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第46話 消えゆく輪郭と最後の晩餐

 上田晃次が病院のベッドから解放され、自宅のマンションに戻ってから数日が経過した週末の午後。

 涼しい秋風が吹き抜ける神楽坂の石畳を、晃次は少しだけ歩幅を狭くして歩いていた。折れた肋骨の痛みは引いてきているが、医師からはまだ無理な運動を禁じられている。


「晃次くん、こっちこっち! この路地の奥に、すごく素敵なギャラリーカフェがあるんだよ!」


 数メートル先で楽しげに手を振っているのは、マスタードイエローのニットワンピースに身を包んだ商品開発部の横山千春だった。

 退院の報告をした翌日、彼女は「退院祝いと快気祝い、それに新しいパッケージのインスピレーション探しを兼ねて!」と、有無を言わさぬ勢いで晃次を外へと連れ出したのだ。


「あまり急ぐと転びますよ、千春さん」

「大丈夫だってば。ほら、ここ!」


 千春は古民家を改装した隠れ家的なカフェに入ると、日当たりの良い窓際のソファ席を陣取った。

 テーブルに運ばれてきたのは、季節のイチジクとベリーをふんだんに使った色鮮やかなタルトだ。千春は目をキラキラさせながらスマートフォンで写真を撮り、すぐにフォークを手に取った。


「んーっ! すっごく美味しい! ねぇ晃次くんも1口食べてみて!」


 彼女は自分がかじったばかりのタルトをフォークで切り分け、晃次の口元へと無邪気に突き出してきた。


「えっ……あ、いや、俺は自分のコーヒーがあるから……」

「だーめ。こういうのは感動を共有しないと。ほら、あーん!」


 パーソナルスペースという概念を持たない彼女は、晃次が逃げる隙も与えずにグッと身を乗り出してくる。ほんのりと甘い石鹸の香りが鼻腔をくすぐり、晃次は顔を赤くして後退りしようとした。


(……やばい。こんな密着されたら、また李理香ちゃんがブチ切れて店内の照明が割れるんじゃ……)


 晃次は周囲の客に被害が出ないか冷や汗を流しながら、斜め上空へと視線を向けた。

 しかし。

 そこに浮かんでいた内田李理香の幽霊は、怒髪天を突くどころか、静かに、そしてどこか寂しげな微笑みを浮かべて2人を見下ろしていたのだ。


「……ふふっ。いいじゃない。今の君、すごく人間らしい顔してるわよ」


 李理香の声は、カフェの静かなBGMにかき消されそうなほど弱々しく、遠く響いた。

 彼女の霊体は、窓から差し込む秋の柔らかな日差しに完全に溶け込んでしまいそうなほど薄い。輪郭がチカチカと不規則に明滅しており、物理的な世界への干渉力であるポルターガイストを起こすエネルギーなど、もはや1ミリも残っていないことは明らかだった。


「ほら、晃次くん。口開けて?」


 千春の純粋な好意を無下にするわけにもいかず、晃次は諦めてタルトを口に含んだ。


「……美味しいですね。フルーツの酸味がしっかり立ってて」

「でしょ! これ、次のパッケージの配色のヒントになりそう。……晃次くんが無事に帰ってきてくれて、私、本当に嬉しいな」


 千春はフォークを置き、大きな瞳で晃次を真っ直ぐに見つめた。


「会社でね、色んな人が晃次くんのこと凄いって言ってるよ。会社の悪いところを直してくれた英雄だって。……でも、私はそんなことより、また晃次くんが作ってくれたお弁当の色を見られることの方が、ずっとずっと嬉しいの」


 彼女の裏表のない真っ直ぐな言葉が、傷ついた体と心にじんわりと染み渡っていく。


「ありがとう。……俺も、また皆と一緒に働ける日が楽しみだよ」


 晃次が穏やかに返すと、上空の李理香が「うんうん」と満足そうに頷き、そして不意に、少しだけその身体の透明度を増した。


『……私の役目は、本当に終わったみたいね』


 口の動きだけでそう呟いた彼女の姿が、一瞬だけ陽炎のように揺らぐ。

 晃次の胸の奥が、鋭く締め付けられた。

 千春の明るい笑顔を見つめながらも、晃次の意識はどうしても、上空で今にも消え入りそうな推しの姿へと向かってしまう。


 夕暮れ時。千春を駅で見送り、晃次は1人でマンションに帰り着いた。


「ただいま、ニョッキ」


 玄関を開けると、スコティッシュフォールドの子猫が短い足でトコトコと出迎えに来てくれた。


『にゃあん』


 足元にすり寄ってくる温かい毛玉を抱き上げ、晃次はリビングへと向かう。


「お帰りなさい。あの子、本当に可愛いわね。君が仕事に行ってる間、ずっと玄関の方を見て待ってたのよ」


 ダイニングテーブルの上空で、李理香が力なく微笑んでいた。

 部屋の明かりをつけても、彼女の姿はまるで古いフィルム映像のように薄く、向こう側のキッチンの棚がはっきりと透けて見えている。


「……李理香ちゃん。体が」

「うん。自分でもわかるわ。もう、君の周りの磁場に繋ぎ止められている感覚がないの。風船の糸が切れて、あとは空に飛んでいくだけ……そんな感じ」


 李理香は自分の透けきった両手を顔の前にかざし、静かに言った。


「……そっか。いよいよ、お別れだな」


 晃次が喉の奥の塊を飲み込むようにして言うと、李理香は少しだけ悪戯っぽく笑った。


「泣きそうな顔しないでよ。私はこれから、天国ってやつに行くんだから。……でも、その前に」


 彼女はスッと視線を上げ、晃次の目を真っ直ぐに見つめた。


「君、約束覚えてるわよね? 私たちが初めて会った日。君が作ってくれた、あの真っ赤なパスタ」

「……アラビアータ、か」

「そう。あの時は匂いにつられて来ただけで、私が1口食べる前に君が全部食べちゃったじゃない。……私、最後にどうしてもあれが食べたい。今度は、私のために作って」


「わかった。……俺が持てるすべての技術を注ぎ込んで、世界で一番美味いアラビアータを作ってやる」


 晃次はニョッキをソファにそっと下ろし、ワイシャツの袖を腕まくりしてキッチンに立った。


 冷蔵庫を開け、食材を取り出す。

 青森県産の大粒のニンニク。カラブリア産の強烈な辛味を持つ唐辛子。そして、自家製の豚バラ肉の塩漬け。

 出会ったあの日、絶望の中で無心に包丁を握った記憶が蘇る。だが今日は違う。彼女に最高の味を届けるための、祈りのような調理だった。


 晃次はニンニクの芯を丁寧に取り除き、極薄のスライスにしていく。フライパンにオリーブオイルをたっぷりと注ぎ、冷たい状態からニンニクと唐辛子、細かく刻んだ豚肉を入れて極弱火にかける。

 小さな泡が立ち始め、食材の持つ香りがゆっくりと、時間をかけてオイルに溶け出していく。キッチンに充満していく香ばしい匂いは、2人の奇妙な同居生活が始まったあの夜と全く同じものだった。


「……ああっ、いい匂い。鼻の奥がツンとするくらい香ばしいわ」


 換気扇のすぐ下まで漂ってきた李理香が、目を閉じて深く香りを吸い込んでいる。

 晃次は火加減を微調整し、ニンニクが狐色に変わる直前の完璧なタイミングでホールトマトを流し込んだ。

 トマトを木べらで丁寧に潰し、酸味を飛ばしながら深いコクを引き出していく。隣のコンロで茹で上がったブロンズダイス製のペンネをソースの鍋に移し、茹で汁を加えてフライパンを煽る。水分と油分が一体化し、真っ赤なソースがとろりとペンネに絡みついた。


「完成だ。内田李理香専用、極辛のペンネ・アラビアータだ」


 純白の平皿に盛り付け、仕上げに新鮮なイタリアンパセリを散らす。

 晃次はダイニングテーブルの向かい合わせの席に皿を置き、グラスに冷たい炭酸水を注いだ。

 李理香はフワリと降りてきて、皿の真上の空席に座る姿勢をとった。


「……すっごく美味しそう。あの夜と同じ、完璧な赤色ね」


 晃次はフォークを手に取り、真っ赤に染まったペンネを1つ突き刺して、ゆっくりと口に運んだ。


「……いただきます」


 咀嚼する。

 濃厚なトマトの甘みと、それを引き締める唐辛子の強烈な辛さ。ニンニクの香りが鼻を抜け、豚肉の脂の旨味がじわっと広がる。

 いつものように饒舌な食レポをしようとしたが、喉の奥が熱く引きつり、言葉がうまく出てこない。


「どう!? 辛い!? 旨味はどう!?」


 李理香が身を乗り出してくる。


「……辛いな。すごく、辛い。……トマトの甘みもしっかりあるのに、唐辛子が容赦なくて……」


 晃次は額に滲んだ汗を拭うふりをして、目の奥に込み上げてくる熱をごまかした。


「……ソースが、ペンネにすごくよく絡んでて。今まで作った中で……1番、美味くできたと思う」


 声が微かに震えていた。冷静に味を伝えようとするほど、これが最後の食事なのだという実感が胸を締め付ける。


 その不器用で途切れ途切れの言葉を聞いた瞬間、李理香の半透明の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。


「……うんっ、美味しい! すごく辛いのに、すっごく甘くて……味が、全部こっちに伝わってくる……!」


 彼女は両手で顔を覆い、空中で肩を震わせた。

 晃次は次々とペンネを口に運び、炭酸水で喉を潤しては、またフォークを進めた。

 2人の間には、静かな咀嚼音と、微かな嗚咽だけが響いていた。


 やがて、皿の上のペンネがすべてなくなった。


「……ごちそうさま。本当に、世界で1番美味しかったわ」


 李理香は涙を拭い、満面の、そしてこれまでにないほど穏やかな笑顔を見せた。


 その時だった。

 李理香の足元から、淡く温かい、黄金色の光の粒子が立ち昇り始めた。


「……あっ」


 彼女自身が驚いたように自分の体を見下ろす。光の粒子は徐々に増え、彼女の半透明の体を包み込んでいく。


「……時間みたいね」


 李理香は名残惜しそうに周囲を見渡し、最後に晃次を真っ直ぐに見つめた。


「晃次。……ただのオタクだった君を無理やり巻き込んで、鬼みたいにシゴいて、危険な目に遭わせて。本当にごめんなさい」

「気にするな。君が引っ張り上げてくれなかったら、俺は一生、事勿れ主義の冴えない男のままだった。……俺の方こそ、君のプロデュースには感謝してる」


 晃次が絞り出すように言うと、李理香の体が、腰のあたりまで光の粒子に変わっていく。


「そう。……なら、これからはその力で、自分自身の幸せを掴みなさいよ。原ユキでも、ソフィアでも、あのデザイナーの子でもいいから。……君なら、絶対にいい男になれるわ」

「君は最高のプロデューサーで、……俺にとって、一生忘れない、最高の推しだ」


「ふふっ。君も、最高のファンで、最高の相棒だったわよ」


 李理香は最後に、完璧で美しいアイドルの笑顔を晃次に向けて咲かせた。


「さよなら、晃次。……ありがとう」


 その言葉とともに、彼女の体はひときわ強く発光し、リビングの天井へと向かって無数の光の粒子となって立ち昇っていった。

 晃次は立ち上がり、光の行方を静かに見守り続けた。

 やがて部屋の中から光が完全に消え、いつもの静寂が戻る。

 残されたのは、空になったパスタの皿と、足元で不思議そうに見上げているニョッキだけだった。

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