第49話 彼女たちの宣戦布告
秋の乾いた風が、リビングの窓を小さく揺らした。
上田晃次は淹れたてのコーヒーを傾けながら、部屋の隅に置かれたキャットタワーを見上げた。
スコティッシュフォールドの子猫であるニョッキが、ハンモックのくぼみに丸く収まり、静かな寝息を立てている。微かな日差しを浴びて、キャラメル色の毛並みがふんわりと光を反射していた。短く丸まった前足を自分の顔に押し当てるようにして、時折『すぅ……ぷすっ』という愛らしい呼吸音を立てる。夢を見ているのか、ピクピクと髭が動き、折れ曲がった耳がかすかに震えていた。
その無防備な寝顔は、ここ最近の嵐のような日々の疲れを確実に浄化してくれた。
「……平和だな」
晃次がコーヒーカップを置きながら呟くと、向かいの空間に浮かんでいた半透明の白いワンピース姿の幽霊、内田李理香がスッと目を細めて睨み返してきた。
「何が平和よ。あんた、自分の置かれてる状況が全くわかってないわね」
「状況?」
「会社じゃ、あいつらが手ぐすね引いてあんたを狙ってるのよ。私が目を光らせてなかったら、あんたなんてあっという間に骨抜きにされてるんだからね」
その警告が決して大げさではないことを、晃次自身も痛いほど実感していた。
新体制となった経営企画部での日々は、業務の激しさもさることながら、周囲の女性たちからの「アプローチ」が一切の遠慮をなくしたことが何より厄介だった。
数日前の昼休みの社員食堂。
晃次が手作りの魯肉飯の弁当箱を開けた瞬間、八角と醤油の甘辛い香りが立ち上った。その匂いを嗅ぎつけたかのように、背後から鮮やかな黄色のカーディガンが飛び込んできた。
「コージ! お疲れ様!」
海外事業部のソフィア・エルナンデスが、周囲の目など一切気にせず晃次の首に背後から腕を回してきたのだ。
「メキシコのパパとママにコージの料理の写真送ったら、『早くそのアミーゴを家族に紹介しろ』って毎日電話してくるの! 今度のお休み、ビデオ通話で家族会議しようよ!」
「か、家族会議って……ソフィアさん、少し距離が……」
「あ、晃次くんのお弁当、今日もお肉のテリツヤがすっごく綺麗!」
逃げようとした晃次の右側の空席に、今度は横山千春がふわりとしたワンピースを揺らして滑り込んできた。彼女は弁当箱を覗き込むようにして、晃次の肩に自分の肩をぴったりと密着させてくる。ほんのりと甘い石鹸の香りが鼻をくすぐった。
「この煮卵の琥珀色、次のアジア向けパッケージの差し色にぴったりかも。もっとよく見せて!」
「横山さん、顔が近い……」
「お2人とも。彼のお昼休みを独占するのは感心しませんわね」
さらに前方から、洗練されたジャスミンの香水と共にメリッサ・チャンが優雅な足取りで現れた。彼女はトレイに置かれた紅茶のカップを優雅に傾け、涼やかな瞳で2人を牽制する。
「上田さん。今週末の夜、私のマンションでプライベートな打ち上げを開きますわ。お酒に合う前菜だけ、あなたにお願いしてもよろしいかしら? 最高のメインディッシュは私がご用意しますので」
それは、明確な「お家デート」の誘いだった。
冷徹な上司、メキシコの太陽、天才デザイナー、そしてマレーシアの才女。
彼女たちの視線が四方八方から交錯し、社食の一角が息詰まるような多国籍の修羅場と化している。
(……胃が痛い)
晃次が冷や汗を流しながら魯肉飯を口に押し込もうとしたその時、彼の持っていたステンレス製のスプーンが、突如として氷のように冷たくなった。
周囲の空気が急速に温度を下げ、スプーンの柄が『カタカタカタッ!』と微かな振動を始める。
「……誰が家族会議よ! 誰がパッケージの参考よ! 誰がプライベートな打ち上げよ!!」
晃次の背後、半径5メートル以内の上空で、李理香の幽霊が腕を組み、夜叉のような形相で彼女たちを見下ろしていた。
「私が丹精込めて磨き上げた最高傑作を、タダで横取りしようだなんて図々しいにもほどがあるわ! ここは試食コーナーじゃないのよ!」
物理的な干渉ができない彼女の、行き場のない激しい嫉妬心が空間の磁場を歪め、晃次の手元に微弱なポルターガイストを引き起こしているのだ。
(頼むから落ち着いてくれ、李理香ちゃん! スプーンが勝手に震えてるのがバレたらどうするんだ!)
幽霊の嫉妬と生身の女性陣の猛攻。会社での昼休みは、もはや心休まる時間ではなく、高度な危機回避スキルを要するサバイバルの場となっていた。
現在に戻る。
コーヒーカップを置いた晃次の耳に、不意にインターホンの電子音が鳴り響いた。
モニターに映っていたのは、私服姿の原ユキだった。
「上田くん、いるかしら。プロジェクトの今後の展望について、少し意見をすり合わせておきたくてね」
手には、明らかに仕事用ではない高級なワインボトルと、有名店のデリの紙袋が下げられている。
「……原課長。休日にわざわざ……」
晃次がドアを開けると、ユキは完璧なメイクを施した顔に艶やかな笑みを浮かべ、当然のように玄関を上がってきた。
「休日はユキさんでいいと言ったはずよ。……あら、いいお部屋ね。独身の男の1人暮らしにしては、綺麗に片付いてるじゃない」
彼女はリビングを見渡し、我が物顔でソファに腰を下ろした。
「ちょっと! なんでこの女が当然のように上がり込んでんのよ! 仕事の打ち合わせなら会社でやりなさいよ!」
李理香が空中で抗議の声を上げるが、ユキはワインボトルをテーブルに置き、晃次を上目遣いで見つめた。
「さあ、グラスを出してちょうだい。今日は夜まで、じっくり話しましょう」
ユキは脚を組み替え、スリットの入ったスカートから覗く白い肌が晃次の視界を掠める。
「上田くん。これからの新体制、あなたの実務能力がますます必要になるわ。でも、ただの仕事仲間として終わらせるつもりは、私にはないの」
甘く、退路を断つような響きを持つ言葉。
しかし、ユキとの2人きりの時間は、30分も経たないうちに崩れ去った。
『ピンポーン!』
再び鳴ったインターホン。モニターには、ソフィアが満面の笑みで映っていた。
「コージ! 遊びに来たよー! サルサソース作ってきた!」
晃次がため息をつきながらドアを開けると、ソフィアは嵐のようにリビングへと雪れ込んできた。
「えっ、原課長? なんでここに?」
「あなたこそ、休日に上司の家で何をしているの」
ユキの目がスッと細められ、室内の温度が数度下がったように感じられた。
ソフィアは少しも怯むことなく、「コージの料理の腕を見込んで、メキシコの実家のレストランのレシピを相談しに来たの!」と強引な言い訳を並べ立てた。
さらにその1時間後。
「チャオ、私のアモーレ! いるんでしょ!」
玄関のドアが乱暴にノックされ、開いたドアの向こうには、サングラスを頭の上に乗せたイザベラ・ロッシが立っていた。
「イザベラ様!? まさか、イタリアから……?」
「日本の支社に視察に来たついでよ! 金曜の夜に飛行機に乗れば、週末はあなたと一緒に過ごせるじゃない。私のフライトマイル、全部あなたへの愛の証よ!」
時間をずらして次々と押し掛けてきた彼女たちの目的は明白だ。晃次の自宅というプライベート空間を確保し、他の女を出し抜くこと。
晃次のリビングは、色とりどりの香水の匂いと、彼女たちが放つ強烈な自己主張によって完全に飽和状態に陥っていた。
「……信じられない。何なのこの人口密度。酸素が薄いわ」
キッチンのカウンターの上に座るような姿勢で宙に浮き、李理香が冷ややかな視線でリビングの惨状を見下ろしている。
彼女はもう、空中で身をよじって暴れるようなことはしていなかった。その代わり、プロデューサーとしての鋭い観察眼と、絶対的な正妻としてのプライドを静かに燃やしていた。
「上田くん。ワインを開けてちょうだい。それに合うおつまみもお願いね」
「コージ、私のサルサには絶対にトルティーヤチップスだよ!」
「オー・ミオ・ディオ! 私の彼には、イタリアの伝統的なカルパッチョを作ってもらうわ!」
四方八方から飛んでくる要求に対し、晃次は静かに腹を括った。
「……わかりました。全員の要望に応えるものを作りますから、少し待っていてください」
晃次は冷蔵庫から、先日行きつけの精肉店で手に入れていた和牛の赤身肉のブロックを取り出した。
表面に塩胡椒を強めに振り、熱した鉄のフライパンで表面だけを一気に焼き固める。
『ジュウウウウッ!』
良質な和牛の脂が焦げる強烈で芳醇な匂いが、リビングの香水の匂いを一瞬にして圧倒した。
「いいわね。その匂いで女どもの目を覚まさせてやりなさい」
李理香が換気扇の横で鼻をヒクヒクさせながら頷く。
晃次は焼き色をつけた肉をすぐに氷水に取って粗熱を取り、薄くスライスしていく。断面は美しいルビー色のレア状態だ。
「和牛のたたきだ。ソースは、醤油とバルサミコ酢、それに少量のワサビとハチミツを煮詰めて作る」
和のテイストにイタリアのバルサミコを合わせることで、赤ワインにも、スパイシーなサルサにも負けない奥深い味わいになる。
美しく皿に並べられた和牛のたたきをテーブルに運ぶと、女性陣の目の色が変わった。
「……見事ね。肉の旨味とバルサミコの酸味が、このピノ・ノワールと完璧に調和しているわ」
ユキがワイングラスを傾けながら、感嘆の息を漏らす。
「オォー! このソース、サルサの辛味ともすっごく合う! コージ、やっぱり天才!」
「お肉の色がルビーみたいで綺麗……美味しい!」
彼女たちが料理に舌鼓を打つ中、キッチンの上空では、李理香が腕を組みながらその光景をじっと見つめていた。
「……味の感想を言うのはいいけど、これを作ったのはあんたたちじゃないからね」
李理香の瞳には、一切の揺らぎがない。
「あいつがこれだけの料理を作れるようになったのも、どんなプレッシャーの中でも冷静に立ち振る舞えるようになったのも、全部私が隣で徹底的にプロデュースしてきたからよ」
彼女はふっと、誇り高く美しい笑みを浮かべた。
「どこの国から来ようが、どんな肩書きを持っていようが関係ないわ。私の最高傑作を、そう簡単に渡してあげるもんですか」
リビングでは、女性陣による晃次を巡る牽制合いとアプローチが、さらに熱を帯びて続いていた。
「上田くん。この味を毎日食べられるなら、結婚という制度も悪くないと思えてきたわ」
「彼は私と一緒にナポリの太陽の下で暮らすのよ!」
「メキシコの方が絶対楽しいよ!」
女性たちの間で繰り広げられる、遠慮のない駆け引きと応酬。
その声を聞きながら、晃次はキッチンの片付けを続け、そして時折、空中で不敵な笑みを浮かべる半透明の相棒と視線を交わしていた。




