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第48話 新たなる未練の形

 窓の外の夜空は深く澄み渡り、リビングには静かなジャズのBGMが流れている。


「……で。結局なんで私は天国からUターンしてきたわけ?」


 ダイニングテーブルの向かい側。そこに浮遊するのではなく、椅子に座るような姿勢で『物理的に』肘をついている内田李理香が、不満げに頬を膨らませていた。


 彼女の顔は、耳の先までほんのりと朱に染まっている。

 先ほど、自分が成仏の光から弾き返されて現世に居残ってしまった理由が、『晃次を他の女に取られたくない』という強烈なやきもちであることに気づいてしまったからだ。天下の国民的女優が、ただのサラリーマンに対する嫉妬と独占欲でこの世に留まり続けるなど、口が裂けても認めるわけにはいかない。

 だからこそ彼女は、必死に「霊界のシステムエラーだ」と言い張り、気まずさを隠すようにテーブルに肘をついていた。


「理由は分からないが、結果的に君がここにいる」


 晃次はキッチンから、いくつかのグラスとボトルを運んできた。


「霊的な理屈は後回しにしよう。目の前に美味い酒とつまみがあるんだからな。とりあえず、巨悪を倒したことと、君の居残りを祝って乾杯だ」


 テーブルの上に並べられたのは、よく冷えたプレミアムモルトのビール、琥珀色に輝くニッカのシングルモルトウイスキー、そして抜栓されたばかりのブルゴーニュの赤ワイン。

 おつまみには、厚めのトルティーヤチップスと、冷蔵庫でしっかりと冷やしておいた自家製のサルサ・メヒカーナ。完熟トマトの果肉、水に晒して辛味を抜いた玉ねぎの微塵切り、フレッシュなパクチー、そして生のハラペーニョを細かく刻み、ライムをたっぷりと搾りかけて塩で味を調えたものだ。


「……まあ、いいわ。祝杯には付き合ってあげる」


 李理香の指先はグラスの縁に触れると僅かに動かすことができるが、持ち上げることはできない。彼女はエアでグラスを傾ける仕草をした。


「乾杯」


 晃次がプレミアムモルトのビールを喉に流し込む。

 きめ細かいクリーミーな泡と深い麦芽のコクが、乾いた喉と、激しい戦いを終えた全身の細胞に染み渡っていく。

 続いて、トルティーヤチップスでサルサソースをたっぷりとすくい上げ、口へと運んだ。


『ザクッ』という香ばしい音とともに、トマトの爽やかな甘みとハラペーニョの鮮烈で青臭い辛味、そしてライムの酸味が口の中で弾ける。


「ん……美味い。サルサのフレッシュな酸味が、ビールのコクと絶妙に合う」


「……本当ね」


 李理香もエアでチップスを頬張る仕草をし、ゆっくりと目を閉じた。


「ハラペーニョのピリッとした辛さが一瞬で広がるけど、トマトの甘みがそれを優しく包み込んでくれるわ。パクチーの香りもすごくいいアクセントになってて……これ、永遠にビールが飲めちゃう味ね」


 いつもなら空中で暴れ回るほどの大仰なリアクションをする彼女だが、今夜は少し違う。代理摂食で共有される複雑なスパイスの余韻を、まるで本当に自分の舌で味わっているかのように、静かに、しみじみと噛み締めていた。


 ビールを空にした晃次は、次にニッカのシングルモルトをロックグラスに注いだ。丸く削られた氷が、カランと心地よい音を立てる。

 グラスを傾けて一口含むと、芳醇な樽の香りと、力強いスモーキーなピートの風味が鼻腔を抜け、胃の奥がカッと熱くなる。


「……深いな。モルトの複雑な香りとほんのりとしたバニラのような甘みが、ここ数日の張り詰めていた神経を、ゆっくりと解きほぐしてくれる」

「こっちのブルゴーニュの赤ワインもいい香りね。赤いベリー系の果実味があって、タンニンがすごく滑らか。……悪くないわね、こういう落ち着いた夜も」


 李理香はテーブルの上に腕を伸ばし、すっかりリラックスした様子で頬を緩ませた。

 足元のクッションでは、愛猫のニョッキが晩酌の匂いに少しだけ鼻をヒクヒクさせながらも、心地よさそうに丸まって眠っている。


 少し落ち着いたところで、晃次はロックグラスを置いた。


「さて。さっきの『成仏しなかった理由』の話だが。本当に心当たりはないのか?」

「な、ないわよ! ないったらないの!」


 李理香が急にムキになって声を荒げた。


「あの役員たちの悪事は暴かれて、社会的な制裁が下った。私の名誉も回復した。思い残すことは全部なくなったはずだもの! だからこれは、絶対に霊界の事務手続きのミスよ!」


 その時だった。

 テーブルの上に置かれていた晃次のスマートフォンが、ブルッと短く振動した。


「ん? こんな時間に誰からだ」


 晃次が画面を見ようと手を伸ばした瞬間、再び『ブルッ』。さらに『ブルブルッ』。

 通知の振動が止まらない。立て続けに、何件ものメッセージが怒涛の勢いで届き始めたのだ。


「……なによこれ」


 李理香がスッと身を乗り出し、晃次の手元を覗き込む。

 画面には、見慣れた名前からのメッセージが、ロック画面を埋め尽くすようにずらりと並んでいた。


【原ユキ】『事後処理も一段落したわね。……で、この前の「私の右腕」の話、まだ返事を聞いてないわよ。今週末、予定空けておきなさい。美味しいお酒でも飲みながら、じっくり聞かせてもらうから』


【メリッサ・チャン】『連日のゴタゴタ、本当にお疲れ様でした。約束の「専属シェフ」の件、今週末のディナーで詳細を詰めましょう。楽しみにしていますわ』


【ソフィア・エルナンデス】『コージ! 悪いヤツらいなくなってスッキリだね! お祝いで特大のタコス作ってパーティーしよ! いっぱいハグしてあげる!』


【イザベラ・ロッシ】『チャオ、私のアモーレ! あのプッタネスカの味が忘れられないわ。ロッシ家のファミリーになる件、イタリア行きのファーストクラスはいつでも手配できるから、すぐに返事をちょうだい!』


【横山千春】『晃次くん、お疲れ様! 晃次くんがいないといい色が出ないの。明日、またお弁当作ってきてね! 今度はもっと近くで色を見たいな!』


 さらには。


【酒井すず】『無事に終わって何よりです。……共犯者としての祝杯、いつ私の部屋であげましょうか? ずっと待ってますね』


 メッセージの文面を見るにつれ、晃次の顔が引きつり、額から嫌な汗が流れ落ちた。


「……これは、まずいな」


 しかし、晃次以上に様子がおかしかったのは李理香だった。

 彼女は目を限界まで見開き、画面に表示された女性陣の名前と、あからさまなアプローチの文面を凝視していた。


(……ほら見なさい!!)


 李理香の頭の中で、自分が成仏をキャンセルしてしまった理由が、完全なる正当性を帯びて猛烈にヒートアップし始めた。


(どいつもこいつも、事件が終わった途端に牙を剥いてきたじゃない! 箱根の女湯で聞いた通り、あいつら全員、本気で晃次を自分のものにしようと狙ってるのよ!)


 李理香は空中でワナワナと肩を震わせ、晃次を鋭く睨みつけた。


「……やっぱり、私が消えなくて大正解だったわね」

「えっ?」

「私がもしあのまま成仏してたら、今頃あんた、この肉食獣みたいな女たちの群れに骨の髄までしゃぶり尽くされてたんだから! イタリアに連れ去られて、右腕にされて、専属シェフにされて……あんたの平穏な日常なんて一瞬でぶっ壊されてたわよ!」


 強烈な独占欲と嫉妬心が、彼女の霊体を青白く燃え上がらせる。


「私のプロデュース作品を、どこの馬の骨ともわからない女たちに好き勝手されるなんて、絶対に許さない! 私がそばで、1ミリの隙もないように目を光らせて守ってやるんだから!!」


 彼女の激しい感情の爆発が、部屋の磁場にダイレクトに干渉し始めた。


『カランッ……カラカランッ!!』


 テーブルの上に置かれていた晃次のロックグラスの中の氷が、誰も触れていないのに激しくぶつかり合い、高い音を立て始めた。

 さらに、ソファに置かれていたクッションが『ボンッ!』と見えない力で弾き飛ばされ、床に転がる。

 窓ガラスが『ガタガタッ!』と不気味な音を立てて小刻みに震え出した。


「お、おい! 李理香ちゃん! グラスの氷が跳ねてるぞ! クッションまで!」


 晃次が慌てて立ち上がるが、李理香は両手で真っ赤な顔を覆い、空中で錐揉み回転をしながら絶叫した。


「見ないで! スマホも見ないで! ああもう、あいつら全員出入り禁止! 晃次、あんた明日から会社で鉄のパンツ履いて仕事しなさいよ!!」

「鉄のパンツってなんだよ! 落ち着けって!」

「落ち着けるわけないでしょ! 私がずっとそばでガードしてあげるって言ってんの! 感謝しなさいよね!!」


 怒りと羞恥で空気を震わせ、見えない手でスマホをバシバシと叩こうとする幽霊の推し。

 突然の騒ぎに驚いて飛び起きたニョッキが、『にゃごっ!?』と目を丸くして部屋の隅のキャットタワーへと逃げ込んでいる。


「……はぁ。本当に、どうしてこうなったんだか」


 晃次は暴れるスマートフォンをなんとか手で押さえ込み、もう一方の手でウイスキーのグラスを持ち上げた。

 芳醇な香りを放つ琥珀色の液体を一口飲み込み、騒がしく宙を舞う半透明の相棒を見上げる。

 その顔には呆れの色が浮かんでいたが、口元は隠しきれないほど柔らかく緩んでいた。

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