第8話 ゴースト・イン・ザ・会議室
「……今日は、いくらなんでも疲れすぎた」
時刻は午後8時。オリオンフーズの総務部から帰宅した上田晃次は、ネクタイを乱暴に引き抜きながら、キッチンのカウンターに突っ伏した。
日々の激しい姿勢矯正と「デキる男」の演技指導により、社内での彼に対する評価は鰻登りだ。しかし、それに反比例して精神的・肉体的な疲労は限界に近づいていた。
「お疲れ様! でも、着実に影響力はついてきてるわよ。さあ、今日も美味しいご飯を作って、明日のためのエネルギーをチャージしましょ!」
頭上から聞こえる無邪気な声。国民的女優にして最強のスパルタ幽霊、内田李理香だ。彼女は今日も白いワンピース姿で、天井付近を軽やかに漂っている。
「今日は重いものは無理だ。胃腸が悲鳴を上げてる……。もっとこう、野菜たっぷりで、ハーブの香りが突き抜けるような、サッパリしたものがいい」
晃次は重い体を起こし、冷蔵庫を開けた。
休日にアジア系の輸入食材店で買い込んでいたストックを確認する。
「よし、今日は『ゴイクン』にするか。疲労回復にはこれに限る」
「ゴイクン? なにそれ、怪獣の名前?」
「ベトナムの生春巻きだよ。野菜とハーブが主役の、最高にフレッシュな料理だ」
晃次は腕まくりをして、まな板の前に立った。
まず、鍋で豚の薄切り肉と、殻付きのバナメイエビをサッと茹でる。エビは茹ですぎると固くなるため、鮮やかな赤色に変わった瞬間に氷水にとり、丁寧に殻を剥いて縦半分にスライスする。
次に、米粉の麺である『ブン』を茹でて水で締め、しっかりと水気を切っておく。
「ハーブが命だからな、惜しみなく使うぞ」
サニーレタス、新鮮なミント、パクチー、そして大葉をたっぷりと用意する。さらに、彩りと食感のアクセントになるニラを長めに切り揃えた。
ここからが腕の見せ所だ。
大きめのボウルにぬるま湯を張り、薄く透き通った丸いライスペーパーをサッとくぐらせる。まだ固さが残っている状態でまな板の上に広げるのが、破れないコツだ。
「手際がいいわね……。あ、お湯にくぐらせただけでライスペーパーがどんどん柔らかくなっていく!」
李理香が空中で身を乗り出し、興味津々で覗き込んでくる。
晃次はライスペーパーの手前側に、サニーレタス、ハーブ類、ブン、そして豚肉を順に重ねていく。そして、ライスペーパーをひと巻きし、両端を内側に折り込む。
「ここからがプロの技だ。巻く途中で、断面を下にしてエビを三つ並べる。さらにニラを少しはみ出させるように配置して、きつく巻き上げる」
ギュッとテンションをかけながら最後まで巻き切ると、透明なライスペーパーから、鮮やかなエビの赤色とハーブの緑色、そして一筋のニラが美しく透けて見える、まるで芸術品のような生春巻きが完成した。
「わぁっ……! すっごく綺麗! まるで宝石箱みたい!」
「タレは二種類用意する。一つは、ピーナッツバターにホイシンソースと豆板醤を混ぜた、濃厚で甘辛いピーナッツソース。もう一つは、ヌクマムにレモン汁、砂糖、刻みニンニクと唐辛子を合わせたサッパリ系の『ヌクチャム』だ」
「ねえ、飲み物は? サッパリしたお料理なら、飲み物もこだわりたいわ!」
「わかってるよ」
晃次はミキサーを取り出し、完熟のアップルマンゴーの果肉、濃厚なプレーンヨーグルト、少量の牛乳とハチミツ、そして氷を投入してスイッチを入れた。
『ガァァァァッ!』という音と共に、鮮やかな黄金色の液体が出来上がる。
「自家製マンゴーラッシーだ。マンゴーの強烈な甘みとヨーグルトの酸味が、スパイスやハーブの癖をまろやかに中和してくれる、完璧なペアリングだぞ」
ダイニングテーブルに、色鮮やかなゴイクンが美しく盛り付けられた皿と、黄金色のマンゴーラッシーが並ぶ。
「いただきます」
晃次はゴイクンを一つ手に取り、たっぷりとピーナッツソースをつけて大きくかぶりついた。
モチッとしたライスペーパーを噛みちぎると、中からシャキシャキのレタス、ミントとパクチーの清涼感が一気に爆発する。そこにプリプリのエビと豚肉の旨味、甘辛くコクのあるピーナッツソースが絡み合い、噛むほどに複雑で奥深い味わいが口いっぱいに広がった。
「んんっ……最高だ。ハーブの香りで頭の疲れがスーッと抜けていく」
「ねえねえ! 食感は!? 香りは!? 早く詳しく食レポして!」
向かいの空席で、李理香が空の皿を見つめながらジタバタと暴れている。
「ライスペーパーの弾力がすごい。それに、ミントとパクチーがこれでもかってくらい主張してくるのに、ピーナッツソースの濃厚さがそれをしっかり受け止めてる。最高にヘルシーなのに、満足感がハンパじゃない」
晃次が言いながらマンゴーラッシーを喉に流し込むと、トロリとした濃厚な甘みと爽やかな酸味が、口の中のハーブの香りを優しく包み込んで洗い流してくれた。
「ああっ……! 今、私の口の中にも絶対マンゴーの甘さが広がってる! ヨーグルトの酸味で後味スッキリなんでしょ!? ずるい、ずるいずるい!」
狂喜乱舞する幽霊の推しを眺めながら、晃次はふう、と満足げなため息をついた。
毎日続く過酷なブートキャンプ。しかし、こうして夜に手作りの料理の味を「共有」するこの時間は、二人にとって欠かせない安らぎの儀式になりつつあった。
「……で、今日の昼休みのことだが」
マンゴーラッシーのグラスを置き、晃次は少しだけ真面目なトーンに声を変えた。
「例のコンペ、本当に俺が手を挙げるのか?」
李理香も空中でピタリと動きを止め、真剣な表情で頷いた。
「ええ。あんたが役員室の隣の備品室で壁に張り付いて待機してる間、私がすり抜けてバッチリ盗み聞きしてきた情報だもの。数日後には、社長直下の『新規アジア市場開拓プロジェクト』の全社横断コンペが正式に発表されるはずよ」
オリオンフーズは国内市場の頭打ちを打破するため、東南アジア向けの新規食品開発に力を入れようとしている。そのプロジェクトリーダーを決める社内コンペが、近々告知されるというのだ。
「会社の中枢に食い込んで、役員たちの不正の証拠を掴むためには、これ以上ない『実績』作りのチャンスよ。総務部の主任代理なんてポジションじゃ、いつまで経っても核心には近づけないわ。あんたがこのコンペで優勝して、プロジェクトリーダーの座を勝ち取るの!」
「……無茶苦茶言うな。総務の俺が、商品開発や営業のエースたちを相手に勝てるわけないだろ。第一、アジア市場向けの商品のアイデアなんて……」
言いかけて、晃次の視線が、目の前の皿に残った美しい『ゴイクン』に向けられた。
李理香がニヤリと、小悪魔のように微笑んだ。
「あんたが毎日、趣味でこれだけ本格的な多国籍料理を作ってること、忘れたとは言わせないわよ。そこらへんの社員より、よっぽど現地の味覚に精通してるじゃない」
「……なるほどな。料理の趣味が、こんなところで役に立つとは」
それから数日後。
李理香の予告通り、全社横断プロジェクトのコンペが正式に発表され、第一回のエントリー締め切りを迎えた日の午後。
オリオンフーズの本社フロアは、コンペの話題で持ちきりになっていた。
部署を問わず、誰もが企画書を提出できる異例のプロジェクト。優勝者には社長直轄のチームを率いる権限が与えられる。
その立候補者のリストの中に、「総務部 主任代理・上田晃次」の名前があったことは、社内でちょっとしたどよめきを生んでいた。
『あの万年事勿れ主義の上田さんが?』という驚きと、『でも最近の上田さん、めちゃくちゃ仕事できるオーラあるし、何か凄い隠し玉を持ってるんじゃないか?』という期待が入り混じった視線が、晃次に突き刺さる。
「さて、立候補はしたものの……最強のライバルは間違いなく営業部のエースチームだな」
給湯室でコーヒーメーカーのボタンを押し、晃次は壁に向かって小声で呟いた。
「ええ。彼ら、今すぐ隣の『第3会議室』で秘密の企画会議をやってるわよ」
晃次のすぐ横、給湯室の壁から、半透明の李理香の顔だけがひょっこりと突き出している。かなりシュールな光景だが、見えているのは晃次だけだ。
李理香の幽霊能力の限界範囲は、バッテリーである晃次から『半径5メートル以内』。
そのため、李理香が隣の会議室に壁をすり抜けて潜入し、晃次は距離制限に引っかからないよう、壁一枚隔てた給湯室で息を潜めて待機するというのが、二人の考えたスパイ作戦だった。
「どうだ? 営業部の企画内容は」
晃次が壁に向かって囁くと、壁から生えた李理香の顔が「ふふん」と得意げに笑った。
「バッチリ聞いてきたわよ。彼らの企画は『東南アジアの富裕層向け・高級レトルトカレー』ね。日本のカレーの味をそのまま持っていって、パッケージだけ高級感を出して現地スーパーで売る気みたい」
「日本のカレーをそのまま……? 現地の気候やスパイスの好みに合わせるんじゃなくてか?」
「そこが彼らの弱点よ」
李理香は壁から上半身だけを乗り出し、晃次の耳元に顔を近づけた。
「営業部のリーダーが言ってたわ。『どうせ現地の連中には、日本の繊細なカレーの味なんか分かりゃしない。適当にパッケージだけ煌びやかにしとけば、メイド・イン・ジャパンのブランドで売れる』ってね。コスト重視で、現地の食文化に対するリスペクトが全くないのよ」
晃次は眉をひそめた。
昨日、ゴイクンを作りながら感じた、現地のハーブやスパイスが織りなす複雑で繊細な味覚。あの食文化を持つ人々に、そんな適当なマーケティングで作った商品が通用するはずがない。
「……なるほど。相手の企画内容と、決定的な『弱み』は完全に把握した。あとは、俺たちがそれをひっくり返すような、本物の味と熱意を込めた企画をぶつけるだけだな」
「その通り! 料理オタクの意地、見せつけてやりなさい!」
給湯室のドアの向こうから、誰かの足音が近づいてくるのが聞こえた。
晃次はすかさず姿勢を正し、淹れたてのコーヒーカップを手に持つと、扉を開けて入ってきた若手社員に向かって、李理香仕込みの完璧な『デキる男のスマイル』を向けた。
「お疲れ様。コーヒー、ちょうど入ったところだよ」
「あ、上田さん! ありがとうございます、お疲れ様です!」
何事もなかったかのようにフロアに戻る晃次の背中を、半透明の李理香が楽しそうに追いかけていく。
幽霊の圧倒的なスパイ能力と、料理好きのサラリーマンの知識。
交わるはずのなかった二つの力が組み合わさり、会社の中枢へと攻め入るための、静かで熱い反撃の狼煙が今、確かに上がろうとしていた。




