して、本社の強固なファイアウォールの裏側へと強引に接続を試みていた。


「繋がったわ。まずは私の顧問弁護士と、大株主である投資ファンドのトップに緊急事態の通報を入れました。……原課長、社内システムのアクセス権限をお渡しします」

「ありがとう、メリッサ」


 ユキは自分の予備のスマートフォンを取り出し、画面を猛烈なスピードでタップし始めた。


「彼が連行された『役員専用の黒塗り車』の車両番号は記憶しているわ。……ビンゴよ。車両管理システムの裏口から、当該車両のドライブレコーダーとGPSの現在地データを強制的に引っこ抜いたわ。品川の第2アーカイブ倉庫を指している。今すぐ向かうわよ!」


 バンッ、と会議室の扉が開き、廊下に配置されていた警備員たちが「困ります、業務命令で……!」と制止しようとするが、そこに立ちはだかったのは、いつの間にかフロアに上がってきていたイザベラだった。


「道を開けなさい。私の大切なパートナーに指1本でも触れてみろ、ロッシ社の名にかけて、あなたたちを国際的な大問題にしてやるわ!」


 圧倒的な威圧感と怒りを放つイタリアの令嬢の前に、警備員たちは完全に気圧され、道を譲るしかなかった。


「行くわよ、千春さんも!」

「うん! 晃次くんを助けなきゃ!」


 4人の女性たちは一斉にヒールを鳴らし、夜の東京へと急いだ。

 しかし、品川の倉庫まではまだ距離がある。彼女たちと警察が到着するまでの間、彼が持ちこたえられる保証はどこにもなかった。


 品川のアーカイブ倉庫では、晃次の意識が急速に薄れつつあった。


「もういい。指ごとへし折って、無理やり奪い取れ」


 常務の感情の欠落した命令が響く。

 大柄な男が晃次の手首を革靴で力任せに踏みつけ、容赦なく体重をかけた。

『メキッ』という鈍い音が鳴り、晃次の口から音にならない絶叫が漏れる。


「やめてェェェェェッ!!」


 李理香の悲痛な叫び声が、倉庫内の空気をビリビリと震わせた。

 彼女の半透明の瞳から、とめどなく絶望の涙が溢れ出ている。

 自分を助けるために、自分を信じてくれたただのサラリーマンが、今、目の前で理不尽に命の危機に瀕している。


(私が……私がこんなことに巻き込んだせいで!)


 男が、血まみれの晃次の指をポケットから1本ずつ剥がそうとする。

 晃次の意識はプツリと途切れかけ、焦点の合わない目が、虚空を漂いながら泣き叫んでいる李理香の姿を捉えた。


「……りりか、ちゃん……」


 かすかな唇の動き。


「……ごめん……な……約束、守れなくて……」


 その不器用で、自分への思いやりに満ちた彼の掠れた声が、李理香の魂の奥底にある、禁断の扉をこじ開けた。


(もう、彼をこれ以上傷つけさせない……!)


 このままでは、彼は殺される。自分に触れられないこの手がもどかしい。もし自分が生身の人間であったなら、今すぐあの男たちを突き飛ばして、彼を抱きしめてやれるのに。

 李理香の霊体が、チリチリと音を立てて激しく瞬き始めた。

 もし生きている人間の意識の奥底へ無理やり入り込めば、自分の魂がどうなってしまうか分からない。自我が弾け飛び、二度と元の姿に戻れなくなるかもしれないという本能的な恐怖が、全身の輪郭を揺さぶっている。

 だが、李理香に迷いは1ミリもなかった。


「……私の、大事な男に、触るなァァァッ!!」


 李理香は両手を広げ、自らの半透明の体を崩すようにして、床に倒れ伏す晃次の背中へと一直線にダイブした。


『ドォォォォンッ!!』


 目に見えない凄まじい衝撃波が倉庫内に吹き荒れ、晃次を押さえつけていた男たちが弾き飛ばされるように後ずさる。


「な、なんだ!?」


 床に倒れていた晃次の身体が、ビクンッと大きく跳ねた。

 薄れかけていた彼の視界が、瞬時に鮮烈な光と圧倒的な熱量によって塗り替えられていく。全身の細胞に、自分以外の強烈な意思とエネルギーが奔流となって流れ込んでくるのがわかった。

 痛みが遠のき、代わりに、腹の底から湧き上がるような圧倒的な怒りと、研ぎ澄まされた冷徹な支配力が、彼の神経を完全にジャックしていく。


 床に倒れていた晃次の体が、ゆっくりと、不自然なほど滑らかに立ち上がった。

 血に染まった前髪の奥で開かれたその瞳は、先ほどまでの泥臭いサラリーマンのそれではない。

 冷たく、誇り高く、そして圧倒的なオーラを放つ、1人の『大女優』の目をしていた。

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