第47話 サヨナラは言わないで
それは、常務や社長が逮捕され、社内の暗部が完全に白日の下に晒された数日後のことだった。
休日の午後。上田晃次は、青山の閑静な通りに面した高級イタリアンレストランのテラス席で、目の前の華やかな女性の勢いに圧倒されていた。
秋の乾いた風が、通りに植えられたイチョウの葉をカサカサと揺らしている。
「サルーテ! 私たちの輝かしい未来と、コウジのアモーレに!」
イタリアの高級食材メーカー『ロッシ社』の令嬢、イザベラ・ロッシが、細長いクリスタルグラスになみなみと注がれたシャンパンを高く掲げた。
陽光を受けてエメラルドグリーンに輝くサマードレスを纏った彼女は、道行く人々の視線を一身に集めるほどに美しい。グラスの底から立ち上る黄金色の泡よりも煌びやかな青い瞳が、晃次ただ1人に真っ直ぐに向けられていた。
「イザベラ様、お招きいただきありがとうございます。ですが、俺はただ自分のできることをやっただけで……」
「シィッ。謙遜なんてつまらないわ、コウジ」
イザベラは長い人差し指を自分の艶やかな唇に当て、悪戯っぽく微笑んだ。
「あの会議室で、あなたが腐った重役たちに真実を突きつけた時のあの目! あんなに冷たくて、それでいて燃え盛るような情熱を秘めた瞳、イタリアの男たちだってそう簡単には見せられないわ! 私の会社の誇りを、あなたのその手で守り抜いてくれたのよ。お父様も『あの日本の若者は本物の獅子だ』って大絶賛だったわ!」
イザベラはシャンパンを一口含み、熱っぽい吐息を漏らした。
「これで、邪魔なハードルは全部吹っ飛んだわね。ねえコウジ、私と一緒にイタリアへ来ない? 日本法人のトップとして、いえ……ロッシ家のファミリーとして、あなたを私の隣に迎え入れたいの」
それは、ただのビジネスの誘いを超えた、あまりにも情熱的で直接的なプロポーズだった。
大企業の令嬢からの、人生を根本から変えるようなオファー。
だが、晃次が返答をするよりも早く、彼の真横の空間で、目に見えない凄まじい怒りのエネルギーが爆発した。
「ちょっとォォォォッ!! なにが『ロッシ家のファミリーとして』よ!! 展開が早すぎるのよこの泥棒猫!!」
半透明の白いワンピース姿の内田李理香が、両手の拳を強く握りしめ、顔を真っ赤にして猛スピードで空中を旋回し始めた。
「私が消える前に晃次をかっさらおうだなんて、10万年早いわ! 晃次は私が手塩にかけて育てたプロデュース作品なの! ナポリだかシチリアだか知らないけど、イタリアになんて絶対に行かせないんだから!!」
李理香の強烈な嫉妬心が磁場に干渉し、テーブルの上に置かれていたイザベラのシャンパングラスが『カタカタカタッ!』と微かに震え、中の黄金色の液体が波打つ。
「お、お気持ちは大変光栄ですが、俺はまだオリオンフーズでやるべきことがあります。この会社を根本から立て直すまでは、日本を離れるわけにはいきませんから」
晃次は冷や汗を流しながらグラスの土台をさりげなく手で押さえ込み、丁重に辞退した。
イザベラは少しだけ残念そうに肩をすくめたが、すぐに「そう。あなたのそういう義理堅いところも好きよ。……でも、私は絶対に諦めないから」と、さらに熱っぽい視線を送ってきたのだった。
(本当に、嵐のように騒がしい日々だったな……)
青山での出来事を思い返しながら、晃次は自宅マンションのリビングで、一人静かに息を吐き出した。
あのイタリアンレストランでの攻防の日の夜。晃次はこのキッチンで、持てる技術のすべてを注ぎ込んで極辛のペンネ・アラビアータを作り上げた。
出会った初日に彼女が食べたいと願い、そして最後に作ってほしいと頼まれた思い出の料理。
代理摂食を通じてその味を共有した李理香は、「世界で1番美味しかった」と涙を流して微笑み、淡く温かい黄金色の光の粒子となって、リビングの天井へと吸い込まれていった。
彼女が消え去ってから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
冷暖房の微かな稼働音だけが、不自然なほど大きく聞こえる。
晃次はダイニングテーブルの前に立ち尽くしたまま、空になった純白の平皿を見つめていた。
いつもなら、この空間には「ちょっと、姿勢が悪いわよ!」という甲高い演技指導の声や、料理の匂いに釣られて身悶えする幽霊の騒がしい気配が満ちていたはずだった。
だが今は、圧倒的な静寂だけが部屋を支配している。
「……終わったんだな」
晃次の口から、乾ききった、掠れた声が漏れた。
彼女が自由になって、安らかに天国へと旅立っていったこと。それは、二人が命を懸けて追い求めた目的であり、最も正しい結末のはずだった。
「……よかったじゃないか。これでいいんだ」
晃次は自分に言い聞かせるように呟き、重い足取りでソファへと向かい、深く腰を下ろした。
だが、頭でどれだけ理解しようとしても、胸の奥にぽっかりと開いた巨大な穴から、身を切るような冷たい風が吹き込んでくるのを止められなかった。
もう、彼女のあの生意気な笑顔を見ることはできない。
理不尽な要求に文句を言いながらも、一緒に食卓を囲むこともない。
視界が急激に熱を持ち、歪んでいく。両手で顔を覆うと、堰を切ったように熱い滴が指の隙間を伝って、フローリングへとこぼれ落ちた。
『にゃあん』
不意に、足元から小さく、心配そうな鳴き声が聞こえた。
見下ろすと、スコティッシュフォールドの子猫であるニョッキが、短い前足を晃次の膝にかけ、琥珀色の丸い瞳で見上げていた。
「……ごめんな、ニョッキ。ちょっとだけ、目から汗が……」
晃次が震える手でニョッキの柔らかい頭を撫でようとした、その時だった。
「……ちょっと、晃次。なに泣いてんのよ」
背後から、あまりにも聞き慣れた、呆れたような声が降ってきた。
晃次は弾かれたように顔を上げ、振り返った。
幻聴かと思った。悲しみのあまり、脳が都合のいい幻覚を見せているのだと。
だが、そこには、白いワンピース姿の内田李理香が立っていた。
「え……?」
晃次は目を丸くし、息を呑んだ。声も出ない。
彼女の姿は、明らかにおかしかった。
昨日まで、彼女の体は常に半透明で、向こう側の壁紙や家具が薄っすらと透けて見えていた。だが今、目の前に立つ李理香の体は、くっきりと鮮やかな色彩を帯びており、輪郭がはっきりと空間に浮かび上がっているのだ。
足元を見ると、床から数センチ浮いているのは変わらない。しかし、リビングの照明を受けて、フローリングには彼女の薄い影すら落ちているように見えた。
「李理香、ちゃん……? なんで……成仏したんじゃなかったのか!?」
晃次がソファから跳ね起きて叫ぶと、李理香は顔を真っ赤にして両腕を前で交差させた。
「わ、私にも分からないわよ! 光に包まれて、ああ、これで天国に行くんだなーって目を閉じてたら……なんか、急に足にドスンって感触があって、気がついたらここに立ってたの!」
「ドスンって……まさか、天国から弾き返されたのか?」
「そんなことある!? あんなに感動的なお別れの言葉まで言って、最高に綺麗な笑顔まで見せたのに、恥ずかしすぎるじゃない! 穴があったら入りたいわよ!」
李理香はパニックになり、顔を覆ったまま猛烈なスピードでリビングの上空を飛び回り始めた。
晃次は信じられない光景に混乱しつつも、目の前の彼女が消えていないという事実に、急激に心臓の鼓動が早くなるのを感じていた。
冷え切っていた胸の穴が、あっという間に塞がっていく。
「で、でも、未練がなくなったから成仏の光が出たんだろ? 復讐も果たしたし、俺の作ったアラビアータも食べて満足したって……」
「そうよ! これ以上何を望むっていうのよ! 私のゴーストライフは完全にやり切ったはずなのに!」
「じゃあ、なんで……」
晃次が首を傾げていると、李理香はふと空中で動きを止め、自分の手を見つめた。
「……ねえ、晃次」
彼女はゆっくりと高度を下げ、ダイニングテーブルの上に置かれたパスタの空き皿に向かって、そっと右手の人差し指を伸ばした。
『カチャッ』
小さな、しかし明確な陶器と爪がぶつかる物理音が、静かなリビングに響いた。
「……え?」
晃次が息を止める。
李理香の指先が、皿の縁に触れ、それを数ミリだけ動かしたのだ。
「触れた……?」
これまで、彼女の体はすべての物理的な物体をすり抜けていた。触れようとしても、決して触れることはできなかった。ポルターガイストという間接的な干渉でしか物に影響を与えられなかった彼女が、今、直接皿に触れたのだ。
「完全に掴めるわけじゃないみたいだけど……。なんか、体が前より重いのよ。密度が上がってるっていうか」
李理香は不思議そうに自分の手を握ったり開いたりしている。
成仏するどころか、霊体としてのパワーが不自然に強化されている状態だ。
二人は顔を見合わせた。
李理香の胸の奥底で、ドクンと何かが跳ねる。
(……まさか。私が無意識のうちに、まだこの世に留まりたいって思ってたから? あのイタリア女とか、原課長とか……私が消えたら、晃次が他の女に食べられちゃうって、心のどこかで焦ってたから……?)
自分でも気付いていなかった、強烈な『新しい未練』。
それを自覚した瞬間、李理香の顔が耳の先まで一気に真っ赤に染まった。
「ち、ちがっ! 違うわよ! これはただのシステムエラーだから!」
「システムエラーってなんだよ。霊界のサーバーでもダウンしてるのか?」
晃次がまだ赤くなった目元をこすりながら苦笑すると、李理香は誤魔化すようにフンッと鼻を鳴らし、腕を組んで空中の定位置へと移動した。
「ま、まあ! 理由はどうあれ、天国が私をまだ早いって判断したのよ! 仕方ないから、もうしばらくは君のプロデューサーを続けてあげるわ。感謝しなさい!」
その強がりで生意気な言葉を聞いて。
晃次は、こぼれ落ちそうになっていた涙を完全に拭い去り、腹の底から吹き出した。
「あははっ! なんだそれ。結局、何も変わらないじゃないか」
「ちょっと、なに笑ってんのよ! こっちは恥ずかしさで死にそうなんだからね!」
「ごめんごめん。でも……よかった」
晃次は心底安堵したような、柔らかい笑顔を彼女に向けた。
「俺の推し活は、まだ当分終わらないらしいな」
「当たり前でしょ。一流の男になるまで、みっちりシゴいてやるんだから」
李理香も空中で腕を組み、ふふっと笑い返した。
『にゃうん』
足元で状況が飲み込めないニョッキが、晃次のスラックスの裾をチョイチョイと引っ張っている。
「おっと、すまない。お腹空いたか?」
晃次がしゃがみ込んで子猫を抱き上げると、李理香が「ああっ、また私より先にモフモフしてる!」と上空から文句を垂れ始めた。
静寂に包まれていたリビングに、再びやかましくも温かい空気が満ちていく。
窓の外では、秋の澄んだ青空がどこまでも高く広がっていた。




