第42話 憑依発動と大女優の帰還
数週間前の、よく晴れた休日のことだった。
上田晃次は、新宿にある巨大な画材専門店の通路で、何十種類ものアクリル絵の具が並んだ棚を前に立ち尽くしていた。
「晃次くん、こっち! この色、すごくいいと思わない?」
商品開発部のデザイナー、横山千春が、小さなチューブを手に持って無邪気に振り返る。彼女のふんわりとしたリネン素材のワンピースが、画材特有の油とインクの匂いが漂う空間でふわりと揺れた。
休日の朝、彼女から突然「新しいパッケージデザインのインスピレーションを探すのに付き合ってほしい」と呼び出されたのだ。
「……綺麗な色だな。ただの緑じゃなくて、少しだけ深みがある」
晃次が素直な感想を述べると、千春は満面の笑みを浮かべ、パーソナルスペースなどお構いなしにグッと距離を詰めてきた。彼女の柔らかな髪が晃次の肩に触れ、甘い石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。
「でしょ? アジア市場向けのパッケージには、現地の植物の生命力を感じるような、嘘のない色を使いたいの」
千春はチューブを見つめたまま、ふと真剣なトーンで言葉を継いだ。
「晃次くんの作るお弁当って、いつも色がすごく綺麗だよね。食べてくれる人を幸せにしたいっていう、真っ直ぐな気持ちが色に表れてる。……私ね、そういう『誠実なものづくり』が好きなの。見栄えだけ良くして中身をごまかすような商品じゃなくて、手にとった人が本当に笑顔になれるような、正直なデザインをしたいんだ」
彼女の丸く大きな瞳の奥には、クリエイターとしての揺るぎない誇りと純粋な情熱が宿っていた。
会社という組織の中で、利益や効率ばかりが優先されがちな現代において、彼女のその真っ直ぐな姿勢はひどく眩しく見えた。
『ちょっと! なに休日に2人で画材なんて見てんのよ! 画材屋デートなんて上級者すぎるでしょ! 離れなさいよ!』
背後の空中で内田李理香の幽霊がプンスカと暴れていたが、晃次はその時、千春の言葉に確かな勇気をもらっていたのだ。
彼女たちのように、純粋な情熱を持って仕事に向き合っている人間がいる。その誇りを、一部の役員たちの裏金作りのために汚させるわけにはいかない。
その誓いは、晃次自身の体を張った抵抗の原動力となっていた。
だからこそ、品川のアーカイブ倉庫でどれほど凄惨な暴力を受けようとも、彼はポケットの中のUSBメモリを決して手放そうとはしなかった。
しかし、生身の肉体には限界がある。
男の革靴で手首を踏みにじられ、全身の筋肉と骨が悲鳴を上げる。呼吸をするたびに胸郭が激しく軋み、口の中に鉄錆のような血の味が広がって、意識が白く途切れかけたその時。
彼を守るために、李理香は自らの魂の消滅リスクを負い、血まみれの晃次の背中へと一直線にダイブした。
『ドォォォォンッ!!』
目に見えない凄まじい衝撃波が倉庫内に吹き荒れ、晃次を押さえつけていた男たちが弾き飛ばされるように数歩後ずさった。
暗闇に沈みかけていた晃次の意識の底で、李理香の魂が彼の肉体と完全に重なり合う。
(……これが、生きている人間の体の重さ)
李理香の意識が、晃次の神経網の隅々まで行き渡っていく。
まず襲ってきたのは、全身の骨が軋むような鈍痛と、火を噴くような筋肉の熱だった。肺に吸い込む空気は重く、心臓は破裂しそうなほど早く脈打っている。
こんなになるまで、彼は自分のために耐えてくれたのだ。その痛みのすべてが、彼がどれほど自分を大切に想ってくれていたかの証明だった。
(ありがとう、晃次。……でも、ここから先は私が引き受けるわ)
李理香は精神の奥底で、そのすべての痛みに蓋をした。痛覚を一時的にシャットアウトし、ボロボロになった男性の肉体を、自らの強靭な意志だけで強制的に動かしていく。
床に倒れ伏していた晃次の体が、ゆっくりと、不自然なほど滑らかに立ち上がった。
血に染まった前髪の奥で開かれたその瞳は、先ほどまでの泥臭いサラリーマンのそれとは決定的に異なっていた。
感情の抜け落ちた、氷のように冷たく、他者を底辺から見下ろすような絶対的な視線。
薄暗い倉庫の空間に、息が詰まるほどの静寂が落ちた。
「……なんだ、まだ立てるのか」
男たちの1人が、怪訝そうに眉をひそめながら再び距離を詰めてくる。
「いい加減に大人しく寝ていろ!」
丸太のように太い腕から放たれた大振りの右フックが、晃次(李理香)の顔面を捉えようと空気を裂いた。
だが、李理香の目には、その拳の軌道がスローモーションのように見えていた。幽霊として実体を離れ、重力や物理法則に縛られずに空間を認識してきた彼女の知覚は、人間の筋肉の収縮から次の動きを完全に予測できていたのだ。
晃次(李理香)は上体をわずかに反らすという最小限の動きだけで男の拳を完璧に躱した。同時に、リミッターを外した肉体の力で、無防備になった男の膝の関節へ容赦なく蹴りを入れた。
格闘技の技術などない。ただ、人間の骨格の脆い部分を的確に打ち抜く、純粋な反撃の意志だ。
『ゴキッ』という嫌な音が響き、男は「ぐあッ!?」とくぐもった悲鳴を上げてバランスを崩した。
晃次(李理香)は一切の躊躇なく、男の背中を両手で強く突き飛ばし、コンクリートの床に強制的に這いつくばらせた。
「……遅すぎる。そんな鈍い動きで、私の大事な男を殴ってたの?」
晃次の低い声帯から発せられているはずなのに、そのトーンと冷酷な響きは、完全に内田李理香のそれだった。
「な、なんだこいつ……!」
残る2人の男たちが、本能的な恐怖に背筋を粟立たせた。
先ほどまで一方的に殴られ、息も絶え絶えだったはずの男が、突然痛みを感じないかのような動きを見せ、しかも自分たちをゴミでも見るような目で見下ろしているのだ。
「怯むな! そいつはもうボロボロのはずだ! 2人がかりで押さえろ!」
常務のヒステリックな怒声が飛ぶ。
男たちは顔を見合わせ、左右から同時に晃次(李理香)に襲いかかろうとした。
「……鬱陶しいわね」
晃次(李理香)がスッと右手を横に振った、その瞬間だった。
彼女の魂から発せられた激しい怒りのエネルギーが、晃次の肉体を媒介にして倉庫内の磁場に強烈な干渉を引き起こした。
『ギギギギギィィッ!!』
男たちの周囲を取り囲むように設置されていた高さ3メートルを超えるスチール製の棚が、まるで見えない巨人の手で捻り上げられたかのようにひしゃげ、凄まじい金属音を立てて歪み始めた。
さらに、先ほどの惨劇で床に散乱していた大量の紙の書類が、竜巻のように空中に巻き上げられ、男たちの視界を猛烈な勢いで塞いでいく。
「うわぁっ!?」
「な、前が見えねえ!」
紙の吹雪の中で、彼らは完全に動きを止めて腕で顔を庇った。
そのわずかな隙を見逃すはずがない。
晃次(李理香)は書類の渦の中を音もなく滑るように移動し、1人の男の鳩尾に思い切り拳を叩き込み、もう1人の男の足を引っ掛けて転倒させた。
鈍い音が連続して響き、2人の巨漢が次々と床に崩れ落ち、呻き声を上げた。
わずか数十秒。
暴力のプロである屈強な男たちは、完全に戦意を喪失し、床の上で転げ回るだけの肉塊と化した。
痛覚を遮断しているとはいえ、無理な動きをした晃次の肉体も悲鳴を上げているはずだが、李理香の強靭な精神力がそれを一切表に出させなかった。
「……ば、化け物か……お前は……」
倉庫の奥に1人残された常務は、恐怖で顔面を紙のように白くし、後ずさりを始めた。
立っているだけで足が震え、その場から逃げ出したいという本能が彼の全身を支配している。
「化け物? 人の命を虫ケラみたいに扱っておいて、よくそんな言葉が吐けるわね」
晃次(李理香)は血に染まったジャケットの襟をゆっくりと直し、常務に向かって1歩、また1歩と足音を響かせながら近づいていった。
「う、上田……お前、一体……」
「まだ分からないの?」
晃次(李理香)は常務の目の前で立ち止まり、その冷たく透き通るような視線で、恐怖に歪む男の顔を見下ろした。
「あんたたちが奪った命の重さを、直接教えてあげようと思って戻ってきたのよ」
晃次(李理香)の口元に、美しくも残酷な笑みが浮かんだ。
「私がただの『処理』で消えるような女だと思ってたなら、大間違いよ」
その言葉と、晃次の顔に一瞬だけ重なって見えた『死んだはずの女優』の面影に、常務の喉から「ひぃっ」という情けない悲鳴が漏れた。
彼はガタガタと震えながら後退し、もつれた足で床に無様に這いつくばった。
圧倒的な暴力で支配されていたはずの空間は今、静かな怒りを纏った1人の存在によって、完全に制圧されていた。




