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第7話 鬼上司のブートキャンプ

「痛っ……」


 朝、ベッドから身を起こそうとした上田晃次は、全身を走る鈍い痛みに思わず顔をしかめた。


 特に腹筋、背筋、そして太ももの裏側が激しく軋んでいる。昨日、激しい運動をした記憶はない。ただ一日中、幽霊の推しから「背筋を伸ばして! 胸を張って! 腹から声を出す!」と怒鳴られ続け、それに従って慣れない姿勢を維持していただけだ。


「おはよう。だらしないわね、その程度の姿勢矯正で筋肉痛なんて。どれだけ普段から体幹を使ってなかった証拠よ」


 頭上から聞こえる呆れたような声。

 見上げると、内田李理香が天井近くをフワフワと漂いながら、腕を組んでこちらを見下ろしていた。深夜に二人で超特大のジャンクバーガーを平らげて奇妙な連帯感を共有したはずなのに、朝になれば彼女はすっかり「鬼上司」の顔に戻っている。


「おはよう……。いや、俺は別にアクション俳優を目指してるわけじゃないんだから、ここまで体幹を鍛える必要はないだろ」

「甘い! 甘すぎるわ!」


 李理香はスッと高度を下げ、ベッドに座る晃次の目の前まで迫った。


「私たちが相手にするのは、会社のお金を横領して、邪魔な人間を殺すような連中よ。そんな役員クラスを追い詰めるためには、あんた自身が社内で『こいつは侮れない』と思わせるだけの発言力と影響力を持たなきゃダメなの。今のままの『万年主任代理の事勿れ社員』じゃ、重要な会議にも潜り込めないし、誰も有益な情報を教えてくれないわよ」


 彼女の言うことは正論だった。


「わかったよ。で、今日は何をやらされるんだ?」

「フフッ、今日から本格的な『上田晃次・一流化計画』のスタートよ。覚悟しなさい」


 李理香の不敵な笑みに、晃次は背筋に冷たいものを感じながらも、重い体を引きずって洗面所へと向かった。


 オリオンフーズの総務部に出社した晃次は、李理香の厳しい監視の下、昨日の「腹からの挨拶」と「完璧な営業スマイル」を維持してフロアを歩いた。

 筋肉痛で足が震えそうになるのを必死に隠し、李理香の「もっと歩幅を広く! ランウェイを歩くつもりで!」という無茶な指示に食らいついていく。

 自分のデスクに着くと、さっそくパソコンを立ち上げて業務を開始する。

 総務部の朝は、各部署からのメールチェックから始まる。備品の申請、会議室の予約変更、社内システムの不具合報告など、雑多な依頼が山のように届いている。


「さて、まずはこの営業部からの備品申請の返信だな」


 晃次がキーボードに手を置き、『お疲れ様です。総務部の上田です。申請の件、承知いたしました。本日午後に手配いたします。よろしくお願いいたします。』と、いつも通りの無機質なテンプレート文面を打ち込んだ瞬間だった。


「ストップ! 全然ダメ! 消して!」


 李理香が晃次の耳元で叫んだ。


「え? なんでだ? 用件は伝わってるだろ」

「用件が伝わるだけじゃ三流よ! そんなAIが書いたような事務的なメールで、相手の心を動かせると思ってるの!?」


 李理香はキーボードの上に身を乗り出し、画面の文字を指差した。


「私はね、現役時代、ファンレターの返事からお世話になったプロデューサーへの挨拶状まで、文章にはめちゃくちゃ気を遣ってきたの。メール一つの文面で、その人の『人間性』と『仕事へのスタンス』が全部透けて見えるんだから。いい? 今から私が言う通りに打ち直しなさい」


 そこから、元トップ女優によるビジネスメールの徹底指導が始まった。


「まず書き出し! 相手は営業部で外回りが多い人なんでしょ? 『お疲れ様です』の後に、『連日の猛暑の中、外回りお疲れ様です』くらいの一言を添えなさい!」

「は、はい」

「『申請の件、承知いたしました』? 固い! 『ご依頼のパンフレットの追加発注の件、確かに承りました。明日の商談でお使いになるとのことでしたので、本日午後の便で最優先でお届けいたします』! 相手の状況を理解して、先回りして動いてることをアピールするの!」

「なるほど……」

「最後は『よろしくお願いいたします』じゃなくて、『本日の商談のご成功を陰ながら応援しております』! ほら、打って!」


 カタカタカタ、と晃次は言われるがままにキーボードを叩いた。

 完成した文面を読み返してみると、確かに印象がまるで違う。ただの事務連絡ではなく、血の通った、相手を思いやる「デキるビジネスパーソン」のメールに仕上がっていた。


「すごいな……。こんなメールもらったら、誰だって嬉しいよ」

「でしょ? 些細なことかもしれないけど、こういう小さな気遣いの積み重ねが『上田さんって仕事できるよね』『上田さんにはお世話になってるから』っていう社内の評価に直結するの。さあ、受信トレイにはまだ三十件くらい未読があるわよ! 全部このクオリティで打ち返しなさい!」

「さ、三十件全部!?」

「当たり前でしょ! タイピングの速度も上げる! 背筋は伸ばしたまま! はい、スタート!」


 晃次は筋肉痛の背中に鞭を打ち、必死の形相でキーボードに向かった。


 李理香のブートキャンプはメール指導だけに留まらなかった。

 午後になり、総務部宛に他部署からクレームの電話がかかってきた時のことだ。


「はい、総務部です。……ええ、会議室Aのプロジェクターが映らない? それはご不便をおかけして……」

『ちょっと! 声が申し訳なさそうじゃない! もっと眉毛を下げて、電話越しでも相手に伝わるくらい深くお辞儀をしながら謝るの! 感情を込めて!』


 李理香の幻聴のようなディレクションが飛ぶ。

 晃次は慌てて立ち上がり、デスクの横で深く頭を下げながら、悲痛な声色を作った。


「大変申し訳ございません! 重要な会議の前にご迷惑をおかけしてしまい、総務部として深くお詫び申し上げます! 今すぐ、私が代わりの機材を持って走りますので、あと三分だけお待ちいただけますでしょうか!」


 そのあまりにも真摯で鬼気迫る謝罪に、電話口の相手も「あ、いや、そこまで急がなくても……すみません、よろしくお願いします」と毒気を抜かれたように態度を軟化させた。


 さらに、社内を移動する際の立ち振る舞いにも容赦ないダメ出しが飛ぶ。


「エレベーターを待つ時の姿勢! 休めの体勢になってる! 両足に均等に体重をかけて、顎を引く!」

「廊下で人とすれ違う時は、相手が誰であっても必ず一度立ち止まって、目を見て会釈! これだけで『礼儀正しい男』っていうインプレッションが脳に刻み込まれるのよ!」

「コピー機の前でスマホ見ない! 待機時間も常に周囲に気を配って、困ってる人がいないかアンテナを張る!」


 李理香は幽霊であるため、晃次の体を直接触って矯正することはできない。だからこそ、彼女は言葉の限りを尽くし、時には自分がお手本として美しい所作を空中で披露しながら、晃次を徹底的に鍛え上げていった。

 晃次にとっては、まさに息つく暇もない地獄の特訓だった。精神的にも肉体的にも疲労はピークに達し、家に帰る頃にはボロ雑巾のようになっているのがここ数日の常だった。


 だが、数日が経過した頃、晃次は自分の周囲の空気が確実に変わり始めていることに気がついた。


「上田さん、この前の資料の件、すごくわかりやすかったです。ありがとうございました!」


 廊下ですれ違った若手の女性社員が、わざわざ立ち止まって明るい笑顔で声をかけてきた。以前の事勿れ主義だった晃次なら、絶対にあり得ない光景だ。


「いえ、お役に立てて何よりです。何かあればいつでも相談してください」


 晃次が李理香直伝の爽やかな笑顔で返すと、女性社員は少し頬を染めて「はいっ!」と嬉しそうに頷いて去っていった。


 デスクに戻れば、隣の席の高木が尊敬の眼差しを向けてくる。


「上田さん、最近マジでどうしちゃったんすか? 営業部の人たちが『総務部の上田主任代理、めちゃくちゃ仕事早くて丁寧で助かる』って噂してましたよ。なんか、急にエリート社員みたいになっちゃって」

「別に普通に仕事してるだけだ。それより高木、この決裁書、フォーマットが古いぞ。最新のに直しておいたから、次から気をつけてくれ」

「うっす! あざっす!」


(本当に、変わってきたな……)


 晃次は自分の手を見つめながら、静かに息を吐いた。

 体の筋肉痛は相変わらずだが、背筋を伸ばして歩くことにも、腹から声を出して挨拶をすることにも、不思議と違和感がなくなってきている。

 ただの「冴えない三十路のサラリーマン」という外殻がパラパラと剥がれ落ち、その下から、李理香という一流のプロデューサーによって磨き上げられた「新しい自分」が顔を出している感覚があった。


「フフッ。どう? 私の言った通りになったでしょ」


 パソコンのモニターの横からひょっこりと顔を出した李理香が、ドヤ顔でウインクをしてきた。


「ああ。君の言う『影響力』ってやつが、少しわかってきた気がするよ。人が俺を見る目が明らかに違う」

「当然よ。あんたは素材は悪くないんだから、ちょっと磨けば光るってわかってたわ。でも、喜ぶのはまだ早いわよ」


 李理香はスッと真剣な表情になり、フロアの奥、役員室が並ぶ方向を見つめた。


「社内での好感度を上げるのは、あくまで下準備。私たちの目的は、あの中にいる真犯人を引きずり出すことなんだから。そのためには、もっと大きな『実績』を作って、誰も無視できないポジションまで一気に駆け上がらなきゃダメ」


「大きな実績、か」


 晃次も李理香の視線を追い、静かに頷いた。

 総務部の一介の主任代理のままでは、役員の不正を暴くような権限も機会も手に入らない。犯人に近づくためには、より会社の中枢に近い場所へ行く必要がある。


「大丈夫、チャンスはすぐに来るわ。私が壁をすり抜けて会議を覗き見するから、あんたは怪しまれないように半径5メートル以内の廊下で待機してよね。幽霊の潜入捜査スキル、舐めないでよ?」


 李理香は自信ありげに微笑むと、再び空中にフワリと舞い上がった。

 彼女の過酷なブートキャンプを乗り越え、確かなオーラを身につけた晃次。霊感ゼロのサラリーマンと幽霊の推しによるタッグは、反撃の舞台へと進むための確実な手応えを掴み始めていた。

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