第50話 推しが正妻になりまして
リビングの大きなダイニングテーブルは、多国籍な香水の匂いと、芳醇な肉の脂の香り、そして女性たちの熱気が入り混じり、さながら世界大戦の最前線のような様相を呈していた。
「オー・ミオ・ディオ! コウジ、この和牛とバルサミコの組み合わせ、天才的だわ! 私の故郷の三ツ星レストランにも決して負けていない!」
サマードレス姿のイザベラ・ロッシが、サファイアの瞳をキラキラと輝かせながら、ルビー色に輝く和牛のたたきを口に運ぶ。
「ちょっとイザベラ、お肉ばっかり独占しないでよ! 私の持ってきた自家製サルサも乗せて食べてみてってば!」
「ソフィアさん、声が大きいですわ。せっかくの繊細なピノ・ノワールの香りが飛んでしまいます」
陽気に身を乗り出すソフィアを、原ユキがワイングラスを優雅に傾けながら冷ややかに牽制する。
「えー、でも美味しいものは美味しいって全力で言わないと! ね、晃次くん!」
横山千春がソフィアに同調するふりをして、ちゃっかりと晃次の座る予定の空席の真横へと移動し、自分の領域を確保している。
「皆様、お肉ばかりでなくこちらのサラダもいかが? 胃を落ち着かせることも、大人の嗜みですわよ」
メリッサ・チャンが微笑みながら牽制球を投げ、酒井すずは虎視眈々とボトルの残量をチェックしながら晃次の隣を狙う隙を窺っていた。
誰かが話し終わるのを待つという概念は、この食卓には存在しない。
会話は常に重なり合い、時に遮られ、相手の隙を突いて自分のペースに引き込もうとする高度な心理戦が、笑顔の下でリアルタイムに繰り広げられていた。
晃次はキッチンのカウンターに寄りかかり、追加のバゲットを切り分けながら、そのカオスな光景を静かに眺めていた。
数ヶ月前、万年主任代理として事勿れ主義を貫き、狭い部屋で一人、コンビニ弁当をかき込みながらテレビの中の偶像だけを心の支えにしていた自分には、想像もつかなかった景色だ。
巨額の横領と、それに伴う隠蔽工作。会社の中枢に巣食っていた闇を暴き出すという過酷なミッションを潜り抜けた結果、彼の日常は完全にぶっ壊れ、そして再構築された。
『カサッ……』
ふと、足元で微かな音がした。
視線を落とすと、スコティッシュフォールドの子猫であるニョッキが、フローリングの上に落ちていた小さなトルティーヤチップスの欠片を、得体の知れない強大な敵と見なして対峙していた。
ニョッキは姿勢を限界まで低くし、琥珀色の瞳の瞳孔を真っ黒に広げ、お尻をフリフリと揺らしてタイミングを計っている。
そして、短い後ろ足で床を力強く蹴り、弾丸のようなスピードでチップスに飛びかかった。
前足で小さな欠片をガシッとホールドすると、そのまま床にゴロンと横転し、短い後ろ足で『ドドドドドッ!』と目にも留まらぬ連続ケリケリ攻撃を見舞う。
一切の手抜きがない、命懸けの狩りだ。
しかし、あまりにも激しく自分の体を捻りすぎたせいでバランスを完全に崩し、遠心力に巻き込まれる形で、コロンッ、と無様に仰向けにひっくり返ってしまった。
ニョッキは数秒間天井を見つめて硬直した後、何事もなかったかのようにすくっと立ち上がり、気まずそうに前足をペロペロと舐めて毛繕いを始めた。
「ふふっ……相変わらずうちの子は、天才的な間合いとオチを持ってるわね。あのリカバリーの早さと図太さ、バラエティ番組でも絶対に通用するわ」
頭上から、くすくすという押し殺した笑い声が降ってきた。
キッチンの換気扇の横に、半透明の白いワンピース姿の幽霊、内田李理香が優雅に腰掛けている。
彼女は今や、一流のプロデューサーとしての確固たる矜持と、謎の『正妻』としての絶対的な余裕を身につけていた。
「それにしても、見事な食べっぷりね」
李理香は腕を組み、リビングの修羅場を見下ろしながらふっと口角を上げた。
「あんたも、いつまでも裏方に引っ込んでないでさっさと席に行きなさいよ。主役が舞台に立たないでどうするの」
「……行くよ。ただ、生きて帰ってこられる保証はないがな」
晃次が苦笑しながら、スライスして軽くトーストしたバゲットをカゴに入れ、ダイニングテーブルへと向かう。
彼がテーブルの近くに足を踏み入れた瞬間、女性陣の放つ磁場が明確に変化した。
「コウジ! やっと来たわね、さあ私の隣へ!」
イザベラが長い腕を伸ばし、強引に晃次の腕を引こうとする。
「ちょっと待ってよ、晃次くんは私の横でパッケージの色を見る約束でしょ!」
千春が反対側の腕にすがりつき、ふわりとした石鹸の香りを漂わせる。
「いいえ、上田さんにはまずお酒を注がせていただきますわ」
すずがスッと立ち上がり、晃次の正面の逃げ道を塞ぐようにワインボトルを掲げた。
「上田くん。私のグラスも空いているわ。……まさか、上司を待たせるつもりはないわよね」
ユキがグラスを指先で弾き、絶対的な圧力と艶やかな微笑みで退路を断つ。
「コージ! 私のタコスも巻いてよ!」
ソフィアが背後から回り込み、晃次の肩に勢いよくしがみついてきた。
四方八方からの同時多発的なアプローチ。声と声が完全に重なり合い、もはや誰が何を言っているのか正確には聞き取れない。右腕を引かれ、左腕を掴まれ、正面を塞がれ、背中をホールドされる。
「ちょ、皆さん……一旦、落ち着いて……っ」
晃次は料理のカゴを持ったまま、完全に身動きが取れなくなっていた。香水とアルコールの入り混じった甘い空気が、酸素を奪っていく。
その時だった。
『パァァァンッ!!』
小気味良い、乾いた破裂音がリビングの空気を切り裂いた。
玄関のラックに綺麗に並べられていた来客用のスリッパが2足、まるで目に見えない糸で弾かれたように宙を飛び、晃次の腕を引っ張っていたイザベラと、正面に立っていたすずの綺麗なスネに、絶妙なスナップを効かせてクリティカルヒットしたのだ。
「痛っ!?」
「きゃっ! 何よ今の!?」
驚いて手を離した2人。その隙に晃次はスッと身を引き、包囲網から抜け出した。
女性たちの視線が、スリッパが飛んできた虚空へと集まる。
そこには、半透明の李理香が静かに腕を組んで浮かんでいた。彼女の顔に怒りはない。ただ、冷ややかで、圧倒的な余裕を感じさせる美しい笑みが張り付いているだけだ。
「……ちょっとそこ。距離が近いわよ」
声は当然、晃次にしか聞こえない。
だが、その言葉に乗せられた威厳と、確かな『牽制』の意志は、部屋の温度を1度だけスッと下げたように感じさせた。
彼女はただ、的確に、最小限の力で、物理的な距離を詰めすぎた者たちに警告を発したのだ。
「私がイチから徹底的に磨き上げた男よ? そんな手垢のついた安い手で、ホイホイお持ち帰りできると思わないことね」
李理香は空中でゆっくりと足を組み替え、ふっと息を吐いた。
「私の最高傑作のパーソナルスペースは、プロデューサーである私が完全に管理するの。……晃次、あんたもデレデレしてないで、ビシッとしなさい!」
「……わかってるよ」
晃次は周囲にバレないほどの微かな声で応え、突然のスリッパの直撃に戸惑い、警戒している女性陣に向かって、李理香直伝のスマートで隙のない笑みを浮かべた。
「……すみません。窓が開いていたせいか、突風が吹き込んだみたいですね。建付けが古いもので」
「と、突風でスリッパが正確に飛んでくるなんてこと、あるかしら……?」
「さあ、バゲットが焼けましたよ。サルサにも、たたきのソースにもよく合います。冷めないうちにどうぞ」
物理法則を完全に無視した無理やりすぎる言い訳だが、極限の修羅場を潜り抜けてきた今の晃次には、その場を強引に納得させるだけのオーラと胆力が備わっていた。
女性陣はまだスリッパが落ちた床に不審な目を向けていたが、晃次の毅然とした態度と、漂ってくる香ばしい小麦の香りに、やがて小さく肩をすくめ、再び食卓へと意識を戻していった。
「もう、びっくりしたじゃない。……でも、このバゲット、外はカリカリで中はもっちりね! コウジ、あなた本当に最高よ!」
「サルサ乗せると止まらないよ! 晃次くん、メキシコでお店出せる!」
「上田くん。……今度、私の家にも最新のオーブンを買い直そうかしら。休日に教えに来てちょうだい」
重なり合う声。笑い声。グラスの触れ合う澄んだ音。
誰もが遠慮することなく、美味しいものを頬張り、自分の思いをストレートに口にする。
先ほどまでの刺々しい牽制合いは鳴りを潜め、純粋に食事と空間を楽しむ、穏やかな時間が流れ始めていた。
足元では、狩りに疲れたニョッキが、晃次のスラックスの裾を枕にして、スヤスヤと無防備な寝息を立てている。
晃次はバゲットをかじりながら、目の前の特等席に浮かぶ李理香と、静かに視線を交わした。
彼女は「まったく、どいつもこいつも騒がしい女たちね」と呆れたように肩をすくめているが、その透き通るような瞳はどこまでも優しく、そしてこの空間を誰よりも楽しんでいるように見えた。
(次は、何を作ろうか)
晃次が心の中でそっと問いかけると、李理香はパッと顔を輝かせ、誰にも聞こえない声で、口の動きだけで力強く要求してきた。
『明日は絶対に、ケチャップたっぷりの特大オムライス!』
その満面の笑みを見て、晃次も自然と口元を綻ばせた。
物理的に触れることはできない。料理の味を直接分かち合うこともできない。
けれど、どんな生身の人間よりも、彼女の存在は晃次の人生の中で圧倒的な質量を持っていた。
巨悪とか、会社の中枢とか、そんな大層なものを相手にしていた数日前が嘘のように、今はただ、この騒がしくて温かい時間がどうしようもなく愛おしい。
自分の作った料理で誰かが笑顔になり、そして、誰よりもそれを楽しみにしている『推し』が、一番近くで自分を見守ってくれている。
どうやら、俺の推し活は、まだまだ終わらないらしい。
晃次は冷えた炭酸水を一気に飲み干し、絶え間なく続く彼女たちの賑やかな会話の中に、静かに、そして確かな足取りで身を投じた。




