第43話 魂の演技と狂気のメソッド
動物病院で初めてのワクチン接種を受けた日のことだった。
プラスチック製のキャリーケースの中で、見知らぬゴールデンレトリバーの鼻息と吠え声に震え上がり、タオルケットの下に潜り込んで小刻みに震えていたスコティッシュフォールドの子猫、ニョッキ。
しかしその日の午後、自宅のマンションに帰還し、見慣れたリビングのフローリングに足をついた瞬間、彼の中で何かが劇的に弾けた。
『にゃごぉぉぉっ!』
安全地帯である自分のテリトリーに戻ったという安堵と、病院での恐怖の反動が入り混じったのか、ニョッキは背中の柔らかい毛を逆立て、短い尻尾をタヌキのように太く膨らませた。
そして、謎の雄叫びを上げながら、リビングから廊下に向かって猛烈なスピードでダッシュを始めたのである。いわゆる「真空雪走り」だ。
爪がフローリングを擦るシャカシャカという音を響かせ、コーナーを滑りながら曲がり、真新しい3段式のキャットタワーを猿のように一気に駆け登る。さらに、一番上からお気に入りの羽付き猫じゃらしに向かってダイブし、それを仮想敵に見立てたのか、短い後ろ足で強烈な連続ケリケリ攻撃を見舞い始めた。
『見たかあの犬! ぼくの本当の強さはお家に帰ってから発揮されるのにゃ!』とでも言わんばかりの、見事な内弁慶ぶりである。
ひとしきり暴れ回り、己のテリトリーの絶対的な安全を確認し終えた直後だった。
ニョッキの体力ゲージは、唐突に底をついたらしい。
タワーの中段のステップに座り込んで毛繕いを始めたかと思うと、その動きがピタッと止まり、目をぱちくりとさせた次の瞬間、コロンと横に倒れ込んだ。そしてそのまま、スピー、スピー、と微かでリズミカルな呼吸音を静かなリビングに溶け込ませ始めたのだ。
「なんなのよあの子……。さっきまであんなに強がってたのに、もう自分の家を満喫してるじゃない。しかも遊び疲れていきなり寝落ちするとか、可愛すぎて反則でしょ……」
上空を漂う内田李理香の幽霊が、感極まった様子で空中をゆっくりと旋回しながら、見えない毛並みを撫でるように指先を動かしていた。
「触れないのが本当に悔しいわ。私が生きてたら、今すぐ顔を埋めてお腹の匂いを嗅ぎまくってるのに……っ」
不器用で無防備な子猫の寝姿と、それに本気で悔しがる推しの声。
晃次は淹れたてのコーヒーの香りを楽しみながら、その騒がしくも温かい光景に、心の底からの安らぎを覚えていた。
(ああ。この穏やかな日常は、何があっても絶対に守り抜かないとな)
その平和な日だまりの記憶は今、血と埃の匂いが充満する品川のアーカイブ倉庫の冷たい床の上で、確かな熱となって晃次の肉体を支えていた。
「がはっ……」「うぅぅ……」
薄暗い水銀灯の光の下、カビ臭いコンクリートの床には、常務が雇った2人のプロの暴漢が転がり、苦悶の呻き声を上げていた。
彼らを完全に制圧した上田晃次の肉体には今、李理香の魂が寸分の隙もなく同調している。男の革靴で踏みにじられた手首の痛みも、折れたかもしれない肋骨の軋みも、彼女の強靭な精神力によって深い意識の底へと封じ込められていた。代わりに、今の晃次の体からは、周囲の空気の温度を急激に下げるような、研ぎ澄まされた冷気と圧倒的な怒りのオーラが放たれていた。
薄暗い倉庫の奥で、常務はひしゃげたスチール棚の陰にへたり込んでいた。
仕立ての良い高級スーツは埃にまみれ、額から顎にかけて脂汗がべっとりと浮かんでいる。目の前で起きた現実離れした光景を前に、逃げ出そうにも膝に力が入らないのか、彼の口からはヒュー、ヒューという浅く引きつった呼吸だけが漏れていた。
「化け物? 自分の保身のために他人の命を虫ケラのようにすり潰しておいて、よくそんな言葉が吐けるわね」
低く、よく通る声。それは紛れもなく男性である晃次の声帯から発せられているが、トーンの抑揚、言葉の裏に張り付くような冷酷な響きは、内田李理香のそれだった。
晃次(李理香)は、血に染まったジャケットの襟をゆっくりと直し、革靴の音を無機質に響かせながら、1歩、また1歩と常務へと距離を詰めていく。
「ひぃっ……! 来るな……!」
「教えてあげるわ。あんたが何を考えてあんなことをしたのか」
晃次(李理香)は常務の目の前で立ち止まり、氷のように冷たい視線を突き刺した。
「広告代理店との裏金のやり取り。それに……私が、いや、内田李理香が気付いたかもしれないって焦った時。あんた、どう思った?」
晃次(李理香)の言葉が、倉庫の冷たい空気に溶け込む。
「……っ」
「『たかが25歳の小娘1人、どうにでもなる』って。タカをくくってたんでしょ」
「な、なぜ……お前が、それを……!」
常務の口から、掠れた悲鳴が漏れた。
「自分が長年かけて築き上げた地位とか、そういうのの方が大事だったから。……だから、あんなふざけた事故を仕組んだのよね。会社のためとか偉そうな理屈をつけて、ただ自分が捕まりたくなかっただけでしょ」
「ち、違う! 私は、知らない! 代理店が勝手にやったことだ!」
「まだそんな嘘をつくの? 深夜の金庫の前で、自分でボヤいてたじゃない。『あの小娘の処理には、随分と骨が折れた』って」
「ヒッ……!」
常務の喉が引きつる。密室での独り言を一言一句正確に言い当てられ、彼は恐怖で顔を歪めた。
「あんたさ、彼女が死んだって聞いた時、心の底ではホッとしてたんじゃない? これで邪魔者が消えた、警察も事故だって言ってるし、完全犯罪成立だって」
晃次(李理香)はさらに1歩踏み込み、常務を見下ろす。その瞳には、深い憎悪が渦巻いていた。
「……だから、あんな……あんな、気持ち悪いことしたのよね」
声が微かに震えている。それは冷静な推理などではなく、理不尽な死を与えられた者としての、生々しく泥臭い怒りの露呈だった。
「隠し金庫の暗証番号。……なんで『0825』なんて数字にしたのよ」
常務が息を呑む音が、静かな倉庫に響いた。
「あんたが殺した女の誕生日をパスワードにするなんて。……自分が神様にでもなったつもりだった? 人の命を自分の都合で消して、それを自分の権力のトロフィーみたいに誇ってたの?」
晃次(李理香)の表情が、嫌悪に歪む。
「人の命をなんだと思ってるのよ。自分だけ安全な場所にいて、邪魔になったらゴミみたいに捨てる。……本当に、反吐が出るわ」
常務の視界が、恐怖と混乱で激しく歪み始める。
極限のパニック状態に達した彼の目に、信じられない光景が映った。
冷たく見下ろしてくる上田晃次の顔が、一瞬、薄いヴェールを被ったようにブレたのだ。
そして、その顔のすぐ上に、透き通るような白い肌と、色素の薄いブラウンの瞳を持つ、死んだはずの女優の顔が、フラッシュバックのように鮮明に重なって見えた。
「あ……あぁっ……!」
重なって見えるその顔が、残酷な笑みを浮かべて囁く。
「奪った命の重さ、あんたのその体で、きっちり払ってもらうからね」
「来るな! 来るなァァァッ!!」
常務は完全に精神の均衡を崩し、錯乱したように両腕をめちゃくちゃに振り回して絶叫した。
「許してくれ! 悪かった、私が指示した! だからもう、こっちを見ないでくれぇぇっ!」
彼は床に這いつくばり、逃げようとして背後のスチール棚の支柱に何度も何度も額をぶつけている。口の端からは白い泡が吹き出していた。
晃次(李理香)は、無様に這いずる男の姿を冷酷な瞳で見下ろしたまま、低く言い放った。
「……あんたみたいなクズに、これ以上好き勝手させない。あんたの逃げ道は、もうどこにもないから」
自らの罪の意識と、底知れない恐怖に押し潰された男の絶叫だけが、冷たい倉庫の空気に虚しく響き続けていた。




