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第51話 日常の崩壊と新たな戦場

 スマートフォンのアラームが鳴る数分前。

 上田晃次は、胸の上にずっしりとした温かい重みを感じて、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。


 窓のレースカーテン越しに差し込む朝の柔らかな光の中、スコティッシュフォールドの子猫であるニョッキが、晃次の胸元に香箱座りをしてこちらを見つめていた。

 晃次が目を覚ましたことに気づくと、ニョッキは『にゃん』と短く、鼻にかかったような甘い声を上げる。そして、ゆっくりと立ち上がり、前足をグッと伸ばして背中を丸めるダイナミックな伸びのポーズをとった後、短い足でトコトコと晃次の顔のすぐ横まで歩いてきた。

 ひんやりと湿ったピンク色の小さな鼻先が、晃次の頬にペタッと押し付けられる。


「……おはよう、ニョッキ」


 晃次が寝ぼけ眼のまま手を伸ばし、キャラメル色の柔らかな背中を指先で梳くように撫でると、ニョッキは琥珀色の瞳を細め、喉の奥から『ぐるるるる……』と心地よいモーター音を鳴らし始めた。

 その小さな体から発せられる微細な振動が、パジャマ越しに晃次の皮膚から骨へと直接伝わってくる。ニョッキは晃次の顎のラインに自分の丸い頭を何度もスリスリと擦り付け、さらに前足を交互に動かし、晃次の胸板のあたりを柔らかい肉球でリズミカルに押し始めた。

 爪は出ていない。プニプニとした肉球の感触と、小さな命の確かな重さが、極限まで張り詰めていた晃次の神経をじんわりと解きほぐしていく。


「……随分と甘やかされてるじゃない。まあ、出撃前のエネルギーチャージとしては悪くない光景だけど」


 ベッドの足元の上空から、落ち着いた、それでいてどこか呆れたような声が降ってきた。

 見上げると、半透明の白いワンピース姿の幽霊、内田李理香が、空中で腕を組みながらこちらを見下ろしている。

 彼女は一流のプロデューサーとしての絶対的な余裕を纏い、ただ静かに、少しだけ口角を上げて1人と1匹の穏やかな時間を眺めていた。


「癒やされるな。これのおかげで、今日もなんとか会社で戦えそうだ」


 晃次はニョッキの額に軽くキスをして体を起こし、キッチンへと向かった。

 コーヒー豆を挽き、ハンドドリップで丁寧に湯を落とす。深煎りの豆の香ばしくビターな香りが部屋を満たし、脳の奥のスイッチを完全に「仕事モード」へと切り替えていく。


 オリオンフーズ本社の最上階、経営企画部のフロア。

 高いパーテーションで区切られた空間には、ピンと張り詰めた空気と、絶え間なく続くキーボードの乾いた打鍵音だけが響いている。

 晃次はデュアルモニターに表示された膨大なデータに視線を走らせながら、次々と舞い込む他部署からの確認事項を処理していた。


「上田さん、営業部から上がってきた来期のアジア向けプロモーション予算案ですが、これで通してしまってよろしいでしょうか」


 後輩からの問いかけに、晃次は画面から視線を外さず、冷静でよく通る声で応じた。


「いや、昨日の会議で出た物流コストの圧縮分が反映されていない。差し戻して再計算するように伝えてくれ。現地の提携農場との直接契約を前提とした数字を出さないと、上の稟議は通らない」

「承知いたしました。すぐに連絡します!」

「それと、法務部のチェックバックが遅れている件、俺から直接電話を入れて急がせる。君は企画書の手直しを進めておいてくれ」


 淀みなく的確な指示を飛ばすその後ろ姿には、確かな自信と、修羅場を潜り抜けてきた男特有の鋭いオーラが放たれていた。


「いいペースね。タイピングの姿勢も崩れてないし、声のトーンも冷静で説得力があるわ」


 晃次から数メートル離れたキャビネットの横で、李理香が腕を組んで頷いている。


「あんたのその的確な判断力、すっかり板についてきたじゃない」

「君のスパルタ指導の賜物だよ。でも、流石にこの業務量は異常だ。プロジェクトが多岐にわたりすぎていて、全体の把握が追いつかなくなってきている」


 晃次がパソコンの画面に向かったまま、周囲に悟られないよう口の動きを最小限にして呟く。


「そうね。そろそろマンパワーの限界かもしれないわ」


 李理香が同意した直後、フロアの奥から、硬質なヒールの音が等間隔に響いてきた。

 カツ、カツ、と迷いなく歩み寄ってきたのは、直属の上司である原ユキだった。

 仕立ての良さが際立つネイビーのジャケットを纏い、洗練された大人の香水の匂いを微かに漂わせた彼女は、手に1冊の薄いファイルを持っている。


「上田くん。今、少し時間は取れるかしら」

「ええ、大丈夫です。何か急ぎの案件ですか?」

「ここで話す内容ではないわ。第2会議室を押さえてあるから、ついてきてちょうだい」


 ユキはそれだけ言うと、踵を返してフロアの奥へと歩き出した。


 防音の効いた第2会議室に入ると、ユキはブラインドを下ろし、外部からの視線を完全に遮断した。

 静まり返った密室の中で、彼女はテーブルの向こう側に座り、晃次を真っ直ぐに見据えた。


「単刀直入に言うわ。今日付で、あなたに新しい辞令が出る」

「……辞令、ですか」


 晃次は表情を変えずに問い返した。


 ユキは手元のファイルを開き、1枚の書類を滑らせてきた。

 そこには、『新規アジア市場開拓・特命チームリーダーに命ずる』という、社長名での正式な辞令が印字されていた。


「特命チームの、リーダー……」


 晃次は書類の文字を目で追い、小さく息を呑んだ。

 これは明確な「昇進」であり、同時に会社肝いりの巨大プロジェクトの全権を、現場レベルで完全に掌握することを意味している。


「これまでは私がプロジェクトの統括を兼任していたけれど、私には私のやるべき仕事がある。現場の指揮は、一番信頼できる人間に任せたいの」


 ユキは深く息を吐き、少しだけ声のトーンを落とした。


「あの極限の状況下で、誰一人逃げ出さなかったあなたの覚悟を、上が見逃すはずがないわ。現場の空気を作り、他部署を巻き込んでいく力があるのは、あなたしかいない」

「……身に余る光栄です。ですが、私がいきなり特命チームを率いるとなれば、周囲からの反発も大きいのでは」

「当然あるでしょうね。でも、それを実力でねじ伏せるのがあなたの仕事よ」


 ユキは立ち上がり、ゆっくりとテーブルを回り込んで晃次の隣へと歩み寄ってきた。

 甘く、それでいて人を酔わせるような香水の香りが、会議室の密閉された空気に溶け出していく。

 彼女は晃次の座る椅子の背もたれに軽く手を置き、顔を近づけてきた。


「プレッシャーは大きいと思う。でも、あなたなら必ずできると信じているわ。……私の右腕として、期待している」


 大人の女性特有の、落ち着きと熱を帯びた視線。それは単なる上司と部下の関係を超えた、強い執着と所有欲を微かに滲ませていた。


「……はい。ご期待に応えられるよう、全力を尽くします」


 晃次がユキの瞳から視線を逸らさず、冷静な声で応えた背後で。

 室内の温度が、スッと1度下がったように感じられた。


 ユキのすぐ背後に回り込んでいた李理香が、氷のように冷ややかな視線で、眼下で密着する2人を見下ろしていた。

 彼女の霊体は青白く澄み渡り、一切の揺らぎがない。

 彼女はただ腕を組み、不敵な、そして圧倒的な上位者としての笑みを浮かべた。


『……安っぽい駆け引き。私が丹精込めて磨き上げた最高傑作を、そんな手で丸め込めると思わないことね』


 声なき言葉に乗せられた絶対的なプレッシャーが、空間の磁場を微かに歪める。


「……っ」


 ユキがふと、背筋に説明のつかない寒気を感じたように肩をすくめ、晃次の背もたれからスッと手を離した。


「……じゃあ、午後からのキックオフミーティング、よろしく頼むわね」


 ユキは少しだけ乱れた息を整え、優雅な足取りを装って会議室を後にした。


 扉が閉まった途端、李理香がふわりと晃次の正面の空中へと移動してきた。


「大出世じゃない。これで、会社の中枢への足場は完全に固まったわね」

「……ああ。正直、まだ実感が湧かない。ただ、責任の重さだけは確実に増したな」


 晃次が辞令の紙を見つめながら言うと、李理香の顔つきが、冷徹なプロデューサーのそれへと変化した。


「実感なんて、後から勝手についてくるわ。それより、わかってるわね?」


 李理香はスッと右手を伸ばし、晃次の目の前で人差し指を立てた。


「これまでは、1担当者として有能さをアピールすればよかった。でも、これからは『チームを率いるリーダー』としての顔が求められるのよ。リーダーたるもの、部下や他部署の人間に対して、1ミリの隙も見せちゃダメ」

「隙を見せない、か」

「そう。言葉選びの鋭さ、決断のスピード、そして全体を俯瞰する視野の広さ。今日からあんたのプロデュース方針を1段階引き上げるから、覚悟しなさい」


 李理香の宣言に、晃次は小さく息を吐き、そして口角をわずかに上げた。


「望むところだ。君の要求に応えられなければ、このポジションは務まらないだろうからな」

「いい返事ね。さあ、まずは午後からのキックオフミーティングよ。会議室に入る瞬間の第一歩から、空気を完全に支配するのよ!」


 晃次はジャケットのフロントボタンを留め、手元の辞令をクリアファイルに丁寧に収めた。

 防音扉の重いハンドルに手をかけ、押し開ける。

 扉の向こうには、キーボードの打鍵音と電話の話し声が入り混じる、エリートたちの喧騒が広がっていた。晃次は小さく息を吸い込み、新たな戦場となったフロアへと、迷いのない足取りで踏み出していった。

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