第45話 残された時間と別れの予感
全身の筋肉が、一斉に内側から引きちぎられていくような感覚だった。
上田晃次の視界が、急速に黒く塗りつぶされていく。肺から無理やり空気が押し出され、ヒュー、ヒューという浅く引きつった呼吸しかできない。
「上田くん! しっかりして!」
倒れ込んだ晃次の頭を、原ユキが床に膝をついて抱え上げた。彼女のタイトスカートがカビ臭いコンクリートの埃で汚れることなど、微塵も気にしていない。いつもは冷静沈着な彼女の手が、微かに、しかし確かに震えていた。
「コージ、目を開けて! お巡りさんが、今、救急隊をこっちに呼んでくれてるから!」
すぐ横で無線機に向かって怒鳴っている警察官の誘導に従いながら、ソフィアが晃次の手を両手で強く握りしめている。ラテン特有の底抜けの陽気さは消え去り、その声は悲痛に上ずっていた。
「血が止まらないよ……どうしよう、どうしよう……っ」
千春が自分のハンカチを取り出し、晃次の顔の傷を押さえようとして手が震え、ポロポロと泣きじゃくっている。
「落ち着きなさい、横山さん。頭部は動かさず、出血箇所だけを適度に圧迫して。気道は確保されていますわ」
メリッサが即座に千春の手をサポートし、的確に応急処置の指示を飛ばす。彼女の端正な顔立ちもまた、痛々しい緊迫感に強張っていた。
4人の女性たちが必死に声をかけ、体をさすってくれている。
生身の人間たちの温かい体温が伝わってくるはずなのに、晃次の感覚は徐々に遠のき、周囲の音が深い水中に潜ったようにくぐもっていった。
薄れゆく意識の底で、晃次はわずかに開いた視界の端に、1つの姿を捉えた。
内田李理香だった。
彼女は、介抱する女性たちのすぐ後ろの空間に立っていた。
しかし、その姿は明らかに異変を起こしていた。
(……透けてる)
元々半透明だった彼女の霊体は、今や向こう側のコンクリートの壁がはっきりと認識できるほどに薄くなっていた。古いテレビのノイズのように、輪郭がチカチカと激しく明滅を繰り返している。足元に至っては霧のようにぼやけ、床から数センチ浮いているのかどうかも定かではない。
「りり、か……ちゃん……」
晃次が血の気の引いた唇を動かし、掠れた声で呼ぶ。
ユキたちが「え? 何?」と顔を寄せるが、晃次の視線は彼女たちの肩越し、明滅する幽霊へと真っ直ぐに向けられていた。
李理香は、自分の体が消えかかっていることなど気にしていない様子だった。
彼女の瞳からは大粒の涙がとめどなくこぼれ落ちていたが、その顔には、これまで見たどの表情よりも美しく、そして心底からの安堵に満ちた笑みが浮かんでいた。
彼女は両手を胸の前でそっと合わせ、晃次に向かって、声を出さずに口の動きだけで伝えた。
『あ・り・が・と・う』
その微笑みを見た瞬間、晃次の中で限界まで張り詰めていた最後の緊張の糸がプツリと切れ、彼の意識は完全な暗闇へと落ちていった。
再び目を覚ました時、晃次の視界に入ってきたのは、見慣れない白い天井だった。
消毒液のツンとした匂いと、規則正しく鳴る心電図のモニター音。
「……病院、か」
乾ききった喉から、掠れた声が出た。
少し体を動かそうとしただけで、右脇腹と全身の関節に鈍い激痛が走る。
「あまり無理をしては駄目ですわ。肋骨が2本折れていますし、全身打撲なのですから」
ベッドの横から、優しく、しかし凛とした声が響いた。
視線を向けると、丸椅子に腰掛けたメリッサが、持参したらしいタブレット端末を膝の上に置いて微笑んでいた。
彼女はいつもの隙のないビジネススーツではなく、上質なカシミヤの薄手カーディガンに身を包んだ、洗練されたオフのスタイルだった。
「メリッサさん……。俺は、どれくらい寝てましたか」
「丸2日ですわ。あなたが倒れた後、すぐに警察が手配してくれた救急車でここに運ばれたのです。……本当に、無事でよかったわ」
メリッサは安堵の息をつき、ベッドサイドのテーブルに置かれた保温ジャーに手を伸ばした。
「原課長たちは、事後処理で会社を飛び回っていますの。ソフィアさんと横山さんもお見舞いに来ていたのですけれど、面会時間を調整して、今は私に譲っていただきました」
彼女はジャーの蓋を開け、中から立ち上る湯気を手で軽く仰いだ。
生姜と鶏の深い出汁の香りが、病室の無機質な空気を一瞬で書き換える。
「クアラルンプールの屋台を思い出すような、『アバロンのお粥』ですわ。私が今朝、出汁から引いて作りましたの」
「メリッサさんが……?」
「ええ。本来なら、プロジェクトの成功を祝って素敵なレストランでディナーデートをしたかったのですけれど。あなたがこんな状態ですから、今日は私があなたのシェフを務めさせていただきますわ」
メリッサは上品な陶器の器にお粥を盛り、レンゲですくって息を吹きかけ、晃次の口元へと運んだ。
「……ありがとうございます」
晃次は少しだけ身体を起こしてもらい、お粥を口に含んだ。
鶏の旨味が凝縮されたスープが、トロトロに煮込まれた米粒に完全に染み込んでいる。そこに、細かく刻まれた鮑の濃厚な磯の風味と、千切りにされた生姜の爽やかな刺激が加わり、弱り切った胃腸に優しく、そして力強く染み渡っていく。
「……美味しいです。五臓六腑が生き返る気がする」
「ふふっ。食通のあなたにそう言ってもらえると、作りがいがありますわね」
メリッサは嬉しそうに目を細め、次の一口を運んでくる。
「……会社は、どうなりましたか」
お粥を半分ほど平らげたところで、晃次は一番気になっていたことを尋ねた。
メリッサの表情が、スッと引き締まった。
「常務は、警察の取り調べで……あっさりと口を割ったそうですわ。社長の指示だった、と」
「社長の……」
「ええ。私たちが監査委員会を動かしたことと、国際的な信用問題のプレッシャーも効いたのでしょう。……今朝、社長も任意同行を求められました」
メリッサはゆっくりと言葉を区切りながら、静かに続けた。
「裏金工作と……内田李理香さんの事故に関する、隠蔽工作の容疑で、ですわ」
「そう、ですか」
晃次は深く息を吐き出した。
「会社は今、大混乱ですわ。けれど、腐った膿を出し切るためには必要な痛み……。これから、私たちが新しいオリオンフーズを作っていくのです。あなたの力が必要ですわ、上田さん」
メリッサの手が、シーツの上に置かれた晃次の手にそっと重なる。
生きた人間の、温かく滑らかな体温。
それは、彼が現実世界でしっかりと地に足をつけ、確かな未来へ向かって歩んでいけるという、何よりの証明だった。
「……ええ。1日も早く復帰します」
晃次が応えると、メリッサは満足そうに微笑み、空になった器を片付け始めた。
夜。
面会時間が終わり、病室の照明が落とされた。
窓の外には、都会の夜景が遠く瞬いている。
『ガチャッ』
ドアの開く音はしなかった。しかし、病室の空気がわずかに冷たくなり、微弱な静電気が肌をなでるような感覚がした。
「……李理香ちゃん、か」
晃次が窓際へ視線を向けると、薄明かりの中に、半透明の白いワンピース姿が浮かび上がっていた。
昼間、メリッサがいる間は気を遣って姿を隠していたのだろう。
「こんばんは。……生きててよかったわね」
李理香の声は、どこか遠くから響いてくるような、エコーがかかったような不思議な響きを持っていた。
晃次は痛む体を庇いながら、少しだけ身を起こした。
「君の無茶な憑依のおかげで、死にかけたけどな。……でも、終わったよ」
「ええ。テレビのニュース、ここでもずっとやってるわね。私の事故が、実は殺人だったかもしれないって。連日大騒ぎよ」
李理香は窓の外を見つめたまま、静かに言った。
その横顔を見て、晃次は息を呑んだ。
倉庫で最後に見た時よりも、さらに彼女の霊体は薄くなっている。
窓から差し込む街灯の光が、彼女の身体を完全に通り抜け、床に落ちている。もはや顔の輪郭すらぼやけ、少し強い風が吹けば、そのまま霧散してしまいそうなほど儚い存在になっていた。
「……体が、透けてるぞ」
「うん。自分でもわかるの。もう、あんたの周りの磁場に干渉する力も残ってない。ポルターガイストどころか、スプーン1つ動かせないわ」
李理香は自分の両手を目の前にかざし、力なく微笑んだ。
「エネルギーを使い果たしたからか?」
「それもあるけど。……ううん、たぶん、それだけじゃないわ」
李理香が振り返り、晃次の目を見つめた。
「私がこの世に留まっていたのは……なんていうか、納得いかなかったから。あいつらを許せないっていうか……悔しくて」
李理香の瞳が小さく揺れる。彼女は少しだけ言い淀み、視線を落とした。
「でも……あんたが、やってくれた。私の名誉も……尊厳も。全部、取り戻してくれたじゃない」
彼女の透き通るようなブラウンの瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「だから……もう、いいのかなって。私をこの世界に縛り付けているものが、なくなっちゃった、みたい」
幽霊としての未練が果たされた。それはつまり、彼女がこの世界から完全に消え去る『成仏』の時が近づいていることを意味している。
「……そうか」
晃次の口から出たのは、その短い一言だけだった。
引き留める言葉は見つからなかった。彼女が安らかに眠りにつくことこそが、彼が命を懸けて追い求めた目的そのものだったのだから。
「メリッサさんのお粥、美味しそうだったわね。……私も最後に、あんたの作ったアラビアータ、もう1度食べたかったな」
李理香は少しだけ冗談めかして笑い、窓際の月明かりの中に溶け込むように立っていた。




