帰宅
短編集『逃げ道の先』の二話目として、『帰宅』をお届けします。
短いお話ですので、ひとときお付き合いいただければ幸いです。
久しぶりの空を見上げ、思わず、傾く日を吸い込むように大きく空気を飲みこんだ。
雨上がりの匂いが鼻に広がり、それを味わいながら息を吐く。
地面を踏みしめる感触に、思わず笑みをこぼして進みだし、
やがて足早に、いつしか童子のように笑いながら走り出す。
ぬかるんだ田舎道を駆け抜け、いつしか見覚えのある住宅街にでると、
心を落ち着かせ、確かめるように少し変わった街並みを歩きだす。
霞む視界を拭うことも忘れ、古いポストの角を曲がれば、
ぼやけながらも奥に、明かりのともる窓ガラスが見えた。
聞こえてくる懐かしい声と夕飯の匂いに、息を切らしながら、でも確かに近づく。
ドアの前で、ほつれたポケットから欠けた鍵を取り出し、
上手く入らない鍵穴に、両手でゆっくりと、確かめるように差し込み、
願うように両目を強く引き締め、手首を回す。
「カチャリ…」
白くなった指先とは裏腹に、小さな音をたてて鍵が開いた。
玄関に立てかけられた、子供の写真を手に取り思わず落としそうになりながらも、
額縁をしっかりと握りしめ、声のする方へ顔を向ける。
声へ繋がる戸のノブを握り、少しためらい力を入れる。
リビングを挟んだキッチンに、記憶より少し丸みをおびた女性の背中が目に入る。
女性は声を止めてゆっくり振り返り、目を見開き、後ずさる。
呼びかけようとして、伸ばした手が当てもなくゆれ、女性の顔を見て息を詰まらせると、
横からかばうように、男が割って入り、女性はその男の背に手を添えた。
握っていた写真立てが、音を立てて床に落ち、目が後を追う。
写真には、妻と、子供と、知らない男が肩を寄せて笑っている。
唖然としている胸を突き飛ばされ、隣の部屋へ転がり込む。
床に手をつき、顔を上げると仏壇が目に入り、
その傍らに、記憶より汚れ、履きつぶされた小さな靴が置かれていた。
掴みかける男を振り払うと、背中に強い衝撃が走る。
振り返り、すぐ近くで見た妻は、両手で汚れた包丁の柄を握っていた。
口から空気が漏れ、床に頬が触れる。
小さな靴へ、伸ばした手は空を切り、
やがて動かなくなった目は、それでも、その靴を見つめていた。




